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放送通訳者直伝!

第250回 手書きの礼状から感じたこと

通訳学校で指導をしていてよく受ける相談があります。それは「どのようにメモを取るか」「どうすればすべてきちんと拾えるか」です。

メモ取りに関しては正直なところ、私も何か良い秘訣があったら知りたいところです。と言いますのもノート・テイキングにおける絶対的正解がないからです。もっとも、通訳という行為自体、「これが正解でこれは間違い」とは言い切れない世界のようにも思います。極端な話、100人通訳者がいれば100通りの訳語があっても良いからです。要は話し手が伝えたいメッセージを最大限くみ取り、それを最も効果的に聴衆に理解していただくための言語変換をするのが私たちの最大使命ということになります。

その「最も効果的」という基準も実は難しいですよね。私自身、最近興味深い経験をしましたので、そのことに改めて気づかされました。その出来事とは次のようなものでした。

私は毎年年末になると、ささやかながらNGOに寄付をしています。CNNの放送通訳をしていると、日本という国に暮らせる偶然の恩恵が非常にありがたく思えるからです。確かに日本国内にも課題はたくさんあります。けれども世界を見渡せば紛争や経済的混乱、社会インフラの未整備などが見られる国がたくさんあります。そうした状況と比べれば、日本で安心して生きていけるというのは大きな恵みだと思うのです。その感謝の気持ちを込めての寄付でもあります。

つい最近のこと。そうした援助団体の一つからダイレクトメールが届きました。あるプロジェクトが緊急で実施されており、それへの寄付金を募る内容でした。何かお役に立てるかもという思いでDMを開封し、後でじっくり見るためにファイルに入れておきました。その団体から電話があったのは10日後のことでした。

スタッフの方はとても丁寧で、日頃の援助に感謝する旨をおっしゃっていました。ただ、その日あいにく私は仕事に出る直前だったのです。「お時間よろしいでしょうか?」と言われましたので、「出かける前なので1、2分でしたら」と私は答えました。

ところが前置きから始まり、「新たな寄付をお願いしたい」という本題に入るまで、結構手間取ってしまったのですね。おそらく「電話口で話す内容マニュアル」が先方にはあり、その通りにスタッフの方はおっしゃっていたのでしょう。ですので、そのスタッフさんに非があるわけではありません。ただ、何しろタイミングが悪かったと思います。

いよいよ時間切れという段階で、申し訳なく思いつつ私はこうお伝えしました。「すみません、今から仕事に出かけますので、先日頂いたダイレクトメールを私の方で拝見して、何かありましたらこちらから改めてご連絡したいのですがよろしいでしょうか?」と。これでようやく電話でのやり取りが終わりました。

そういえば、別件で次のような経験をしたことがあります。まだ会社員の頃だったのですが、とある企画を先方の会社と詰めていました。うまく行きそうに見えたのですが、最終的には先方の上司からゴーサインが出ず、立ち消えになることが決まったのです。その時、先方の担当者はお詫びの品とお手紙を送ってきてくださいました。わざわざ労をとってまでそうしてくださったことにとてもうれしく思ったのですが、開封して少し違和感を覚えてしまったのですね。

と言いますのも、お詫びの品に添えられた手紙はワープロ打ちで数ページにわたっており、企画がボツになった理由が延々と述べられていたのです。私は社会人になりたての頃、お詫びやお願いに関して先輩から次のように教わっていました。「お願いやお詫びは自分の誠意を見せるものである。だからできれば直接会って伝えること。会うことが難しいなら電話で自分の声で伝えること。それも無理なら手書きの手紙にすること」というものです。ワープロ打ちの手紙やメールというのは、順位としては最下位にあると言われたのです。

お願いやお詫びに関してそのようなことを考えていた数日後、今度はある雑誌社から小包が届きました。私が寄稿した記事の掲載誌が中には入っていたのですね。雑誌の中には封筒が挟まっており、きちんとあて名書きがなされていました。挟んであった個所は私の掲載文のページで、そこには付箋紙も貼られていたのです。封筒を開けると、縦書きの便箋に丁寧な字でお礼文が綴られていました。

その雑誌社はコンセプトのしっかりした媒体物を作っており、世の中の流行が動いてもぶれることなく、その哲学を大事にしながら発行を続けています。栄枯盛衰の激しいマスコミ業界において、その姿勢を維持するだけでも大変なことでしょう。けれども今回のお礼状1枚から、その会社の編集者たちが自らの仕事に誇りを持ち、業務に勤しんでいる様子が想像できたのです。こうした会社のお役に立ちたい、この企業の応援をしたいとそのとき強く思ったのでした。

相手に何かを伝える際、何が最も効果的かは悩むところです。伝える側と受け手の温度差も当然あることでしょう。けれどもメッセージを発する側が、受ける側の気持ちを徹底的に考え、自分がどうすべきかをしっかりと熟慮することが、実は最大の正解ではないかと私は考えます。

通訳行為も同じです。「自分がすべて拾えて訳せたからOK」ではなく、どうすれば聴衆に最もよく理解していただけるか。お客様の立場に立った仕事ぶりが評価の最大ポイントだと私は信じています。
(2016年3月7日)

【今週の一冊】

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「考えない台所」 高木ゑみ著、サンクチュアリ出版、2015

私の読書形態はどうやらムラがあるようです。古典に凝るとそればかりを読むようになり、ビジネス本に関心が出れば書店でもそのコーナーばかりを覗きます。昨年秋はもっぱら文庫本にこだわり、文庫本の棚だけを眺めては買っていました。いわゆるマイブームですよね。

そんな状態が続いていたのですが、なぜか今年に入ってから読書量が落ちました。取り立てて理由があるわけではありません。ただ、手軽に読める自己啓発本は、何となく急き立てられるようで敬遠するようになり、食指が動きませんでした。かと言って文庫本コーナーも新しい著者が多く、昔の作家の本はなかなかありません。そのような理由から「本を読まない期間」が続いていました。

通訳の仕事をする以上、広く浅く、いえ、できれば広く「深く」物事を知ることは大切だと思います。本も「常に読んでいる状態」であるのが理想です。出かけるときも読みかけの仕事関連本をカバンに入れ、趣味の本も一緒に入れてメリハリをつけた読書をこれまではしてきました。それなのに、この「活字吸収量激減」と来たわけですので、我ながら不思議です。

今回ご紹介する一冊は、そんな記念すべき(?)「読書復活第一号」と言えるかもしれません。「考えない台所」というタイトルに惹かれて買いました。書店の棚に平積みされており、何か訴えるものを私は感じたのです。オビには「一日中、ずっと料理のことを考えていませんか?」という問いかけ文があり、私の心を揺さぶりました。と言うのもその答えがまさに「イエス」だったからです。私の場合、朝食の片づけをしながら夕食の献立を考えており、仕事に向かう際もメニューのことを思い描いてばかりいました。帰り道には野菜の切り方やその順序までシミュレーションしていたほどだったのです。

本書はそんな「頭の中は一日中料理のことだけ」という人向けに書かれたものです。献立の立て方や台所に何をどう置くか、整理収納に至るまで詳しく説明されています。著者の高木さんはシンク回りやコンロ回りにモノを一切置かないそうで、私も同じ考えだったことから、とても共感を抱きました。

中でも参考になったのは、調理の際の手順です。料理を始める前に、切った食材を入れる容器を何個も出しておくことや、味見用のスプーンを10本ぐらいセットしておくことなど、私には目からウロコでした。実際そのようにしてみると、台所内での動線を大幅に省略できますので、動きに無駄がなくなったのですね。必要なものをあらかじめ出しておき、右往左往しないことが時短につながることを改めて感じました。

もう一つ高木さんが紹介していたエピソードでお寿司屋さんの話がありました。板前さんはお寿司を握ってはまな板を拭き、次の食材を出してからも拭いてと頻繁に目の前を拭いていますよね。これも私には参考になりました。なぜなら、私の場合、電子レンジで温めたものを作業台に出そうとしたら台が濡れているということが頻繁にあったのです。これではせっかく温めたお皿も濡れて冷めてしまいます。けれども濡れたらすぐふきんで拭くという習慣をつけておけば、何かを置く際にもすぐに堂々と(?)置けますよね。

こうした小さな、そして大切なヒントが満載の一冊です。 


第249回 最善策を考え続ける

随分前に「マーフィーの法則」に関する本がベストセラーになりました。失敗が起こる際、さらに悪いことも付随して起きたり、立て続けに嫌なことに直面したりという様子を指します。

たとえば歩行者用青信号が点滅しているので急いで渡ろうと走り出した途端、携帯電話を道路に落としてしまった、しかもその日は雨上がりで道路が濡れていた、屈んで拾おうとしたら白いコートの裾を泥道に引きずってしまったという具合です。

先日の私も似たようなことがありました。

通勤時に座席に座って眠れたまでは良かったのですが、降車駅に到着した際慌てて立ち上がり、どうやらそこで大のお気に入りのイヤリングを落としてしまったのです。気づいたのはその電車が出発した後でした。ホームから滑り出した電車を横手で見ながら歩きつつ、耳元を触った時です。「あ、落としてしまった!」と思ったときには後の祭り。このピアスはひっかけ型の大判で、首元にスカーフなどを巻いているとその厚みで持ち上がり、ピアスごと外れてしまうことがこれまでもあったのです。以前も何度かそのピアスがなくなりかけたことがありましたが、幸い奇跡的に見つかるということを繰り返してきました。スカーフの中に紛れていたり、運よくコートのポケットに滑り落ちていたりということがあったのですね。

ところが今回は違いました。どこをどう探しても見当たりません。大好きな一品でしたので、片方だけの喪失感は大きいものでした。しかも私の場合、仕事でイヤリングを付けているというのは「お仕事時の制服の一環」的な位置づけとなっています。残った片方だけを付けたままにするわけにはいきませんので両方外さねばならず、そうなると耳周りがスカスカしてしまい違和感を覚えたのでした。

ここから得られる教訓はいくつかあります。

まずは落ちやすいピアスであれば、ストッパーを別途購入して付けるということが最大の落下防止策でしょう。それ以外としては、それこそ数分おきに耳周りを確認するしかありません。特に私の場合、ガンガン外を歩くのが好きですので、歩いている途中であってもピアスの有無を適宜チェックすることが必要となります。とにかく「落とさない」工夫を自分なりに考えねばなりません。

では落ちてしまったらどうするか。
これはもう事実として受け止め、損失そのものへの心のダメージを最大限に食い止めることが求められます。なくしてしまったことを悔やまない、あれこれ考えすぎないということがあって初めて、目の前の仕事にも集中できるからです。

通訳の仕事も同じです。「ああ、あの単語が訳せなかった。どうしよう?」と悔やんでも、じっくりと訳語を練り直すことはできません。翻訳であれば辞書を引き比べたりインターネットで探したりすることができますが、通訳の場合、そうした時間的余地はないのです。訳せなかったという後悔に引っ張られることなく、次にできる最善策は何かを常に常に考えることが必須となります。

同時通訳者の頭の中というのは、訳語選びと瞬発力に加えて「最善策を考え続けていること」なのかもしれません。
(2016年2月22日)

今週の一冊

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生きづらさからの脱却:アドラーに学ぶ」岸見一郎著、筑摩選書、2015年

ビジネスや心理学の世界には流行があるということを書店めぐりのたびに思います。数年前にはドラッカーが大流行となり、少し前はピケティが注目を集めました。最近では内村鑑三、アドラー、広岡浅子に関する本が目立ちますよね。テレビドラマや教養番組など、そのきっかけは様々なようです。

アドラーの名前は聞いたことがあり、アドラー自身の本も昔読んだことがありました。けれども今回あえて手にしたのはアドラーの著作をどう解釈したか、専門家がとらえた一冊です。岸見一郎氏はベストセラー「嫌われる勇気」という本で知られています。

「選書」もここ数年で出版社がずいぶん増えました。かつては単行本、文庫、新書がメインでしたが、新書より少し大きいサイズでソフトカバーの選書も最近はよく見かけます。新書よりも専門性が高く、より学術書に近い位置づけになっているようです。

岸見氏によれば、人間が抱く悩みの根本にあるのは「対人関係」であり、その起因となるのは人の持つ「虚栄心」だとしています。人は一人で生きていくことはできませんので、必然的に他者と関わって暮らしていきます。そこに喜びや愛情が生じる一方で、悩みや苦しみも他人との関係から生じるのです。「自分は自分、人は人」と割り切れれば多少の悩みも気にならなくなりますが、自分の心の中に潜む虚栄心が自分を苦しめてしまうというのですね。

悩みにぶつかると私たちはつい過去を振り返り、「あのときああすれば良かった」「あの人がこうしてくれさえすれば」と考えてしまいます。けれどもアドラーの考えに基づけば、過去や生育などはさほど関係ありません。大事なのは「これからどうするか」ということだけなのです。

私の敬愛する慈善活動家・佐藤初女先生は「今、ここが幸せ」と著作で説いておられます。初女先生の考えも、「過去をあれこれ思い悩むのではなく、今を見つめ、これからどう生きていくか」ということなのでしょう。

本書を読んだ第一の感想。それは頭を後ろに振り返らせて過去を振り返りがちなメンタリティに対して、頭をグッと抑えられて「はい、前向いて!」と言われたような感覚でした。


第248回 落ち着いて最善策を考える

先日のこと。ある機関誌のインタビューを夫婦で受けました。英語教育に関するものです。我が家は夫婦そろって同業者であることから、これからの世代にどういった英語の学習が必要か、親が子どもにできることは何かということが事前の質問項目の中には盛り込まれていました。私たち夫婦の話が少しでもお役に立てればという思いがあったことから、インタビュー当日に先方の事務所へ行くことを私は心待ちにしていました。

前日に夫婦で質問項目をおさらいし、限られたインタビュー時間をどのようにして有効にするか確認しました。私は当日、放送通訳シフトがあったため、オフィスの入口で主人と待ち合わせることにしており、早朝勤務に出かけたのでした。

ところがいざ、放送通訳シフトを終えて先方オフィスの最寄り駅に着いた時のこと。オフィスの住所などの詳細ファイル一式を主人に前夜、渡していたことに気づいたのです。私はスマートフォンもモバイルPCも持っていないため、自分のメールを確認することができません。駅まで到着できたのに、オフィスまでの道のりがわからないという状況に直面しました。

さあ、困りました。ただ、前日の主人との話し合いで「じゃあ、明日は10時半にビルの1階でね」と言ったことは覚えていました。そのとき私が口にしたビル名も何となく記憶に残っていましたが、確信は持てなかったのです。うろ覚えという状態だったのですね。

早速そこの最寄り駅に着くや主人の携帯電話に連絡しましたが、留守電になってしまいました。電車内なので出られなかったのかなと思い、今度は携帯メールを送りましたが返事がありません。これはもしや携帯電話を忘れて自宅を出たのではと思い、あきらめました(なぜか主人は時々携帯電話を自宅で「お休み」させたまま外出することがあるのです!)。

最寄り駅まで到達できた以上、あとは何とかそのオフィスを探し出すしかありません。まずは駅改札口外にあるローカルマップを見てみました。しかしそのビル名までの記載はありませんでした。次に私がとれる方法としては、「ネットカフェに行き、自分のメールをチェックすること」か、「NTTの番号案内104に電話をして、その会社名とうろ覚えの住所を伝えてビル名を教えてもらう」かでした。

このような具合に選択肢をあれこれ考えながら駅の階段を降りると、なんと交番があるではありませんか!そこで恐る恐る「うろ覚えのビル名」をおまわりさんに尋ねてみました。すると「あ、すぐそこのビルですよ」という回答が。まさに正面にあったのです。早速入口まで行ってみると、幸い主人が立っており、無事合流することができました。本人に顛末を伝えると、「あ、ごめーん、ケータイ忘れてきちゃった」との回答が。でもこうして時間に余裕を持って会えたのですから万事OKです。

今回私がこの経験から得た教訓はいくつかあります。まず、「先方の電話番号は手帳に書き写すこと」です。何かあった際、電話番号さえわかっていれば連絡がつくからです。2点目は、「出発前に地図で場所を確認すること」が挙げられます。着いてから探すのではなく、しっかりと地図上でチェックしておけばより安心だと感じました。そして3つ目は、「どうすれば最小限の時間で解決できるかを冷静に考えること」です。今回、主人と連絡が付かず、住所も持ち合わせずで一瞬パニックに陥りそうになったのですが、「どーしよー、どーしよー」と言っているだけでは前に進めません。まずは心を落ち着けて、最善の方法を考えることが大事なのですよね。

私は東日本大震災で携帯電話が電池切れを起こして以来、機械「だけ」に全面的に依存することにどうしても抵抗感があります。デジタル社会は本当に便利ですが、それが使えなくなったとき、あるいはそういう環境に身を置けないときにどうするかを、今回の顛末で訓練できたように思います。

(2016年2月15日)

今週の一冊

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「The Little Book of Common Sense」 Terry Wogan, Orion Publishing 2014

子どものころ、私は父の転勤でオランダとイギリスに暮らしていました。英語がまったくわからなかったこともあり、当時の私にとっての慰めは「音楽」。クイーンやデビッド・ボウイ、アース・ウィンド&ファイアーやクリフ・リチャードなど、色々なアーティストの音楽をラジオから聞くことは私にとって喜びでした。今のようにインターネットもなく、日本から入ってくる情報も少なかった分、目の前にある限られたエンタテインメントをどう楽しむかを子どもなりに工夫していたのかもしれません。テレビやラジオの音楽番組のおかげでクラスメートと共通の話題ができ、それが仲良くなるきっかけにもなりました。

今回ご紹介する本の著者はイギリス国民から愛されたDJのTerry Wogan氏です。BBC Radio 2の司会者として長年看板番組を持ち、多くの音楽を世に紹介してきました。私自身、子どもの頃よく彼の番組を聞いていたことを思い出します。他にもBBCが放映するチャリティーショーのキャストを務めたり、インタビュー番組でゲストと楽しいやりとりを繰り広げたりということで知られていましたが、残念ながら先日、ガンにより77歳で亡くなりました。イギリスは今年に入ってからデビッド・ボウイに続いてウォーガン氏も亡くなったことから、国民的財産の訃報を人々は悲しんでいます。

ウォーガン氏はアイルランド生まれ。ラジオから聞こえてくる英語も少しクセのある発音でした。けれども独特の話し方と温かみのある声は、ラジオであっても耳にすればすぐにウォーガン氏であることがわかります。CNNの放送通訳で先日シフトに入った際、その訃報が流れたのですが、若かりし頃のウォーガン氏の映像には、口角を上げてにこにことラジオマイクに向かって話す姿が映し出されていました。自分の仕事への愛があるからこそ、あのような穏やかさが自然と出ていたのでしょう。

本書は氏が綴った人生訓のような一冊です。130ページほどの手のひらサイズの本で、イラストはSimon Pearsall氏によるもの。このイラストレーターの風刺画はイギリスではよく目にするので、私にとってはうれしかったですね。

さて、読みやすいサイズの本ではあるのですが、ウォーガン氏出身のアイルランドやイギリスのユーモアを根本から理解していないと、なかなか難しい一冊でした。何となくこういうことを言いたいのかなということは想像できるのですが、掛詞や連想などを知っていてようやく100%解釈可能という感じがします。

ユーモアを理解するというのは、その国の歴史や文化・風習などをトータルで知っておく必要があるのですよね。英語力だけでなく、教養面でまだまだ知らないことが自分にはあるのだと気づかされた一冊でした。


第247回 すべてが学びの対象に

通訳の仕事を始めてからずいぶん年月が経ちましたが、今でも未知の単語に出会うとワクワクします。放送通訳の現場では素早く訳出するため、目はテレビ画面を見つつ耳で英語の音を聞き、同時通訳をしつつ不明単語を電子辞書で引くということもします。そんなあわただしい現場の仕事から一歩離れると、私は辞書をすぐに引くことをあえて控えます。なぜなら「すぐに単語の意味を知ってしまうのは何だかもったいない!」と思うからです。

単語の綴りを見て「こういう接頭辞があるから、医学用語かな?」「この接尾辞から推測すると、職業を表すのかも」という具合に、あれこれ空想するのが私にとっては楽しいひとときなのですね。自分なりに想像力を働かせて考えるという行為そのものが、私にとっては強烈な経験記憶となります。考え抜いてようやく辞書で意味を知ったとき、私は「そうだったんだ!こういう意味だったとは!」というオドロキと喜びで満たされます。単語に出会ってから意味が分かるまでの時間が長ければ長いほど、そして考え抜いていればいるほど、調べたときの正しい語義が私の記憶に残っていくのです。

通訳者や翻訳者、あるいは語学教師など、ことばを生業とする者は「ことばへの愛」があるべきだと私は考えます。過日の新聞報道で中学3年生の全国テストの結果が出ていましたが、点が低い生徒ほど英語嫌いの割合が高いことがわかりました。人間誰でも得手不得手がありますので、万人が英語に熱い思いを抱くことは不可能かもしれません。けれども、教師がことばの素晴らしさや英語にかける熱意を教室で発揮できれば、生徒も感化されるのではないかと私は考えます。しかし今の日本の教育現場を見ると、部活指導や事務処理、保護者対応など、授業以外の仕事に現場の小中高教員たちは直面しています。タブレット端末の導入やオール・イングリッシュなどももちろん大事でしょう。けれどもまずは体力ギリギリのところで仕事をしている現場の先生方が、本来の「指導」に集中できるような施策を行政はとるべきだと私は思います。

話を「ことば」に戻しましょう。

日本にいる限り、普段から24時間英語漬けという環境の人はそう多くありません。家族が英語圏出身であれば話は別ですが、大半の日本人にとっての日常生活は「英語を話さなくても済む環境」です。私自身、よほど意識して英語に触れようと思わない限り、どんどん英語力は退化していきます。放送通訳の仕事も英語から日本語への一方通行の訳出ですので、自分で英文を書いたり、英語で話したりという作業を意識的にしていく必要があります。

そのような中、最近凝っているのは「商品パッケージ」の英訳です。と言っても、あまり厳しく体系的に取り組んでいるわけではありません。パッケージに書かれているキャッチコピーを自分ならどう英語に直すか考えてみるにとどめています。たとえば、あるコーヒーには「ふくよかな味わい」とパッケージ上にありました。私にとって「ふくよかな」というのは「肉体的にふっくらとした」というイメージの方が強かったので、新たな日本語の用法を知ることとなりました。一方、このフレーズから味わいと味の違いも気になりました。こうして一つのキャッチコピーから様々なことを考えて調べてみるのです。

他にも食品パッケージを見ると「深い香り」などといったフレーズがあります。これなども「香り」を和英辞典で引くとaromaやscent, perfume, smellなどが出てきます。そこでそれぞれの用法を読むと、食べ物、特にコーヒーやワインであればaromaを使うことがわかります。smellは悪臭というニュアンスがありますものね。

「一粒で300メートル」「1粒で2度おいしい」「やめられない、とまらない」「お口の恋人」など、日本には多様なキャッチコピーがあります。日本語の場合、主語がなくても誰が主体なのか私たちはわかりますが、これを英訳する場合は主語と動詞を明確にせねばなりません。これらを自分なりに翻訳してみると、なかなかchallengingであることがわかります。

このような具合に辞書をあれこれ引いたり、色々と考えたりしながら、私はことばの世界を楽しんでいます。すべてが私にとって学びの対象です。

(2016年2月8日)

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「いじめられっ子のチャンピオンベルト」 内藤大助著、講談社、2008年

内藤大助さんと言えば私にとっては某住宅メーカーのCMという印象があります。実はあまり格闘技をテレビなどで見ないので、そちらでの活躍は存じ上げていなかったのです。けれどもNHKの「ラジオ深夜便」で内藤さんがインタビューに応じているのを聞き、そのお人柄にすっかり惹かれたのでした。

本書には内藤さんの生い立ちから現在までが描かれており、読み進めるとなぜボクサーになったのかがわかります。実はボクサーになったきっかけは中学校時代のいじめだったのでした。肉体的にも精神的にもズタズタにされるという北海道時代の記述は壮絶です。上京しても心の傷は癒されず、何とかしようとボクシングジムの門を叩いたそうです。

その後、結婚もしてお子さんも生まれ、本人の努力がようやく報われます。世界チャンピオンの獲得です。アルバイトで家族を養いつつ練習に励み、紆余曲折を経てきた様子は淡々とした文章ではあるものの、読む者の心を動かします。「ラジオ深夜便」での受け答えは実に温厚で、本当に苦労した人ほど、控えめになる様子が感じられました。

本書の最後には次のように綴られています。

「センスのある人間は、たとえ教えてもらっていない技術でも、なんとなくの感覚で自分のモノにしてしまう。
 でも、僕にはそれができない。だから、見て、覚えて、考えて、一つひとつをモノにしていくしかないのだ。今までずっと、そうしてやってきた。
 自分には、そうしたセンスがないから努力するしかない。」

どんな世界でも真剣に生きていくためには本人の努力が不可欠です。才能やセンスよりも、とにかくコツコツと努力することの大切さを本書から私は感じ取ったのでした。


第246回 好みはひとによりけり

通訳の仕事をしていて常に考えることがあります。それは「どのような通訳が正しいか?」という問いです。これまで私たちは学校で「答えのある勉強」をしてきました。定期テストであれば「この答えを書くことで点がもらえる」というものですし、資格試験の4択問題なら答えの数もたいてい1つと決まっています。「解あり学習」に私たちはずいぶん親しんできました。

けれども人生を歩むにつれて、答えは必ずしも一つではないという場面に直面します。悩みが生じた際、Aという選択肢もあれば、Bという方法をとることもできます。どちらも本人にとっては正しくもあり、今一つのようにも思えてしまいます。Aをとったことで、排除した選択肢Bへの未練も残るでしょう。「ああしておけば良かった」「いや、これで良かったのだ」と心の中でせめぎ合いがおきます。

「解あり学習」の場合、「2+2」の答えは「4」と決まっています。しかし「4=A+B」の際、AとBは「1+3」にもなり得れば「4+0」も考えられます。複数の考え方が可能なのです。これが「人生における選択肢」と私は考えます。

通訳も同様です。一つの単語はいくつかの訳し方がありますし、訳出文章の組み立て方にも絶対的な正解はありません。聴衆によっては「全訳してほしい」という方もいますし、「早口では聞きづらいから取捨選択してわかりやすいアウトプットの方が良い」という考えの持ち主もいます。「高い声の通訳者より、低い声の方が心地よく聞こえる」という人もいるのです。ゆえに通訳に対する評価は非常に難しいのですよね。

これは芸術作品も同様です。私はクラシックコンサートが好きでたまに出かけるのですが、感動のあまり涙が出そうになったコンサートに対して音楽評論家が後日、厳しい文章を寄稿したのを読んだことがあります。一方、今一つと私が思った演奏に対して絶賛の声が上がることもあります。

これはひとえに「好み」だと私は思うのです。人間の顔がそれぞれ異なるように、物事への感じ方も人次第です。だからこそ人類はその多様性のおかげで進歩してきたと私は考えます。何もかもが画一化・均一化されればそこから創造の自由は生まれません。技術や価値観の発展も難しいのではないでしょうか。

しかし、多様性や個性が大事だという考えが存在する一方で、人と異なることを嫌うのも人間の特徴です。最近の書店には「愛されるための○○」「好かれる△△」という具合に、「こうすれば他者からちゃんと評価されますよ」というスタンスの本が目立ちます。皆が皆、そのメソッドを追えば、それこそ画一化してしまうように私は思ってしまうのです。

もちろん、通訳者や芸術家は聴衆が期待する内容から極端にそれてはいけません。それではお金を払ってくださる消費者の信頼に応えないばかりか、サービス提供の精神から外れてしまいます。機械で同一製品を生産するのとは異なり、「人間」がじかに提供するものには誤差が生じうるのです。万人受けするものを生み出すことは難しいのです。

今の時代、インターネット上にはあらゆるものが「評価」の対象となります。書籍レビューしかり、グルメ情報しかり、掲示板で取り上げられるコメントしかりです。誠意ある意見もあれば、建設的意見からかけ離れたものもあります。大事にしたいのは、「人の好みはその人次第」ということ。自分の意見が大半と異なることを気に病む必要もないですし、自分に対して何か言われたとしても、それは相手の考えと割り切ることも大切だと思うのです。

要は「自分の意見」を大切にすることだと私は感じています。その「自分の意見」が自分を支える哲学になるのです。通訳の際にも私は自分の業務哲学を大事にしながら聴衆の理解度を最優先したいと考えています。

(2016年2月1日)

【今週の一冊】
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「されど鉄道文字 駅名標から広がる世界」 中西あきこ著、鉄道ジャーナル社、2016年

通訳の仕事をしているためか、「ことば」そのものへの興味があり、英語以外の言語や文字などに惹かれます。アルファベット以外にも世界にはたくさんの文字があり、解読できない文字ほど私にとっては神秘的です。

一方、文字のデザインやフォントなども見ていて飽きることがありません。イギリスに暮らしていたころ、ロンドンの地下鉄で使われているフォントについて知ったことがきっかけで、交通機関や公共施設、道路標識などの文字に注目するようになりました。

本書が取り上げているのは、日本の鉄道で使われている文字です。駅名が書かれているプレートを「駅名標」と言い、これはJRの場合、すべて統一されています。この文字は国鉄時代に始まり、「すみ丸角ゴシック体」と名付けられました。今や私たちにとって身近な風景の一部となっていますが、どの駅もこれで統一が図られているのです。

しかし、今の字体に至るまでは紆余曲折がありました。表記方法がバラバラだったり、書体もいろいろだったりしていたのです。本書の中で著者の中西氏は昭和21年の「鉄道掲示の栞」の一節を次のように紹介しています。

「親切丁寧であるといふことは何時いかなる時でも必要なことである。(中略)掲示も親切の心懸けがなければ意味を失ふ。乘客のこころになつての掲示でなければ掲示が眼の前にあつても乘客はやはり掛員に訊ねなければ納得できないのである。」

利用者のことを第一に考えていることがここからはわかります。そうした現場の地道な努力があったからこそ、今の書体に落ち着いたのです。サービスというのは自分のためではなく受け手を最優先すること。これは通訳業も同じです。

本書の後半ではロンドンの地下鉄で使われている「ジョンストン・サンズ」の文字についても一章設けています。すでに100年が経った書体です。他国の鉄道文字への思い、そして日本の鉄道文字への愛情がぎっしり詰まった一冊は、実に読みごたえがありました。



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プロフィール

柴原早苗

柴原 早苗さん
放送通訳者、獨協大学非常勤講師。上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。ロンドンのBBCワールド勤務を経て現在はCNNj、CBSイブニングニュースなどで放送通訳者として活躍中。 アルク「English Journal」でBBC Newsを監修した後、現在はNHK「ニュースで英会話」ウェブサイトの日本語訳・解説を担当中。 通訳学校で後進の指導にあたるほか、大学の英語学習サポートルームにて英語学習アドバイザーも務める。 著書に「通訳の仕事 始め方・稼ぎ方」(イカロス出版、2010年:共著)。「放送通訳者・柴原早苗のブログ」を更新中。