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放送通訳者直伝!

第283回 電子辞書あそび

私の知り合いの先生で「携帯電話が苦手」という方がいらっしゃいます。このようなご時世ですので仕方なく持ち歩いてはいるものの、出先にまで電話やメールが追いかけてくるのが嫌なのだそうです。自宅から一歩出たら自分で物事を考えたい、だから何かを引きずられるようなことはしたくないのだとおっしゃっていました。

実は私も同感です。通訳業に携わっていながらいまだにスマートフォンも持たず、モバイルPCも購入していません。ここ数年は放送通訳業にほぼ特化しつつありますので、スタジオ内のPCで間に合っているのが大きな理由でもあります。携帯電話は昔ながらのガラケーですが、私にはこれで十分です。移動時間は私にとって書籍や資料を読んだり、あれこれ考え事をしたりする貴重な時間と今やなりつつあります。

ごくたまに移動中、何もすることがなくなるときがあります。新聞も本も読み終えてしまい、とりたてて仕事準備をする必要もないときなどです。そのようなとき、私は電子辞書を取り出してはもっぱら「遊んで」います。

中でも最近のお気に入りは「例文検索ボタン」の活用です。私が愛用する電子辞書のトップ画面は「複数辞書検索」で、そこには「例文検索」というボタンがあります。これは電子辞書内に搭載されている辞書すべてが検索の対象となります。キーワードを入れればその単語を使った例文が一気に網羅されるのです。

目下私が好んで表示するのは、オックスフォード英英辞典とロングマン英英辞典の例文です。英和辞典の例文も参考になるのですが、英英辞典の場合、学習者でもわかりやすいような英文が練られており、読み応えがあるのですね。

最近検索でハマったのは地名です。たとえばSaitamaと入れたところ、なんとロングマンではprefectureの例文としてSaitama prefectureがありました。ChibaもYokohamaもKawasakiも出ていないのに、なぜかSaitamaだけはあるのです。編集者はSaitamaにゆかりがあるのでしょうか。

これに味をしめて(?)、今度はサッカー・プレミアリーグのチーム名を入力してみました。するとイングランドのArsenalでは例文が24個もあったのです。辞書編者はきっとアーセナルの大ファンなのでしょうね。例文も"Arsenal rules OK"などのスローガンから、他チームとの試合結果を表す例文まで色々と出ています。おおむねアーセナルが「勝った」という前提の文章が見られますので、やはりこの部分を執筆した担当者はアーセナル好きだと推測できます。

かつて私は航空会社に勤めていたこともあり、それではと次に航空会社名を入れてみました。すでに日本から撤退しているギリシャの「オリンピック航空」や、数年前に「英国航空」から「ブリティッシュ・エアウェイズ」に社名変更をしたBAもロングマンには出ています。例文を読みながら「懐かしい~」とつい心の中で歓声をあげてしまいました。

ちなみにロングマンの場合、自動車会社のトヨタやホンダは出ています。メーカーでは日立、ソニー、韓国のサムスンもありました。自分のなじみのある固有名詞や単語を入力して例文を検索する。そしてその例文をきちんと読み、語義も確認することは、自分の興味にのっとった「楽しみながらの英語学習」になると私は感じています。

(2016年11月14日)

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「ビリービンとロシア絵本の黄金時代」 田中友子著、東京美術、2014年

みなさんは書店や図書館を日ごろ活用なさっていますか?「本の調達はもっぱらネット書店」「最近は電子書籍で読むことが多い」など、本との関わり方もここ数年で大幅に変わってきました。本は自分の知らない世界をもたらしてくれる「きっかけ」であり、「知識の扉」だと私は感じます。人それぞれ自分に合った方法で書物と一生お付き合いができればと思います。

以前の私は書店へ出かけても「チェックする棚」はたいてい決まっていました。雑誌コーナーでは最新のタイトルを確認し、あとは興味のある語学コーナーや文庫、新書の棚を見て必要なものを買って書店を後にしていたのです。一方、あまり足を踏み入れなかったのは理工系、法律、文化芸術のエリアでした。もちろん、時間があるときはそうしたところもくまなく見ていました。けれども日々の生活があわただしくなると、そこまで余裕が出なくなってしまったのですね。

ここ数か月は勤務先の大学図書館で本を借りることが増えました。良書がそろっており、コンパクトにまとまっていることから最近はヘビーユーザーです。学生たちのために司書のみなさんが厳選した書物が大学図書館には並びます。よって、棚の間を歩いていても飽きることがありません。

今回ご紹介するのは、そのような「ブラブラ図書館さんぽ」で見つけた一冊です。今月末にロシアの音楽をクラシックコンサートで聞く予定があることから、私の頭の中では「ロシア」と曲名「火の鳥」がキーワードとして常にありました。そのような状態のときというのは、物事もうまくアンテナに引っかかってくれるようです。

ビリービンは19世紀のサンクトペテルブルクに生まれた画家であり、ロシアの昔話絵本で一躍有名になりました。その絵のタッチはアールヌーボーを彷彿させるものであり、細部にまで美しさが施されています。ビリービン自身はロシアの政情不安を受けて一時期亡命し、のちに帰国したそうです。その理由は「金銭的理由」とも「愛国心」とも言われています。

本書はビリービンの絵本原画を始め、グラフィックデザインや舞台芸術の絵など、美しい作品がカラーで掲載されています。絵をじっくり見ると、当時のロシア文化や人々の暮らしぶりがわかります。ビリービンは北斎の浮世絵の影響も受けており、当時のジャポニスムや日露関係などを想像することもできます。

他文化を知るには活字だけの書物が手段とは限りません。こうした視覚的なものからも様々なことを私たちは知ることができるのですよね。


第282回 「身の丈に合う」ということ

大学卒業後に入社した航空会社では、本社研修が入社一年目の社員に課されました。アムステルダムの本社へ出向き、数日間にわたり世界各国から集まった社員と共に座学や現場研修を行います。幼いころオランダに暮らしていたこともあり、懐かしのアムステルダムへ行けるだけでもワクワクしましたね。

当時はバブル経済末期だったためか会社側の羽振りもよく、往復ともにビジネスクラスでした。それまでエコノミー以外に乗ったことがありませんでしたので、ビジネスクラスの食事の質やアメニティの豊かさなどに私は驚きました。特に座席は、私が座っても両側にビジネスバッグを置けるほどの幅です。これは実に快適だと思いました。

けれどもその時、強烈に思ったことがあります。もともと学生時代は貧乏旅行ばかりをしてきた身分です。「こうした豊かさが自分の『当たり前』になってはならない」と自分を制したのです。会社のお金で研修に行かせていただくわけですから、ここはしっかりと学んで帰国し、会社のお役にたてるようにならねばと思いました。また、「本当にビジネスクラスに乗りたいのなら、しっかり働いて自分のお金で乗ること」および「そうしたステータスにふさわしい人格を身につけること」を痛切に感じたのでした。

結局私はそれから1年も経たないうちに留学をめざして転職します。けれども「自分の身の丈に合う環境」については、その後も心の中に強く抱いていました。

一方、通訳者デビューをしてからも、グリーン車やビジネスクラス、ホテルのスイートルームなどを提供されたことがありました。思えばまだまだ日本経済が潤っていたのですよね。通訳業は頭脳労働ですので、仕事を依頼するエージェントさんも通訳者へ色々と心遣いをして下さったのだと思います。おかげで移動中に落ち着いて仕事の準備をしたり、ホテルでは資料を広げて読み込みをしたりと、業務に集中できる環境を提供されたのは本当にありがたかったです。

そうした感謝の気持ちを抱きつつも、それでもなお、自分には身に余るそうした環境に申し訳なさを覚えていたのです。その感覚は今でも私の中で大きく存在します。企業やよその方から素晴らしい環境をお受けすることにはありがたさを覚えつつも、自分でそうしたことを欲するならば、しっかり自分でお金を払おうと思い、今に至っています。

ところで先日、レンタカーを借りました。これまでも家族旅行でレンタカーを利用しており、いつも小ぶりの車を選んでいたのです。けれども子どもたちが大きくなったこともあり、少し大きめの車種を考えました。

今回選んだのは、現在我が家で乗っている車の新型バージョンです。その車は1年ほど前に全面刷新しており、街中でもずいぶん見かけるようになりました。同じ車種でもどのような変化が施されたのかずっと気になっていましたので、今回はこの車を選びました。

我が家の車より少しだけ大型になり、デザインもカッコよくなっています。中に乗り込むと、ハイブリッド車ならではのエコ関連表示があり、車のキーもボタン式。内装も洗練されており、ずいぶん進化していることがわかりました。音も格段に静かになり、スムーズに運転できます。技術の進歩に一家全員驚いたほどでした。

ではすぐに乗り換えたいかと言うと、これまたそうでもないのですよね。今乗っている車はあちこち擦り傷だらけで内装もくたびれています。でも愛着があり、私にとっては「身の丈に合った車」なのです。どうやら私は自分なりの「心地よさ」というものがあり、それに浸れれば幸せなのでしょう。

(2016年11月7日)

【今週の一冊】
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「重機の世界」 高石賢一著、東京書籍、2013年

毎日の生活を続けていると、スムーズに物事が運び、嬉しくなることがあります。かと思うと、何をやってもうまくいかず、嘆かわしく感じることも少なくありません。人間は機械ではないのですよね。照る日曇る日あるのが人生です。

先日のこと。いつも通る道を運転していると、突然渋滞に遭遇しました。普段であればスムーズに車が流れている通りです。いったい何が起きたのかとよくよく見ると、道路工事でした。片側通行になっていたのです。ちょうど夕方のラッシュ時に差し掛かっていたこともあり、なかなか車は前に進みません。

何かに直面した際、私はいつも「3つの選択肢」を頭の中に描きます。一つ目は「打開のために建設的な意見を考えること」です。不満を言うばかりでは前進できません。多少苦言を呈することになっても、それが改善につながるならば勇気をもって前向きな意見を述べるに限ると考えます。

2つめは「我慢すること」です。あえて意見を述べるほどでもなく、その事態が一期一会のようなものであるならば、何も言わずに我慢するに限ります。軋轢を生まず、その時だけ耐えれば何とかなるからです。

以上の二つが選べない場合、「その場を立ち去る」ということも考えます。どうしても耐えられなかったり、そこから離れたりすることが許されるならば、「立ち去る」という選択肢もありだと思うのです。人生は一回しかありませんので、あとは自分の心と体の反応次第ということになります。

話を交通渋滞に戻しましょう。この日私は3つの選択肢のうち「我慢する」を選びました。立ち去ることは前後に車がいたため難しかったからです。また、建設的意見として「工事は夜間にやるべし」などと工事関係者に言うのは、どう考えても無理ですし常識はずれです。裏道を探して渋滞から抜けるという選択もなかったため、「このままガマンしよう」と思ったのでした。

ところがそのおかげで、日頃見慣れない道路工事用機械をじっくりと見物できたのですね。よく見るとタイヤに溝の付いていない大きなローラー車が前後にゆっくりと動いては道路を固めています。近くにはショベルカーもあり、色々な「働く車」が控えています。「へえ~、こうして道路の工事が進むのね」と興味津々で見ていると、あっという間に時間が過ぎました。

今回ご紹介する一冊は、その時の経験がきっかけとなり入手したものです。著者の高石氏は重機の専門家で、都内でショップもお持ちです。本書はたくさんの働く車を紹介しています。サイズや機能、実際の作業現場での様子などが文章と写真で表されており、重機の世界がここまで奥深いのかと魅了されます。考えてみたら、私たちの住む家も、日頃使う道路も、乗っている電車なども、こうした工作機械が活動したからこそ機能しているのですよね。交通渋滞がきっかけで重機の世界を知ることができた、そんな一冊でした。


第281回 「やる気あるわけ?」

先週のこのコラムで、中学2年時に帰国した際のことを書きました。イギリスでは父の勤務先が住宅を用意してくれたこと、また、イギリスの住宅事情が日本より良かったこともあり、当時我が家が暮らしていた家も3人家族にとっては申し訳ないぐらい大きな一軒家でした。ところが真夏の最中に帰国した日本の家は木造の小さな家。エアコンもなく、近隣の道路も狭くて軽自動車しか使えず、しかも隣の藪からは蚊や毛虫が入り込むなど、私にとってはかなりのカルチャーギャップが待ち構えていました。

幸い中学校は家の隣にありましたので、迷わずそちらへ編入しました。イギリス時代は市バス通学だったのですが、バスの運行もメチャクチャでしたので、歩いて1分というのは本当にありがたかったですね。嬉々として2学期の途中から地元公立中学に転入したのでした。

ところが当時はまだ「帰国子女」が珍しい時代だったのです。「2年生にガイジンが転校してきたんだってさ!」という噂が全校に広まり、学年を問わず、大勢が私のクラスに覗きに来ました。廊下からジロジロ見る生徒もいれば、「ガイジンってどこ?え、あの子?日本人じゃん!」などあれこれ話す声も聞こえました。かつて通ったイギリスの学校でも転入当初は「日本人」と珍しがられていたのですが、日本に帰ったら帰ったでここでも見世物状態なのかとショックを受けました。

横浜のその家には生まれてから7歳まで住んでおり、海外へ引っ越すまでは地元の小学校に通っていました。そのため、編入した中学校にも幼馴染はいたのです。幸いその友達のおかげで部活動に入ろうという気持ちになり、早速放課後に見学に行きました。イギリス時代、私は硬式テニスをしていましたので、少しでもそれに近い「軟式テニス部」を入部先に選んだのです。

練習の合間に友達が3年生の先輩をつかまえてくれて私を紹介してくれました。私は先輩に挨拶し、テニス部に入りたい旨を話しました。ところがその時の先輩の返事に、またまた私はショックを受けてしまったのです。その一言とは、

「あなた、本気で軟式テニスをやる気があるわけ?」

でした。

「ええっ?テニスが好きだから入ろうと思って来たのに、『やる気あるわけ?』ってどういうこと?私、何も悪いことしていないのに、どうしてそんな高圧的なの?しかもこの先輩、全然笑ってないし、腰に両手をあてて私のこと睨んでるし。何で?どうして?」

このような疑問で頭の中がいっぱいになってしまったのです。

イギリスの学校に転入した10歳当時の英国は外国人も少なく、日本人というだけで差別されたこともありました。英語がわからないため友達の輪に入れなかったり、先生との相性が悪くてきつく叱られてしまったりということも少なくありませんでした。授業によってはペアワークがあり、奇数クラスでの私はいつもペアを組めずにいました。運動オンチだったため、チーム作りの際には誰も私を仲間に入れたくないという状況だったのです。

そのような経験をしていましたので、「日本であれば同じ日本人として仲間に入れてもらえる」という期待を私は抱いていました。それなのに「やる気あるわけ?」と言われてしまい、「同胞にすら私は受け入れてもらえないのか」と悲しくなってしまったのです。

おそらく先輩としてみれば、大会出場や他部員との兼ね合いもあったのでしょう。「実力があり、調和を重んじ、先輩方に従順で本気でテニスをしたい」という人物を入部させねばという考えがあったのだと思います。けれども「楽しく自由に」というイギリスのスポーツ環境に慣れて帰国した私にしてみれば、上から目線の応対は理解に苦しむものだったのです。

先日、ラグビーの平尾誠二さんが亡くなりましたが、平尾さんも「楽しく、自由に」を掲げてプレーなさっていたそうです。最近でこそ一部のスポーツ界ではそうした考えも受け入れられてきましたが、いまだに「根性論」の根強いところが少なくありません。引退後に「厳しかったし辛かったけど、良い経験になった。でも二度とやりたくない」としていくのか。それとも「自由で楽しかった。アマチュアではあるけれども一生続けていきたい」と思っていくのか。

スポーツであれ英語であれ、このことを私はいつも考えながら指導をしています。

(2016年10月24日)

【今週の一冊】
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「パン・アメリカン航空と日系二世スチュワーデス」 クリスティン・R・ヤノ著、久美薫訳、原書房、2013年

大学を卒業して最初に勤めたのがKLMオランダ航空会社でした。幼少期にアムステルダムで暮らしていたこともあり、オランダへの望郷の念があったのでしょう。就職活動時には、かつて自分が住んでいたオランダかイギリスに関連した仕事に就きたいと思っていたのでした。

KLMで配属されたのは貨物部です。「エアライン=旅客」というイメージが強かった私にとって、車から動物、精密機器から重機に至るまでカーゴが担当していたというのは新たな驚きでした。仕事は刺激的で学ぶことも多かったのですが、もともと文章を書くことが好きだったため、日本語機内誌の仕事に携わりたいと思うようになったのです。周囲や上司にもその旨をアピールしていましたが、なかなか人事と言うのは思うようにならないのですよね。そのうちに留学熱の方が高まってしまい、せっかく入った会社をあっさりと辞めてしまったのでした。就業期間はわずか2年弱でした!

そのような短い年月ではあったものの、私は今でもKLMが大好きですし、航空会社全般に対しての愛着もあります。民間航空のみならず、軍用機などへの興味も尽きません。書店や図書館で本を探しているときも、そうしたトピックの書名が目に入ってくると、つい手に取ってしまいます。

今回ご紹介する本も、そのような思いから偶然出会った一冊です。著者のヤノ氏はハワイ大学で教授を務めるハワイ日系人女性で、本書は日系人としての観点からパン・アメリカン航空のスチュワーデス(今では客室乗務員と言いますよね)に焦点を当てた学術書です。引用や参考文献、脚注もしっかりしており、戦後の日米関係やPAN AMがどういった戦略を念頭に置きながらスチュワーデスを採用していたかが網羅されています。終戦直後の日本人女性に対するステレオタイプ、日本航空とPAN AMの競争、そしてPAN AMの非白人採用に関することまで取り上げられており、多角的にとらえることができます。

PAN AMは1977年に大西洋・テネリフェ島でKLMと滑走路上で正面衝突事故を起こしました。死者数は583人、航空史上最悪の事故と当時報道されています。私もこのニュースはリアルタイムで観たのですが、全速力の2機が真正面から衝突したという内容は衝撃的でした。

ちなみに本書によれば、1967年5月1日号の"LIFE Asia Edition"誌で日本人スチュワーデスが特集されたそうです。1960年代の時点ですでにPAN AMだけでなく、KLMやエア・フランス、カンタスなどが日本人を採用していたのですね。私がかつて勤めていたKLMが本書の中でも何度か出てきており、嬉しい読後感となりました。


第280回 エネルギー分配のこと

 父の転勤で数年間海外で生活し、その後日本に帰国したのは私が中学2年生の時でした。自宅の隣にあった地元中学に入学したものの今一つなじめず、わずか1週間通っただけでギブアップしてしまったのです。幸い、電車とバスを乗り継いだところに帰国子女受入れの公立中学があり、私はそちらに転校しました。良き校長先生、担任、そしてクラスメートに恵まれ、スムーズに日本の中学生活になじむことができたのでした。

 当時はまだ「お受験」なども少なく、中学生で定期券通学は珍しかったと思います。電車に乗ると、私よりも年上の人が圧倒的に多くいました。自分が社会の中でもまだまだ若輩者であることを痛感したことを思い出します。その後も高校、大学を経て社会人になるまで電車を使った通学・通勤は続いたのですが、中学時代のメンタリティが強烈だったためか、「周りはみな年上」という感覚で世の中を見ていたように思います。

 しかしふと気がつくと、「あれ?私より若い人が働いている」という状況になったのですね。駅の職員やお店のスタッフ、病院の医師や看護師さんなど、いつの間にか「私よりも年下が大半」という年齢に自分がなっていたのです。そう、人間は誰もが平等に年を重ねていくのです。

 そのように考えると、自分に与えられた時間には限りがあることがわかります。その有限の命をいかに意義あるものとして生きていくかを私たちは意識する必要があるでしょう。ついつい20代のメンタリティのまま、気力も体力もあるように錯覚してしまいますが、決してそうではないのですよね。

 そう気づいた私は、自分が何を得意とし、どういった分野であれば社会のお役に立てるかを考えるようになりました。若いうちは不得手なことにもチャレンジして視野を広げ、可能性を切り開く必要があるでしょう。けれどもある程度の年齢になったならば、自分が世の中に貢献できる強みの部分に集中をしていくべきなのではと感じます。

 私の場合、英語に関する指導をしたり通訳業に携わったりというのは自分の好きなことです。よってこの分野であれば少しは社会に恩返しできるのではと思います。逆に今、この年齢で「私はクラシック音楽が好き。だからプロのバイオリン奏者になりたい」と思ったとしても、それには限界があります。バイオリンの音色は好きですし、バイオリン曲にも惹かれますが、今の段階で私が練習をしてプロを目指すよりは、もっと別の方法でできることがあると思うのです。たとえば、美しいバイオリン曲を聴いてその背景知識を学び、作曲家の人生について英語や日本語で情報を仕入れる。そしてそれを授業の場で話したり書いたりしてみる。むしろその方が社会に対して早く私のメッセージを伝えることができます。

 近年、世の中ではいわゆる「クレーマー」と言われる社会現象が起きています。納得のいかないことや理不尽なことを体験した際、社会や相手に対して直接自らの主張をしていく行為です。もしそうした訴えをしていくことで世の中が改善されるのであれば、クレーム行為自体にも一理あるでしょう。けれども「クレームのためだけのクレーム」になってしまったり、「自分自身のメンツのためだけの苦情」となったりしてしまうと、クレームを受けた組織や当事者ができる対応にも限界が出てきてしまいます。

 世の中の改善のために建設的意見を述べることは正しいエネルギー分配ですが、執拗に自己主張「だけ」を続けてしまっては、その人自身、自らの限られた時間を奪っていることになりかねません。むしろ、本来その人が傾けるべき得意分野にエネルギーを割いた方が世の中のためになると思うのです。

 今年も残すところあと2か月強。毎年この時期になると、自分に与えられている「時間」を意識するようになります。エネルギーを有効に活用し、正しく分配しながら生きていきたいと思います。


(2016年10月17日)

【今週の一冊】
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「漱石のロンドン風景」 出口保夫著、アンドリュー・ワット著、中公文庫、1995年

 先月から東京・駒場の日本近代文学館では「漱石―絵はがきの小宇宙」と題する展示会が開催中です。漱石と絵はがきをキーワードにしたもので、すでに新聞などでも話題になっているようです。私は昔から「手書き」という行為が好きで、手紙を書くことや旅先からはがきを出すことなどを今でも続いています。そうしたことから、この展示会にはぜひとも足を運びたいと思っています。

 今回ご紹介するのは、夏目漱石がロンドン留学中に何を見聞したかを当時のロンドンの風景からとらえた一冊です。日本のように木造建築がすぐに改修・改築されるという状況とは異なり、英国はレンガや石で造られた建物が大半です。よって、本書に掲載されている建造物は今とさほど変わりません。ロンドン旅行のガイド本として、本書を漱石の観点からとらえてみるのも楽しいと思います。

 ページをめくるとロンドン市内の名所旧跡が漱石の文章と共に紹介されています。また、当時のイギリス人の暮らしぶりを描いた写真や、漱石が下宿探しの広告を出した「デイリー・テレグラフ」紙も紹介されています。当時のイギリスはビクトリア女王の時代。また、現在横須賀に展示されている戦艦「三笠」の進水式がグラスゴーで行われたのも漱石が滞在中のことでした。

 当時の写真をこうしてまとめてみることができるのも本書ならではの特徴です。漱石についてはもちろんのこと、イギリスの歴史や建造物、文化などに興味がある読者にとって実に貴重な作りとなっている一冊です。


第279回 楽しみ追求の旅

私が指導する大学では9月末から秋学期が始まりました。私が学生の頃は「前期・後期」と呼んでいましたが、今では「春学期・秋学期」なのですね。当時の「就職活動」は「シューカツ」、「LL教室」は今や「CALL(コール)教室」です。時代と共に呼称も変わりつつあることを実感します。

学生たちの授業登録もほぼ完了し、我がクラスのメンバーもそろいました。今学期取り上げるトピックは年度初めに決めてありますので、あとは夏休み中に準備しておいた教材を授業で実施するのみです。今期も多くの学生たちに通訳の楽しみ、学びの歓びを伝えられたらと願っています。

教えるということは、実際の指導時間の何倍もの準備を要します。大学の授業は一コマ90分ですが、そのための教材選定に音声の確認、スクリプト上の英文法分析から単語調べや訳出など、教員にとってはエンドレスと思しき作業があります。調べれば調べるほど、学びには奥が深く存在し、「ここまでやれば良し」ということではないのだと改めて感じます。これは通訳準備も同じです。

私の場合、通訳業務に携わるようになってから好奇心の対象がどんどん広がっており、「何だろう?」という思いを常に抱いています。これは仕事に限らず、日常生活でも同様です。それこそ食品パッケージの裏面に書かれた「原材料名」を読んでは「デキストリンって何?」「トレハロースの英語スペルは?」などなど、「調べたいモード」に入ってしまうのですね。

学びというのは、何も机の前でテキストを開くだけではありません。インターネットで調べ物ができなければ学習にならないというものでもありません。学びたいという意欲と心の中の「ワクワク感」があれば、いつでもどこでも、そこが学びの場となります。

たとえば最近の例でお話しすると、今年11月には私が敬愛する指揮者、マリス・ヤンソンス氏がバイエルン放送交響楽団と共に来日します。今回のプログラムはベートーベンの「ヴァイオリン協奏曲」と、ストラヴィンスキーの「火の鳥」です。どちらも聞いたことのある曲ですので、いくつかの公演の中から、このプログラムを選びました。

さあ、ここからが私にとっての「学び」タイムです。これまでもコンサート前にはCDを聞いて予習をしていましたが、今年はもう少し幅を広げて学ぼうと思っています。そこで大学図書館から借りてきたのが「楽譜」です。幸いベートーベンの「ヴァイオリン協奏曲」のスコアがありましたので、そちらを借り、目下スコアと突き合わせながらCDを聞いているところです。音だけでは気づかなかった音符がスコア上には散りばめられていますので、それに意識を傾けると、かすかにCDから聞こえてきます。そうした発見がうれしいのですね。

もう一つは「火の鳥」の由来を調べることでした。広辞苑で「火の鳥」を引くと、ストラヴィンスキーのバレエ音楽でロシア民話を素材とすると説明されています。そこで借りたのが「子どもに語るロシアの昔話」(伊藤他著、こぐま社、2007年)と「ビリービンとロシア絵本の黄金時代」(田中友子著、東京美術、2014年)です。前者は子ども向けに綴られたロシア民話の本で、「火の鳥」のことも書かれています。一方、後者はロシア昔話の絵を描いた画家・ビリービンに関する一冊です。子どもを対象とした易しい書籍を読めば素早く内容を知ることができますし、美しい絵からストーリーをつかめばより理解が深まります。

さらにストラヴィンスキーについて調べてみると、バレエ音楽「春の祭典」が1913年に発表されたものであり、その初演は賛否両論で大騒動が巻き起こったこともわかりました。そこで今度はみすず書房から出ている「春の祭典 第一次世界大戦とモダン・エイジの誕生」(エクスタインズ著、2009年)を大学図書館から借り、目下読み進めているところです。第一次世界大戦からヒトラーの台頭までのことが記されています。

・・・とここまで来ると、今度は手元にある高校生向け世界史図録で第一次・第二次世界大戦当時の世界地図を眺めてみたくなります。図録を開いていると、次は巻末の年表が見たくなりました。そこでページをめくると1910年のところに「ハレー彗星接近で大騒動」と出ています。すると先日映画館で観た「君の名は。」が思い出され、「先日借りてきた『ユリイカ』のバックナンバーは新海監督の特集だっけ。積読になっているから早く読みたいな~」という思いが湧き出てきます。

このような具合に、私にとっての学びは時代や領域を問わず、あちらこちらへと自由に飛んでいます。一つ一つに好奇心を持ってアプローチし、知るたびに新たな知識に感謝する。「楽しみ追求の旅」はまだまだ続きます。


(2016年10月10日)

【今週の一冊】
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"Power Dressing: First Ladies, Women Politicians & Fashion" Robb Young, Merrell, 2011

今年のアメリカ大統領選挙は何かと話題多き展開になっていますね。中でも第一回大統領候補テレビ討論会はなかなか見ごたえがありました。とりわけ興味深かったのは、トランプ候補およびクリントン候補のファッションでした。トランプ氏は共和党であり、党のテーマカラーは赤。一方、クリントン氏の民主党は青がシンボル色です。ところがトランプ氏は青いネクタイを、クリントン氏は真っ赤なスーツ姿で登場したのです。とある新聞記事によれば、トランプ氏は青を身につけることで冷静さを、クリントン氏は赤を使って健康不安説を払しょくさせたのではとのことでした。興味深い分析です。

今回ご紹介する一冊は、政治家やファースト・レディのファッションがテーマです。2011年に発行されています。2011年と言うとつい最近のように思えますよね。当時はまだシリア内戦が始まったばかりで、ISISの台頭も報道されていませんでした。オバマ大統領が就任したのは2009年ですので、まだ2年しか経っていない頃です。ちなみに当時の日本は民主党・菅内閣でした。

本書をめくると、世界中のパワフル・ウーマンが登場します。おそらくファースト・レディや国家元首などになるとスタイリストさんも付くのでしょう。それぞれの個性を引き出しつつ、ファッショナブルの装いがどのページでも見て取ることができます。亡きケネディ夫人やサッチャー首相、表舞台から追われたマルコス夫人や暗殺されたブット首相なども登場します。

興味深かったのは、EU離脱決定後に就任したイギリスのテリーザ・メイ首相です。本書では「内務大臣」の肩書きです。実はこのころからメイ氏の「ヒョウ柄好き」は有名だったのですね。他にも日本からは昭憲皇太后、緒方貞子氏や蓮舫氏なども紹介されています。「ファッショナブルな女性たちからパワーをもらいたい」「職場に着ていくフォーマルな装いについて知りたい」という方にとって、大いに参考となる一冊です。



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プロフィール

柴原早苗

柴原 早苗さん
放送通訳者、獨協大学非常勤講師。上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。ロンドンのBBCワールド勤務を経て現在はCNNj、CBSイブニングニュースなどで放送通訳者として活躍中。 アルク「English Journal」でBBC Newsを監修した後、現在はNHK「ニュースで英会話」ウェブサイトの日本語訳・解説を担当中。 通訳学校で後進の指導にあたるほか、大学の英語学習サポートルームにて英語学習アドバイザーも務める。 著書に「通訳の仕事 始め方・稼ぎ方」(イカロス出版、2010年:共著)。「放送通訳者・柴原早苗のブログ」を更新中。