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放送通訳者直伝!

第333回 First Come First Served

先着順ということばは、フリーランス通訳業において大切です。いったん請け負った仕事がある場合、どれほどその後に魅力的な仕事のオファーが来ても、最初にイエスとお答えした相手の業務をキャンセルするのはマナー違反だからです。「後から来た仕事の方が負担が軽い」「通訳料が高い」「拘束時間が少ない」「自分の得意分野」など、気持ちがそちらに傾く要素がたとえ山のようにあったとしても、とにかく最初に来た仕事を断ることは、自分の信頼に関わります。「バレなければ嘘も方便なのでは?」と思うことすら許されません。狭い業界です。片方をキャンセルしてもう一つを請け負えば、いずれ発覚します。信用を築き上げるのは地道な一歩で長年かかります。信用を失うのは一瞬なのです。

私はデビュー当初、通訳業務前日になって突然どうしようもない不安に襲われ、「もう絶対この仕事はできない」「そもそも私が受けるには難易度が高すぎる」「現場に行ってこんな程度の実力を露呈すればお客様に迷惑がかかる」「私が行かない方がかえってマシなのではないか」と猛烈に思ったことがあります。当時はメールのない時代でしたし、携帯電話も普及していませんでした。連絡先は日中のオフィス電話番号のみです。そちらに真夜中近く、いてもたってもいられなくなり電話をかけたのでした。

コーディネーターが運よく残業をしているのではないか?
大きなエージェントなので、誰か一人ぐらいは残っているはずだ。
とにかくこちらの事情を説明して、降ろさせてもらおう。

「やっぱり私には実力的に無理です。ごめんなさい」と誠意を持って謝罪すれば、エージェントのことだもの、急きょ私などよりうんと実力の高い大ベテランの先輩に依頼して、お客様にも迷惑がかからないはず。

このように思いながら、相手が出るまで受話器を握りしめて待ったのでした。

もちろん、時間が時間でしたから、誰も出ません。私の中では名案も実行不能です。

さあ、こうなると諦めるしかありません。やれるところまで予習もした。最後になってジタバタしてエージェントにも電話をかけた。でもつながらなかった。ならばもう今の状況を直視するしかない。こうなったらあとは明朝、通訳現場へ向かい、勇気を持って出来るだけのことをやるしかないと、良い意味で達観できたのでした。

いざ通訳が始まってみると、夜中までのあの恐怖心は何だったのかというぐらい、スムーズな内容でした。あそこまで恐れることはなかった。大騒ぎした自分は何だったのだろう。あれほど神経をすり減らして夜中の電話に何十分も費やしたぐらいなら、あの時間を勉強に当てればよかったと猛省しました。

もう随分前の体験談ですが、この出来事だけは今でも強烈に覚えています。もしあの時、エージェントが残業中で私の連絡を受け、私がゴネて業務から交代させていただいたら、おそらく私はそれから程なくしてこの業界を去っていたことでしょう。「私には通訳者になる資格などない」「私のレベルとは違いすぎる」「私がいなくても誰かがやってくれる」という具合に、自己否定や他力本願、それと同時に自己正当化をしたと思います。そして何十年経っても「自分は悪くなかったのだ」と言い訳をし続ける人生を歩んでいたはずです。

最初に来た仕事は責任を持って請け負う。
つべこべ理由は言わない。
真正面から真摯に向き合い、全力を尽くす。
それでも失敗したら誠意を持って謝罪し、反省し、再発防止を考える。

この繰り返しを積み重ねるしかないのだと私はあの出来事から教訓として得ました。そしてそれをひたすらひたすら続けながら今にいたっています。

(2017年12月4日)

【今週の一冊】
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「アメリカ大統領百科」 DK社編、大間知知子訳、原書房、2017年

DKとはDorling Kindersley社のこと。色鮮やかな図鑑を発行する出版社として有名です。1980年代には様々なモノの断面図を解説した本がベストセラーになりました。通訳の勉強を始めたばかりの私は、モノを鳥瞰図的に見られるこの図鑑にすっかり魅了され、本来の通訳勉強そっちのけで見入っていたことを思い出します。

今回ご紹介する一冊は、アメリカの歴代大統領を紹介するものです。もちろん、現大統領も取り上げられていますので、まさに最新版の一冊です。また、大統領のプロフィールだけでなく、ファーストレディーのことや、ホワイトハウス、大統領の別荘に大統領の利用するエアフォースワンや各種車両についても説明があります。そうした大統領の使うモノにもそれぞれ歴史があり、歴代の大統領が導入してきているのですよね。そう考えると、どの国であれ、「歴史」というものには重みがあり、その重みの上に今の私たちは生きているのだと思わされます。

ところで10月にイギリスへ出かけた際、知人と数年ぶりに会うことになりました。知人は日本政治に関心があり、歴代首相や日本の選挙など、知識豊富です。しばらく日本に来ていないとのことなので、知人が喜びそうなお土産を持参しようと私は決めました。その頃はちょうど10月下旬の選挙直前でしたので、私は国会議事堂の売店へ向かいました。小さな売店ですが、国会見学者が必ず立ち寄る場所です。覗いてみると、歴代首相の似顔絵が描かれたグッズや食べ物もあります。早速数点買い求めてプレゼントしたところ、満面の笑顔が返ってきました。ちなみに日本の歴代首相の数もなかなかのものです。ご興味がある方はぜひ永田町の売店へどうぞ。

最後にもう一点。放送通訳のニュースではleaderという単語が出てきます。大統領や首相など国家元首を指します。同時通訳の際には、すぐに具体的なタイトルの和訳を付けなければなりません。もう一つ私が難儀するのはpresidentということば。「大統領」「国家主席」「議長」など色々な訳語があります。その都度暗記です。


第332回 健康管理も仕事のうち

大学卒業後、初めて入った会社は毎年一回、社員向け健康診断がありました。日本では小学校から健診がおこなわれており、本当にありがたいと思います。と言いますのも、私が小学校時代を過ごしたイギリスでは健診がなかったからです。

最初の就職先に勤めたのは1年半ほど。その後は小さな事務所に転職したのですが、外国人一人に私一人という組織でしたので、転職を機に国民健保・年金へと移行しました。健康診断も自分で手続きをして受けるようになったのです。

以来、フリーランスで働く現在に至るまで、年1回の健診は欠かせない行事となっています。国民健康保険に加入していれば、地元で健診を受けられます。私が暮らす街では基礎健診とは別に人間ドックもあります。自己負担はありますが、自治体から補助が出るため、通常の費用よりも割安で受けることができます。

さて、通訳者にとって、とりわけフリーランスで働く場合は自分の健康管理も仕事のうちになります。業務当日に向けて体調を整え、ケガや病気にならないように気を配る必要があるのです。声を使う仕事ですので、前日のカラオケ、スポーツ観戦などは私の場合NGです。暴飲暴食を控え、万全の体調にしなければなりません。

私もデビュー当時はまだ体力があり、多少無理をしても踏ん張りがききました。仕事に不慣れな頃は準備をいくらしても足りない気がしてしまい、ついつい夜更かしをすることもありましたね。膨大な量の単語リストを前に「わあ、どうしよう!」と不安になり、寝る間を惜しんで勉強したこともあります。それでも翌日は何とかテンションを高くして臨めたわけですので、要は体力がモノを言う年齢だったのでしょう。

けれども誰にとっても年は積み重ねられていきます。若かりし頃のやり方が通用しなくなります。昔は何ともなかったのに疲れやすくなったり、肩こりや眼精疲労など、PC画面の影響で昔より疲労の蓄積が大きくなったりもします。忙しさにかまけてメンテナンスを怠ってしまうと、後でまとまって体調不良に見舞われます。私も痛い目にこれまで遭いましたので、今では定期的にマッサージに出かけています。

話を健診に戻しましょう。

健診では様々なチェックがなされますが、私の場合、何か一つでも「要経過観察」や「要精密検査」などの項目があった場合、早めに専門医に診て頂きます。心の中に不安を抱えたままでは精神衛生上、良くないからです。健診ではあくまでも平均値に照らし合わせて「要検査」といった結果が出てきます。ですので、専門医で診察をいざ受けてみると、実はさほど心配なしと言われることもあるのですね。けれども油断は禁物ですので、とにかく早め早めに病院へ行くことを私は心掛けています。人間は加齢とともにホルモンのバランスも変わってきますので、「これまでずっと元気だったし、今もピンピンしている」という人でも、やはりきちんと気に留めることは必要でしょう。

さて、通訳のセミナーをしていてよく受けるご質問の一つに「通訳者にとって一番必要な実力は何ですか?やはりリスニングですか?」といった問いがあります。もちろん英語の4技能は全て必要ですが、私の答えは「語学力・知識力・体力」です。その体力維持のためにも「睡眠・運動・栄養・心の元気」は欠かせないと私は考えています。

(2017年11月27日)

【今週の一冊】
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「ドイツのごはん(絵本 世界の食事)」 銀城康子著、農文協、2008年

ある国について知識を深める際には様々な方法があります。インターネットで調べるも良し、知り合いに聞くも良し、書店で文献を読んだりすることも可能です。私はニュースでどこかの国が出てくると、俄然興味が湧いてくるため、その国の料理レシピを検索したり、レストランを探したりしています。

今回ご紹介するのはドイツ料理を取り上げた一冊で子ども向け絵本です。絵本の良い所はカラフルで字が大きく、ページ数が少ないこと。これならサッと読めますので気分的にも楽です。しかも解説が易しく頭に入りやすいのですね。未知の分野について調べる際には私の場合、必ず易しめの文献からあたるようにしています。

本書を読むきっかけとなったのは、ドイツの連立協議が失敗したというニュースでした。ドイツは今や世界情勢において重要なプレーヤーとなっています。そのドイツでメルケル首相の牽引力低下が見られ始めたとなると、一体世界はどうなっていくのか気になります。そのような思いを抱きながら放送通訳をしたのでした。ただ、ニュースで接しただけで終わらせるのはあまりにももったいないと思い、本書を手に取ったのです。

頁をめくるとドイツ料理の特徴や一般的な家庭の様子などが描かれています。ドイツでライ麦パンが発達したのは、かつて野菜が取れなかった時代の名残だそうです。また、台所をピカピカにしている理由も説明がありました。あまり汚したくないという思いから、平日の忙しいときはわざわざ調理をするのではなく、ハムやピクルスなど冷たいメニューで済ませるとも書かれていました。

ところで季節はもうすぐクリスマス。ドイツ名物のクリスマススイーツ「シュトーレン」は、おくるみに包まれたキリストをイメージしたものだそうです。こうした話題を子ども向け絵本から知るのは楽しいですよね。 


第331回 好きなことを堂々と行う勇気

先日インターネットのニュースを見ていたところ、Wall Street Journalのアジア版(紙版)が廃止になり、デジタルに移行したとありました。新聞業界は今、購読者数の減少に見舞われており、廃刊になったりデジタルだけになったりと方針を変えざるを得ない状況です。

私は全体が俯瞰できる便利さから、家では今も紙版の新聞を購読しています。日本経済新聞です。一説によれば紙版の朝刊1部は新書1冊に相当する情報量だそうです。毎日一字一句を読まないまでも、新聞をめくるだけで色々な情報に接することができるのが紙新聞の良さだと思います。

もう一つ、紙新聞の長所は「思いがけない情報に遭遇できること」です。先日もそうした嬉しい出会いがありました。

普段私は自宅でテレビをあまり見ないのですが、イギリスが出てくるドキュメンタリーは別です。最近はBSの旅番組をよく見ています。その日もBSの番組表を日経でチェックしていました。

ふと見ると、DLifeというチャンネルが目にとまりました。このチャンネルはディズニー系の局で、数年前、私はこの局で放送されていたBloomberg Newsの同時通訳に携わったことがあります。私にとってはなじみのある局なのですが、Bloomberg契約が終了したことから、あまり見なくなっていました。

日経に出ていたDLifeの番組表には「ジェイミー・オリヴァー」とあります。イギリスのセレブリティ・シェフJamie Oliverのことです。私は吹き替えではなく原語で視聴したいのですが、この番組は英語でも見ることができました。

Jamieはイギリスの学校給食に革命を起こしたことや斬新な料理法などで知られる大人気のシェフです。話し方もざっくばらんでイギリスの口語表現もたくさん出てきます。肩肘張らないアプローチが特徴です。

今回私が見たのは60分のドキュメンタリーだったのですが、体に良い食材を求めてジェイミーが世界を旅するという内容でした。その日は日本の沖縄も出てきました。地元のご長寿のお宅にお邪魔して手料理をおいしそうに食べるシーンが印象的でした。

番組ではジェイミーが考案したレシピも紹介されました。取材先でヒントを得たジェイミーの料理は決して複雑でなく、自分でも作りたいと思えるような内容です。見ていて何よりも楽しいのは、豪快な作り方そのものです。日本のようにきっちり計量することなく、量も極めてアバウト。調理方法も大胆でした。

私は実はあまり料理が得意ではありません。くたびれて帰宅した日など「外食したいなあ」と思うほどです。けれどもジェイミーを見ていると、とにかく料理が大好きという情熱が伝わってきます。料理というのは堅苦しく考えなくても良いのだというアプローチが私にとっては新鮮でした。

ジェイミーは子どもの頃、学習障害に悩まされていたそうです。けれども自分の好きな料理の道に進み、今やその分野では第一人者です。周りの目を気にしたり、小さくまとまったりしていたら、おそらくその才能は開花されなかったでしょう。

好きなことを堂々と行う勇気。

そのような人生を歩みたいと思います。


(2017年11月20日)

【今週の一冊】
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「イギリスの家庭料理」 砂古玉緒著、世界文化社、2015年

先月出かけたイギリスで、「必ず食べよう!」と思っていたものがあります。スコーン、サンドイッチ、フィッシュ&チップス、キャロットケーキ、カスタードソースがたっぷり載ったスポンジケーキです。いずれも子どもの頃に食べたり大学院時代に寮の食堂で味わったりしたものです。私にとってはノスタルジア料理です。今回泊まったのは大学院時代に過ごした寮(ゲストステイ扱い)でしたので、到着日の夕食には早速フィッシュ&チップスを食べられました。ちょうど金曜日だったのが良かったのでしょうね。その寮は毎週金曜日に必ず魚が提供されるのです。

イギリス料理はおいしくないとかつて言われていましたが、それも随分前のこと。グローバル化の恩恵もあったのでしょう。シェフたちが大いに工夫をしてイギリス料理も洗練されたものに今やなりました。先ほどご紹介したジェイミー・オリヴァーを始め、著名なシェフたちが大活躍しています。

オシャレなModern Britishにも私はもちろん惹かれます。けれどもむしろ1970年代80年代の、かつて「マズイ」と言われていた時代の料理の方が嬉しくなります。パサパサのケーキに金色のカスタードクリームをた~~~っぷりかけて甘くして頂くのもイギリスならでは。日本のティールームで提供される2倍サイズのスコーンも捨てがたいものです。下味がさほど付いていない魚や肉料理にグレイビーソースや塩コショウを振りかけるのも、私にとっては「懐かしいお作法」です。

今回ご紹介する一冊は、イギリスに長年滞在した著者の砂古さんが手がけるイギリスの家庭料理です。前菜からメイン、デザートや保存食に至るまで多様なレシピが並びます。今の時代、インターネット上のレシピサイトが人気ですが、やはりこうして書籍に美しくレイアウトされたものも良いですよね。実際に作るも良し、写真集として眺めるも良しという一冊です。

ところでイギリスの書店にもレシピ本がたくさん並びますが、日本と比べると大型本で豪華旅行写真集のような装丁です。こうした本はcoffee-table bookと言われます。これを見て作るという以上に、リビングのインテリアの一環として飾るのですね。


第330回 思考停止 言訳無用

まるで漢文調のタイトルとなりました。今回は私の失敗談です。

先日のこと。日米首脳会談後の共同記者会見通訳を某テレビ局で担当する機会がありました。予習段階では当日出てきそうな話題を調べ上げ、用語は何度も口に出すことでスムーズな訳出になるよう練習しました。自分としては万全を期したつもりだったのです。当日は少し早めに現地入り。案内されたブースに着席し、マイクチェックが終わればあとは実際の記者会見を待つのみです。緊張感は高まっていましたが、なんとしても視聴者に聞き易い訳出をしようと思い、待機しました。

会見で最初に発言したのは安倍総理でした。ただ、予想以上に音が聞きづらく思えました。映像はきちんと届いていたにも関わらず、です。普段私は英語音声の音量を大きめにしており、それを左耳から聞いています。右耳のヘッドホンはあえてずらし、自分の日本語を右耳から入れるようにするのです。そうすることで、日本語訳の「てにをは」が整合性をとれるよう意識しています。

数分後、アメリカ大統領の発言になりました。いよいよ通訳スタートですが、やはり音量は変わりません。内心「うーん、困った。聞き取れないわけではないけれど、日頃慣れている音量ではない。どうしよう」と思いました。それでも与えられた環境でベストを尽くすしかありません。聞き取れないとしても、文脈や映像上のボディーランゲージなどで判断しながら訳を付けるのみです。ボリュームつまみを上げても改善されず、普段以上に緊張しながらの訳出となりました。

5分経過後、パートナー通訳者と交代しました。隣には音声技術の方がいらしたのですが、私が通訳し辛そうにしていたのを見て下さっており、機材のボタンを調整し、音量を上げて下さいました。その時点で少しは音も大きくなりました。けれども、まだまだ私にとっては物足りません。そこで手元のボリュームボタンをさらにひねると、今度は音が割れる状況に。そうこうしているうちに、また自分の担当時間です。「とにもかくにも、今、目の前に集中して最大限の力を出すのみ」と言い聞かせて何とか会見は終わりました。

終了後、技術の方が「もしかしたら」とのことでヘッドホンを隣のものと交換しておられました。その時点で私はハッと気付いたのです。そう、隣の席には予備のヘッドホンがあったのでした。本番中の私はそれがまったく目に入らず、「聞こえない!でもベストを尽くそう!」と思い込んでいたのでした。完全な「思考停止状態」です。

我に返った私は非常にその日のパフォーマンスを悔やみました。なぜ冷静に隣の机に目を向けて予備のヘッドホンと素早く交換しなかったのか、と。取り換えることより「何とかして聞き取らねば」という強迫観念に押されて、落ち着いて行動することを忘れてしまったのです。

けれども過ぎてしまったことは仕方ありません。プロとして報酬を頂く以上、大変な環境下でも最善を尽くすというのは、どの仕事にも言えます。「音量がイマイチだったからうまくできなかった」というのは言い訳になりません。

デビュー直後の私であれば、しばらく立ち直れない打撃だったでしょう。けれども長年この仕事をしていると、落ち込んだだけでは一歩も進めないことを実感しています。あとは失敗から教訓を編み出し、次につなげるのみです。私は帰路の車内で「なぜそうなったか?」「次回、同じ状況に陥ったらどう行動するか?」をひたすらノートに書き出し、家に向かったのでした。

(2017年11月13日)

【今週の一冊】
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「イギリスの水辺都市再生 ウォーターフロントの環境デザイン」 樋口正一郎著、鹿島出版会、2010年

先日、所用でイギリスへ出かけました。幼少期と大学院、そしてBBC時代にロンドンで暮らした私にとって、イギリスは第二の故郷です。美しい街並み、自動音声がほとんどない静かな環境を十分満喫できました。

飛行機がヒースローに到着したのは午後の早い時間帯で、テムズ川河口から西へと着陸態勢に入る機内からロンドンの街並みが見えました。ロンドン東部はかつて雑然としたところでしたが、オリンピックのお陰で今はモダンな地域になり、活気があります。そうした様子が近代的な建物などから醸し出されていました。特に高層ビルが増えていたのが印象的でしたね。

今回ご紹介する一冊はロンドンやマンチェスター、リーズやカーディフなどの水辺都市を取り上げたものです。古いものを残しながらいかにして新しい要素を取り込んだかがわかります。私は学部時代に都市社会学を専攻していたため、都市計画に興味があります。そうした視点からも十分楽しめる一冊です。

どの場所も個性があり素敵なのですが、中でも注目したのはロンドン東部ドックランズ地区にあるイーストロンドン大学のキャンパスでした。東西に大きく伸びるロイヤル・アルバート・ドックの北側に位置します。大学施設と学生寮が同じ敷地内にあり、ナーサリーも完備しています。完成は2000年で、オランダに見られるような近代的な建物が並びます。私の手元にある1998年の地図では倉庫になっていました。

普通の観光ガイドブックを眺めるのも好きなのですが、「ウォーターフロント」「建築」「都市計画」といったキーワードで旅をするのも楽しいでしょうね。



第329回 価値観の違い

通訳の仕事をしていると、様々な価値観や文化に触れる機会を得ます。日本は真冬なのに薄着でも平然としている海外からのビジネスパーソンもいれば、ノーメイクでもOKという方もおられました。来日前に日本のエチケットを予習してはいたものの、ついつい片手で名刺交換をなさっていた方もいらっしゃいましたね。こうした状況を見るたびに、世界にはたくさんの考え方や重きの置き方があり、「郷に入っては郷に従え」とは言え、細かいことに目くじらを立てるより色々と受け入れる方が良いなあと感じます。

今まで多くの方と接してきましたが、中でも強烈だったエピソードがあります。それは海外の方の商談通訳で、関西へ新幹線で向かっていた時のことでした。

季節は梅雨。東海道新幹線が新横浜を過ぎて静岡県に入ったころでした。あたりは田んぼが広がり、青々とした光景が富士山と共に見えてきたのです。

来日していたのは司法関係の方でした。一面の田んぼを見るや、「サナエ、あの田んぼの周りになぜ柵は無いのか?」と尋ねてきたのです。

「田んぼの周辺にフェンス」という発想自体、私にとって初めてのことでしたので、一瞬答えに戸惑いました。するとその方は続けて「子どもは数十センチの水深でもおぼれて死んでしまう。裁判になったらどうするのか?」とおっしゃったのです。なるほど、訴訟が多い国ならではの考え方だったのですね。

とは言え、私は内心考え込んでしまいました。少なくとも私がそれまで生きてきた間、「田んぼにおぼれて幼児死亡」などという新聞記事を見たことがなかったからです。そこで私は苦し紛れに「日本では赤ちゃんの頃から田んぼが身近にある。親もよくよく言い聞かせている」と答えるのがやっとでした。

その方は私の答えに今一つ納得できないような様子でしたが、少なくとも日本では田んぼの周りに柵は設置しないこと、親子にとってもその状態が当たり前であるという点は理解なさったようです。

こうした異文化間の違いは色々な場面で見られます。たとえば私の場合、小学校時代を英国で過ごしましたが、鼻をすすっただけで友達から「気持ち悪いからちゃんとかんで」とたしなめられたことがありました。その一方、正式な場面で女子全員が胡坐をかくという行為は日本で考えられませんでしたので、面食らったこともあります。ロンドンの大学院時代には、階段教室が満席で階段の部分に直にドカッと座る学生を見て驚いたこともありました。かと思うと、授業中に居眠りをする学生は一人もいませんでしたので、日本との違いを大いに感じました。

このような体験から、「価値観」というのは文化によるものであり、ひいては一人一人の人生哲学によっても異なるのだと思うようになりました。日本にいると、ついつい「同調圧力」を感じてしまい、「自分がこういう言動をとると迷惑なのではないか」「こんな恰好をしたら恥ずかしいのでは」と思い、基準が「自分」ではなく、「他者から見た自分」になってしまいます。もちろん、調和を重んじる上ではそれも大切でしょう。けれどもそうした他者からの目「だけ」に縛られてしまうと自分が窮屈になってしまいます。

価値観の違いを受け入れつつも、自分の思いは大切にして、自分の行動には自分自身が責任を持つこと。

そうした「静かな強さ」も必要だと感じています。


(2017年11月6日)

【今週の一冊】
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「倫敦から来た近代スポーツの伝道師 お雇い外国人F.W.ストレンジの活躍」 高橋孝蔵著、小学館101新書、2012年

数週間前、東京国際フォーラムで大正時代のスポーツに関する映画を観ました。記録映画で音声はなく、専門の先生の解説と共にピアノ伴奏が即興で付くというイベントでした。古い映画を観てみると、当時の生活様式、とりわけ今とは大幅に異なるスポーツウェアが興味深かったですね。

その映画がきっかけとなり、日本の近代スポーツの歴史に関心を抱くようになりました。そこでご紹介するのが本書です。F.W.ストレンジはイギリス出身。開国直後の日本にお雇い外国人として来日しました。テニスやボート、サッカーなど、今でこそ普及しているスポーツも、かつての日本では知られていませんでした。そうした競技を伝えたのがストレンジです。

ストレンジが日本にやってきたのも、ある意味では偶然と言えます。当時、日本政府は外国に留学生を派遣していました。現在のロンドン大学ユニバーシティ・カレッジに留学した日本人学生とストレンジが偶然出会ったことから、ストレンジは日本に興味を抱くようになりました

本書には日本におけるストレンジの活躍が生い立ちからその死に至るまで記されています。惜しくもストレンジは齢34歳の時に心臓発作で亡くなり、青山霊園に埋葬されています。

日本の近代化には数多くの外国人が貢献しました。その一人がストレンジです。2020年のオリンピックに向けて、日本のスポーツ史を知ることのできる一冊です。




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プロフィール

柴原早苗

柴原 早苗さん
放送通訳者。獨協大学・順天堂大学非常勤講師。 上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。 ロンドンのBBCワールド勤務を経て現在はCNNj、CBSイブニングニュースなどで放送通訳者として活躍中。 NHK「世界へ発信!ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説を担当。 ESAC(イーザック)英語学習アドバイザー資格制度マスター・アドバイザー。 通訳学校にて後進の指導にあたるほか、大学での英語学習アドバイザー経験も豊富。 著書に「通訳の仕事 始め方・稼ぎ方」(イカロス出版、2010年:共著)、「英検分野別ターゲット英検1級英作文問題」(旺文社、2014年:共著)。 「放送通訳者・柴原早苗のブログ」 http://sanaeshibahara.blog.
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