HOME > 通訳 > 通訳者のひよこたちへ

放送通訳者直伝!

第273回 インターネットのこと

かつて私が通訳デビューをしたころはインターネットもなく、調べ物はもっぱら紙版の書籍、新聞などを通じてでした。エージェントから依頼連絡を電話で受け(今はメールがほとんどですよね)、資料が郵便ないし宅配便で到着するまでの数日間は自発的に書店や図書館などへ出かけて、出来る限りの準備を先手先手で進めていったのです。業務内容のキーワードをもとに自分なりの「ヤマカケ」をして、当日に向けて備えていったのでした。今であれば自宅にいながらにしてインターネット経由でたくさんの情報を得られます。そう考えると隔世の感がありますよね。

けれども、当時の不自由な時代が大変で今がラクなのかと問われれば、必ずしもそうではないと私は感じています。ヤマカケをするのであれば、どういった内容が当日の通訳業務中に飛び出すのか、感覚を研ぎ澄ませて想像する必要があります。また、情報量が限られている分、自分なりに割り切ることができますので、与えられた情報をじっくり集中して読むこともできます。私の場合、情報があり過ぎてしまうと「あ、あの資料も読まなきゃ。あちらのネット情報も知っておかないと」となり、「○○しなければモード」が全開となってしまいます。つまり、やらねばならないことに圧倒されてしまい、今、目の前のことに集中できなくなってしまうのです。これでは限られた勉強時間を有効に活用することができません。

過日、書籍PR冊子「本の窓」(小学館発行)を読んでいたところ、僧侶の小池龍之介さんが興味深いことを書いていました。小池さんはかつてインターネットやメールなど、たくさんのデジタル手段と接点を持っていましたが、あまりの情報量の多さから徐々にネットから離れていったそうです。そうすることで時間的・精神的な余裕を取り戻したと綴っていました。今ではパソコン自体も処分してしまったのだそうです。

私の場合、すべてのデジタル環境から身を切り離すことは仕事の都合上できません。けれども、なるべく自分の頭で考える時間を多く持ちたいと考えます。このため、いまだにスマートフォンやモバイルPCをあえて持たないという選択をしているのです。将来的にすべてがスマホでという時代になれば、要検討ということになるでしょう。

インターネットの良さには、いつでもどこでも情報を手に入れられる点がありますが、その一方で、玉石混交の情報も混ざっているため、それに振り回されない意志の強さも利用者には求められると私は思っています。たとえば何か悩みに遭遇した際、検索サイトでキーワードを入力すればたくさんの結果が出てきます。けれども検索結果の上位に表示されるものが、公式な団体による説明とは限りません。仮に、ある病気について調べたとき、医療団体や専門家の記述が画面の上部に表れるとは言い切れないのです。個人が善意でまとめたサイト紹介もあれば、疑問解決サイトの結果が出てくることもあります。もちろん、そうしたところに出ているものも正しいとは思うのですが、Aという意見もあればBという考えもあるなど、情報の幅が非常に大きいのです。

病気に関することであれば、むしろ訪ねるべき場所は専門家のいる病院や公的機関の相談所でしょう。ネット上の情報で不安に陥るよりは、自ら足を運んで尋ねた方が時間の節約になります。「どうしよう?」と悩みながら何日もPCの前で苦しい思いをするよりも、一歩踏み出していった方が早期発見・早期解決につながるのです。

これは病気に限らず、様々なことに当てはまります。英語学習で悩んでいるときも、信頼できる人に直接相談することでヒントや元気を得ることができます。まずは「行動」をとることが大切と私は考えています。

(2016年8月22日)

【今週の一冊】
hiyoko-160822.jpg

"Picture this: World War I posters and visual culture" Pearl James編集、University of Nebraska Press、2010年

数年前にロンドンへ旅行した際、Cabinet War Roomsという博物館を訪れました。ここは第二次世界大戦中にチャーチル首相が指令を出した所で、ウェストミンスターの官庁街の地下に設けられています。そこのミュージアムショップで様々な商品を眺めていたところ、いくつかの商品にKeep Calm and Carry Onという文が印刷されていました。文字通り訳せば、「平静を保ち、普通の生活を続けよ」です。

この一文は第二次世界大戦中、イギリス国民に対して使われた士気高揚のためのプロパガンダ・ポスターに書かれていました。当時の政府はこのようなポスターを何種類か用意していましたが、このKeep Calm and Carry Onポスターだけは最悪の事態に陥った際に使おうと考えたそうです。しかし、結局戦時中に用いられることはなく、その後、公にもならず、ポスター自体が発見されたのはつい最近のことのようです。このエピソードについては、インターネットでKeep Calm and Carry Onと検索すれば調べることができます。

さて、今回ご紹介する本には第一次世界大戦中のポスターが取り上げられているのですが、そうしたポスターがどういう経緯で制作されたのか、また、国威発揚へどのような影響があったのかなどが学術的観点から説明されています。

こうしたポスターを描いた作者や画家というのは、ポスター自体に名前を記すことも少なく、たとえ興味深いデザインであってもなかなか「芸術」としての観点から知ることができません。けれども、アートとして考えれば実に興味深い要素がこのようなポスターには盛り込まれており、当時の流行やデザイン的側面を知ることができます。

プロパガンダ・ポスターはアメリカやイギリスだけでなく、当時のソ連や日本のポスターにも美しいデザインのものが存在します。本書を読むことで、戦争についてはもちろんのこと、過去のデザインに思いを馳せることもでき、とても興味深い一冊です。


第272回 我流・英語文献の読み方

通訳準備の大きな割合を占めるのが「予習」です。事前の勉強が当日の出来の9割を左右すると言っても過言ではありません。なぜなら、当日の業務で何が出て来るかはふたを開けてみないとわからないからです。業務を割り当てられた時点で関連資料はいただけますが、あとはどこまで本人が広く浅く、そして狭く深く勉強するかがカギを握ります。

通訳の場合、そうした「にわか専門家」になることに加えて、その分野で出てくる用語を日本語と英語の両方で理解し、瞬時に口をついて訳出できることも求められます。このため、予習の際にもバランスよく専門知識を両言語で読んでおくことが大切です。

こうしたことから私は英語の専門文献やjournalと言われる学術論文・機関誌にも目を通すようにしています。日本の新書や通常の本と比べると、そうした専門文献や論文は活字ばかりで図解説明がほとんどありません。ページをびっしりと占めるアルファベットだらけの状況に慣れるまでは頭がクラクラしていましたね。大学院で勉強していたころも専門書ばかり読まされ、どこから手を付けてよいかわからず途方に暮れたこともありました。

では、何か効率的な読み方はあるのでしょうか?私自身、「我流」ではありますが次の10ステップを踏むようにしています。

1.最新のものを選ぶ
論文や専門書の場合、私は「一番新しく発行されたもの」から読むようにしています。なぜなら最新刊であれば、これまで刊行された他の文献が網羅されているからです。研究結果も新しいため、最新情報を知ることができます。

2.keywordsに注目
学術誌の場合、その論文のキーワードが冒頭には掲載されています。これは、本文がどういった単語を土台に展開しているかを示すためです。自分が探している内容がこのキーワードリストにあることを読む前に把握できるので便利です。

3.abstract→conclusionの順に読む
論文タイトルのすぐ下にはabstract、つまりその章の概要が1パラグラフにまとめられています。長い論文でもその概要を読むことにより、全容がつかめるのです。abstractを読んだら私はすぐ章末のconclusionを読み、論文全体がいわんとしている結論を把握します。

4.referencesやbibliographyに付箋紙を貼る
これらはいずれも参考文献リストのことで、著者が本文執筆の際に参考にした文献が網羅されているページです。abstractとconclusionを読んだ後はいよいよ本文を読み始めるのですが、その前に私は参考文献リストに付箋紙を貼ります。こうすることで、いざ本文を読み始めてから本文中に他書籍の紹介があれば、すぐに原典の書籍名を参照できるようにしておくのです。

5.先行研究に注目
論文の場合、abstractの後の本文では先行研究の紹介があります。これは、論文著者が自分の調査結果や考えを披露する前に、これまで同様の研究がどのように展開されていたかを紹介する部分です。読み進めると、過去の文献がたくさん出てきますので、referenceやbibliographyと突き合わせながら読んでいきます。個人的に興味のある他文献があれば、印を付けておき、そちらにもあたるようにしています。

6.methodの部分はさらりと
abstract、先行研究の後はいよいよ著者がどのように調査を進めたかを紹介する部分となります。たいていの論文はmethodという小見出しで書かれているのですが、ここでは具体的な方法論の話が展開します。社会統計学などの話題がメインです。正直なところ、私にとって統計学は未知の分野であるため、この箇所はさらりと読み、次に進みます。

7.resultsに注目
方法論のところでは統計数字や数式などがたくさん出てきますが、その後のresultsではいよいよ調査結果が登場します。「こういう母集団に対してこのような人数が○○と答えた」という具合です。私自身はここに出ている細かい説明よりも、「何がどうした」を把握するようにつとめて読み進めています。

8.もう一度conclusionを読む
ステップ3の段階で結論は一度読んでいるのですが、ここまで本文を読んだ後、改めて結論を読みます。再度読むことにより、著者が何を言いたいのか、確認することができるからです。

9.他の章にもざっと目を通す
機関誌の場合、著者以外の専門家が他にもたくさん寄稿しています。他のページもざっとめくり、最新の学説がどのようなものなのか注目すると、その学術界のトレンドをつかむことができます。

10.索引を活用する
専門文献の場合は巻末にindexがあります。アルファベット順にキーワードがここにはありますので、自分の関心がある単語を探しながら、該当ページを読みます。こうすることで、自分の好奇心からさらに発展的に学ぶことができます。

いかがでしたか?何とも「我流」な読み方ですが、一字一句を丁寧に読むにはあまりにも時間がないときなど、自分なりの読破法があればそれだけでも英語文献へのハードルは下がります。皆さんも皆さんなりの工夫を加えながら、ぜひ学術文献を楽しんでくださいね。

(2016年8月15日)

【今週の一冊】
hiyoko-160815.jpg
「世界の美しい空港」 宝島社、2012年

久しぶりの大ヒット本!私はもともと空港が大好きで、今でも飛行場へ行くたびにワクワクします。学生時代や独身の頃は旅行や仕事でずいぶん飛行機にも乗っていました。ところが子育て時代に突入すると日々の生活が最優先され、なかなか飛行場を利用することもなくなってしまったのですね。ですので、たまに空港を訪れるとそれだけで大興奮です。

本書は世界各地の空港を写真におさめた美しい一冊です。今まで意識したことがなかったのですが、実は空港というのはどこも天井が高く、ガラス張りになっているのですよね。流線型の美しさや、空港ロビーに置かれている椅子のこと、あるいは施設の話など、本書はあらゆる角度から空港の魅力を綴っています。

標識やピクトグラムには共通デザインこそあれ、細部は微妙に異なります。非常口マーク、両替所、お手洗いの表示など、旅先と日本のものを見比べてみるのも面白いでしょう。ほかにもフライト情報の表示板やアナウンス、荷物カートなど、どこをとってもお国柄や雰囲気がありますので、そうしたところに着目するのも旅を楽しくしてくれます。

中でも興味深かったのが、空港を表す3レターコードの話。羽田空港はHND、成田はNRTですが、このコードを作成するルールやオモシロ3レターコードも紹介されています。ちなみにWorld Airport Codesというサイトでは3レターコードを詳しく調べることができるのですが、私の名前のSanaeの最初の三文字SANはSan Diego International Airportのコードでした。シバハラのSHIは沖縄県宮古島市の下地島空港、ABCはスペインのAlbacede-Los Llanos AirportでJALはメキシコのEl Lencero Airportのコードです。

ちなみにドイツ・フランクフルト空港の出発案内板は、パタパタと文字が入れ替わるタイプです。昔懐かしの案内板が今なお残っているそうです。

「空港」をキーワードに大いに楽しめる一冊でした。


第271回 リテンションの付け方

通訳の指導をしていると、色々な質問を受けます。メモ取りの方法、リサーチの仕方、基礎英語力の付け方など多岐に渡りますが、中でも一番多い問いが「どうすればリテンション力を上げられるか?」です。「まとまった文章を聞いた後に逐次通訳をしようとすると、頭の中が真っ白になってしまう。だからそれを防ぎたい」「聞いているときはわかるものの、メモをとるのに一生懸命になりすぎてしまい、いざ訳そうとすると自分の筆跡が解読できない」など、みなさんそれぞれ悩みがあるようです。

リテンションに関しては、私は今でも悩んでいます。通訳現場というのはただでさえ緊張する場です。「フォーマルなセミナーで聴衆は専門家の先生方」「大きな会場でお客様も多く、セッティングだけで気おくれしてしまう」など、委縮するような雰囲気がただでさえあるからです。

では、どのようにすればリテンションをしっかりさせ、訳出に反映させられるでしょうか?私がこれまでの経験から出した結論は、「とにかく知識量を増やすのみ」です。

確かに記憶力を強化し、たくさんの語彙を覚え、難しい英語構文を理解することができれば訳出の精度も大幅に上がります。けれども自分が知識として身につけていないことは、どうしても表面的な訳で終わってしまうというのが私自身常々感じてきたことでした。聞き手にはそれなりに受容できるアウトプットなのかもしれません。けれども私の場合、「うーん、単語としてはたぶんこれで良いのだけど、元の内容がわからな~い!ゴメン!」という後ろめたさが常にあるのです。声に不安感が表れてはなりませんが、そうした「心の中では謝罪モード」という状況に陥ることが少なくないのです。

ゆえにリテンションの実力をアップさせること「だけ」に心血を注ぐことはやめようと決めました。その代わり、「生きている限りすべてが学び」ととらえ、広く浅く、そして狭く深く学び続けることが自分の業務上の任務であると今は考えています。この場合、どこから手を付ければ良いか、どのように勉強すれば良いか、大海原を前にして途方に暮れてしまうかもしれません。なぜなら、学びの対象も学習方法も正解のない世界だからです。

けれども、そこで躊躇してしまえば一歩も前に進めません。大事なのは昨日よりも今日、先ほどよりも今、何かしら新たな知識を蓄えることが、5年後、10年後の業務に生きてくると信じるのみなのです。

今の時代、何事もスピーディーに効率的に取り組むことが求められます。情報がたくさんある中、そして世界が忙しい中、回り道をしていては取り残されてしまいます。

けれども私はこう思うのです。効率を求めれば求めるほど、ゴールから遠のくのではないか、と。

今、読んだ本の内容や、朝ざっと眺めた新聞記事が即、次の通訳業務で役に立つ保証は一切ありません。いえ、むしろ一生役立たずという可能性の方が高いとさえ言えます。しかし、通訳の仕事というのは、いつ、どこで、何が飛び出すかわからないのです。どのような内容に遭遇しても、幅広い一般常識や知識を蓄えてさえいれば、類推の力で対応することができます。

よって、「リテンションをどうすれば付けられますか?」という問いへの私の答えはこうなります。

「目の前のことすべてを学びととらえ、貪欲に吸収すること。」

それが一番の近道だと思うのです。

(2016年8月8日)

【今週の一冊】
hiyoko-1260808.jpg
「世界の夢の図書館」 エクスナレッジ発行、2014年

通訳準備をしていると、目に入ってくるのはもっぱら「活字」です。参考資料に著者の文献、最新の論文に新聞・雑誌記事など、とにかく日本語と英語の文字をひたすら読み進めるのが仕事だからです。「通訳の出来というのは、当日までの予習が9割」と昔言われたことがありますが、まさにその通りです。

随分前のことですが、仕事が多忙になり、それ以外でも難しいことが続いた時期がありました。心身ともに不調となり、専門家の助言を受けたことがあったのです。そのときに言われたのが、「活字ばかり・勉強三昧の生活では心がくたびれてしまう。おいしいものを食べたり、映画館や美術館に行くなどするように」というものでした。以来、業務があわただしいと感じられるときほど、仕事とは無関係のことをほんの少しで良いので取り入れるよう意識しています。

その方法のひとつが「美しいものを見ること」です。時間的に美術展などへ行けなくても、車窓から眺める景色やウォーキング中に目に入る季節の移り変わりなどを意識するだけでとても癒されます。中でも私が好きなのは写真集を眺めること。今回ご紹介するのもそんな一冊です。

本書に紹介されているのは、世界にある美しい図書館。公共図書館を始め、修道院の図書館など、ページをめくるたびに建築美を味わえます。旅行というと、名所旧跡を訪ねることやショッピングなどが主流になりがちですが、図書館を訪ね歩くというのも、その国やその街の文化を別の切り口から知ることにつながるはずです。

ちなみに私は留学中、ロンドンの大英博物館図書室を訪ねたことがあります。大きな円形ドームを有するその図書室が作られたのは19世紀半ば。福澤諭吉や夏目漱石、南方熊楠などもそこを利用しています。今のように情報もなく、留学生などほとんどいない頃、まさにこの場に偉人たちが立っていたのだと思うだけで、身震いしたものでした。

図書館紹介の本は他にも色々と出ていますので、ぜひ類書も手に取りたいと思っています。


第270回 School Choirの思い出

先週のこのコラムでギャレス・マローンのドキュメンタリーをご紹介しました。あの番組を観ていて実に懐かしく思い出されたのが、幼少期に過ごしたイギリスの小中学校時代のことでした。

当時のイギリスはまだ今ほど多文化共生ではなく、非英国人は数名でした。先生は絶対的な存在で、授業中、他クラスの先生が入っていらっしゃれば、たとえノートをとっているさなかでも、あるいはディスカッション中であっても、私たちは全員しずかになり、すぐさま立ち上がるのです。「起立する」ということが先生方や来校者への礼儀でした。すると先生方は"Sit down please, ladies."と呼び掛けられ、私たちは着席したのでした。

当時の校長先生は、ハリー・ポッターに出てくるようなガウンをよく着ておられました。ガウンの裾をひろめかしながら入室されると、私たち児童生徒は緊張感のピークに達していましたね。いえ、校長先生がいつもガミガミ怒っていらしたとか、しかめっつら状態だったわけでは全くないのです。むしろ口元にはいつも笑みがあり、背筋をピンと伸ばし、威厳がある堂々としたお姿でした。後光が差すようなそんな雰囲気に、むしろ子どもたちは畏れ多さを覚えていたのです。

英語がまったくできなかった私が、学校の中で存在感を発揮できる授業は数学と音楽だけでした。中でも音楽の先生は人格者で、私は心から尊敬していましたね。いつも楽しそうに音楽について語り、大きい声で英語もはっきりと話していらっしゃいました。音楽は世界共通語ですので、英単語がわからなくても「あ、ト音記号のことをG clefと言うんだ!」と授業を聞きながら頭の中で多くのことに合点がいきました。また、先生は教室の私たちの良い面を引き出そう引き出そうとされていることも、子ども心にわかりました。上手にできたところは褒め、改善点もきちんと指摘してくださったのです。音楽への愛にあふれた授業でした。

その分、いい加減な態度の生徒や課題をきちんとしなかった子たちへの注意は厳しいものでした。宿題は学校と生徒とのいわば「契約」であり、授業をまじめに受けることも同様です。そうした「ルール」を破ることは、本人にとって良くないのはもちろんなのですが、同じ教室でしっかりと授業を受けている別の子たちに不利益をもたらすというのが先生の考えでした。ゆえに、先生に厳しく注意をされた子たちは、先生の哲学に触れることで自らを反省していったのです。こうして先生の音楽の授業は、規律と楽しさにあふれた空間となっていったのでした。

転入してから数年間の私はなかなか英語力が伸びず、音楽と数学以外の試験結果はひどいものでした。それでも不登校に陥らずに通い続けることができたのは、この先生のおかげだと思っています。先生が褒めて認めて下さる、だからもっと頑張ろうと考えた私は、学校の合唱団にも入りました。イギリスではschool choirと言います。

私が通っていた学校の合唱団は決して大規模ではありませんでした。練習も週に1度、しかも昼休みの30分だけです。けれどもその数十分間は先生がつきっきりで指導してくださり、実に密度の濃いものでしたね。歌い方の基礎や歌詞の解釈など、限られた時間の中で先生はたくさんのことを教えて下さったのです。私は英語学習でも音楽でも「量以上に質が大切」と考えています。これはおそらくこの合唱団時代の経験から来ているのでしょう。

色々な曲を歌いましたが、今でも鮮明に覚えているのがビートルズのWhen I'm Sixty-FourやミュージカルのJesus Christ Superstar、同じくミュージカルのJoseph and the Amazing Technicolor Dreamcoat、黒人霊歌のGo Down Mosesなどです。コンクール主体の合唱団ではありませんでしたが、私たちは学校行事の際に歌ったり、朝礼で成果を披露したりと歌う機会はたくさんありました。また、近くのケアホームや児童施設などに出向いて歌ったり、クリスマスの時期には地元教会の礼拝にお邪魔したりしたこともありました。「聞いて下さる人に喜んでいただく」ということが大きな目的だったのです。

先生は練習時も本番も、指揮台に立てばニコニコ笑顔でした。演奏開始前、指揮棒を構えると先生はいつも "Watch ME!"と口パクで合図されていました。第一声を発する前というのは生徒たちにとって緊張の瞬間です。けれども「先生を信頼して先生の指揮を見ていれば絶対にうまくいく」と私たち生徒は全員信じていたのです。それぐらい先生と生徒の間には絶対的な信頼関係がありました。

あれからずいぶん月日が経ち、私が通っていた学校もイギリスの学校改革のあおりを受け、地元のライバル校に吸収されました。Mrs. Leeが今どうされているかはわかりません。けれども、先生が教えて下さった大切なことは、今でも私の中でしっかりと生き続けているのです。

(2016年8月1日)

【今週の一冊】

http://www.thetimes.co.uk/?sunday

"The Sunday Times"

今回ご紹介するのは書籍ではなくイギリスのThe Sunday Timesという新聞です。イギリスでは平日の新聞と日曜日の新聞では編集体系が異なり、記者や編集作業に携わる人も別チームとなっています。

The Sunday Timesを実際に手にしてみると、まるで日本のお正月版の新聞のように別刷りがたくさん織り込まれています。さらに数冊のカラー雑誌も入っており、日曜日の一日だけですべて読み切るには相当の量と言えます。かつて私が暮らしていた1970年代のイギリスであれば、人々も日曜日は教会へ行き、帰宅後はゆっくりとこうした新聞をめくっていたのでしょう。商店はどこも閉まっていましたので、外へ出かけるとしてもせいぜい公園を散策するぐらいしかなかったのです。それぐらい時がゆっくりと流れる時代でした。

留学時代や仕事でイギリスにいたころ、この日曜版はよく読んでいましたが、いかんせん、量が多かったため、買ったものの積読ということもよくありました。それでもカラー雑誌の写真に魅了されたり、ファッションページやレシピコーナーなどを参考にしたりと楽しんでいました。ここ数年は読売新聞が発行するThe Japan Newsに転載されているThe Timesの抜粋も好きで読んでいます。

それでもあの分厚くてドアのポストに入らないほどのどっしりした日曜版が私にとっては懐かしいのです。そこで意を決し、今年春から空輸で購読することにしました。イギリスで発行されている新聞をそのまま宅配していただけるわけですので、本当にありがたい時代になったと感じます。

日本に到着するのは数日遅れですが、さほどニュースが古くなるわけでもありません。ですので、イギリスならではの観点でBrexitのニュースを読んだり、スポーツニュースを追いかけたりと様々な形で楽しむことができます。積読を避けるポイントは、とにかく早めに「空気を入れる」、つまり全ページをとりあえずめくって眺めておくことに尽きます。すべてを読もうとすると苦行になってしまいますので、あくまでも「楽しそうな記事を見つけてじっくり読む」というのが私のスタンスです。

ここ数週間は、気になる記事だけをビリビリとページごと破り、ファイルにまとめて入れて持ち歩くようにしています。電車の待ち時間や隙間時間などにそうした記事を読むと、仕事準備資料オンリーの世界からの気分転換にもなります。

また、面白そうな単語やフレーズにも下線を引き、辞書を調べて意味をチェックするのもボキャブラリー増強につながります。楽しくワクワクしつつ読むというのが目下、私の趣味になっています。


第269回 英語は楽しみながら

ここ2週間、とある番組を集中的に観ました。NHKのBS1で放映されている「BS世界のドキュメンタリー」です。放映時間は夜中の0時からで、後日、17時から再放送されます。製作国もアメリカやイギリスだけでなく、ヨーロッパやアフリカなども含まれており、分野も多岐に渡ります。

私が観たのは「シリーズ ギャレス・マローンの職場で歌おう!」でした。これはイギリスのTwenty Twenty Televisionが製作したもので、BBC2で2013年に放映されたものです。英語タイトルは"The Choir: Sing While You Work"で、今回放送されたのはSeries 2でした。

この番組は、音楽家のGareth Maloneが5つの職場を巡り、そこで合唱団を形成します。そしてそれぞれが練習を積み重ねて大会に出場し、勝ち抜いていくというものです。ここ数年、欧米ではリアリティ・ショーが盛んですが、この番組もその一つと言えるでしょう。

今回出場したのはフェリー会社、地方自治体、流通小売店、消防署、金融機関の5組織でした。かつて私が暮らしていたイギリスの懐かしい風景が画面にたくさん映し出される中、それぞれの職場に働く人々の様子や仕事にかける思いなどが描かれ、実に見ごたえのある番組でした。

どの組織もユニークで、従事する人々の人間ドラマは魅力的でしたが、中でも私が一番応援していたのはCheshire Fire Serviceでした。人命救助と消火活動を第一とする消防隊員、そしてそれをバックアップする事務職のスタッフたちが一丸となっていき、心を一つにして合唱団をはぐくんでいった様子に魅了されたのです(ちなみにどのチームが優勝したかについては、ネタバレになりますので、ここでは控えますね!)。

ちなみに随分前にNHKの教育テレビ(と今はもう言わないのですよね。正しくは「Eテレ」です)でギャレスの別シリーズが放送されていました。若きギャレスが合唱団をまとめあげ、一人一人の個性を伸ばしていくそのリーダーシップは、私自身同じ「指導をする者」として大いに参考になりました。ギャレスの飾らない人柄、楽しくチームを盛り上げていく様子、プロ意識など、「人に教える仕事とはかくあるべき」というものを感じたのです。私にとって、指導者のロールモデルとも言えます。

そのギャレスのドキュメンタリーが久しぶりに放映されるとあり、前から楽しみにしていたのですが、私にとってのネックはその放送時間でした。早朝シフトに携わる私にとって、睡眠時間の短縮は大敵です。真夜中から午前1時近くまで番組を観るとなると、ほとんど寝ることができないまま放送通訳現場へ向かうことになります。あいにく我が家のDVDデッキは調子が悪く、録画することもできません。それでもどうしても観たい番組でしたので、初回は何とか頑張って夜中まで起きていましたが、やはり睡眠不足は色々な面で悪影響となってしまいます。はてさて、困ってしまいました。

こうなると夕方の再放送に賭けるしかありません。幸い何とかスケジュールをやりくりして調整し、夕方に集中的に観ることができたのでした。仕事の前倒し作業をしたり、動かせるものは別の隙間時間に押し込んだりとハードではありましたが、そこまでして観たいという思いを大切にし、いざ放送中も集中して観るようにしました。

今回は放送を堪能するにあたり、せっかくでしたのでオリジナルの英語音声で聞くことにしました。初日は内容そのものを味わって観ていたのですが、面白そうな表現がいくつも出てきます。あわててメモ用紙を手に取り、興味深いフレーズをどんどん書いていきました。そして放送終了後、お気に入りの紙辞書「ジーニアス英和辞典」と首っ引きで調べ、意味を確認しました。ちなみに私の場合、辞書で引いた単語は必ず下線を引きますので、50分の番組から多くのフレーズを知ることができたのはありがたかったです。

2日目は家族も一緒に観たため、日本語字幕付きにしました。英語を聞きつつ、画面には字幕が出ますので、これも便利でしたね。近年日本では耳の不自由な方向けに字幕が付くようになりましたが、字幕があれば我が家のように「英語で聞きたい派」と「日本語で内容を知りたい派」が共存できます。ありがたい時代です。

3日目はまた私一人でしたので、字幕はオフにしました。字幕はすぐに意味が分かるので便利なのですが、画面の半分ぐらいが字幕で隠れてしまい、顔のアップになると表情が見づらくなるのが難点なのです。そこで今回はこれまで同様、フレーズをメモしつつ、自分なりにその語をどう訳すかも書きながら観てみました。そして後に辞書で確認しつつ、自分の訳が合っていたかをチェックしていったのです。

このようにして「好きな番組」を通じて楽しみながら新たな英語にも接することができました。私にとって幸せな2週間でしたね。

・・・でも欲を言えば、これほど素晴らしいドキュメンタリーなのです。ぜひぜひゴールデンタイムでの放送を!!

(2016年7月25日)

【今週の一冊】
HIYOKO-160725.jpg
"Translation and Cognition"
Gregory M. Shreve and Erik Angelone 編集、John Benjamins Publishing Company, 2010年

放送通訳をしていると、リレー通訳状態になることがあります。これはニュースに出てくる人物が英語以外を話し、それをテレビ局の通訳者ないし現場の通訳者が同時通訳するケースです。私たち放送通訳者は、その通訳された内容を聞きながら今度は日本語に訳していきます。たいていは何とか内容を把握できるのですが、たまに元の通訳者が多大な苦労をしながら訳していることもあり、そうなると、こちらも全容を把握するのが難しくなります。同じ通訳者として、つい同情したくなる瞬間です。

ちなみに欧米では通訳者のことをtranslatorとよく呼びます。日本では文字に残すのであれば「翻訳」、ことばであれば「通訳」と棲み分けがなされていますが、英語圏の場合、必ずしもそうではありません。interpreterとtranslatorを区別していこうとの動きもありますが、一般的にはtranslatorの方がなじみがあるようです。

今回ご紹介する書籍もtranslationという語が書名に入っていますが、取り上げられているトピックは翻訳・通訳の両方です。学術論文集で、それぞれの専門家が研究結果を述べているのがこの本の特徴となっています。

方法論を始め、認知面での分析、心理学的見地からの説明など、一見難しくも思えますが、各章は10ページぐらいですので、好きなところから読むのでも構いません。ちなみに私は巻末索引でinterpretingを探し、該当ページを拾い読みしました。このようにすると、自分の最大の関心分野をまずは知ることができますので、楽しく読めると思います。

中でも印象的だったのが、通訳者がどのようにしてスキルを身につけるのかという論文です。たいていの通訳者は10代後半以降に通訳トレーニングを始めます。そうした状況と、たとえば音楽やスポーツなど、幼児の頃から始めるものを実際に比較した内容でした。著者のK. Anders Ericsson氏によれば、やはり通訳者に必要なのは"deliberate practice that extends for years and thousands of hours of practice"なのだそうです。結局は努力の積み重ねなのですよね。な~んだと思われそうですが、そうした内容を学術的に分析し、巻末に参考文献リストも豊富に載せているのが、このような学術書の特徴です。



《 前 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 次 》


↑Page Top

プロフィール

柴原早苗

柴原 早苗さん
放送通訳者、獨協大学非常勤講師。上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。ロンドンのBBCワールド勤務を経て現在はCNNj、CBSイブニングニュースなどで放送通訳者として活躍中。 アルク「English Journal」でBBC Newsを監修した後、現在はNHK「ニュースで英会話」ウェブサイトの日本語訳・解説を担当中。 通訳学校で後進の指導にあたるほか、大学の英語学習サポートルームにて英語学習アドバイザーも務める。 著書に「通訳の仕事 始め方・稼ぎ方」(イカロス出版、2010年:共著)。「放送通訳者・柴原早苗のブログ」を更新中。