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放送通訳者直伝!

第268回 学びを楽しむこと

ふとしたきっかけで通訳という仕事に携わるようになった私にとって、これまでの様々な出会いやタイミングというのはすべて感謝に値すると感じています。昔からジャーナリズムには興味がありましたので、今、こうして放送通訳の現場にいられることは本当に幸せですし、学びを一生続けることができるのも、この仕事の恩恵だと思っています。もともと通訳者になろうと最初から目指していたわけではなく、留学から帰国後、たまたま不況であったがゆえに定職にありつけなかったのが始まりでした。失業状態の中、かつてお世話になった通訳学校の先生にごあいさつに伺ったところ、「ちょうど今繁忙期だから通訳を手伝って」と言われたのです。それが私にとっては人生の大きな転換点でした。多くのめぐりあわせに感謝する次第です。

さて、人間が生きる上で大切なことは色々あります。アメリカの心理学者マズローは、「人間の欲求」を5段階に分け、その学説を20世紀半ばに発表しました。中でも「生理的欲求」である「食事、水、呼吸、睡眠」などはヒトという存在が生きる上で不可欠です。その上の段階に「安全の欲求」「社会的欲求」「承認の欲求」「自己実現の欲求」が続くのですが、通訳という仕事は上位3つの欲求を大きく満たしてくれると私はとらえています。

中でも最上位にある「自己実現の欲求」には、問題解決や創造性といった項目が含まれます。通訳業における学びには終わりがありませんので、通訳者たちはそれぞれ業務を通じて創意工夫を図りながらひたすら学び続けています。その根底には「未知のことをさらに知りたい」という強い思いがあり、学びのために労力を惜しまず、学ぶ過程そのものも大いに楽しんでいるのが通訳者なのです。

私の場合、「目の前のものすべてが学び」ととらえて現在に至っています。食品パッケージに書かれている文言を始め、駅で配布されているフリーペーパーも立派な学習対象です。あるニュースを耳にして、その中の一つの単語を調べ始め、そこから百科事典、世界史年表、美術書、学術書にマンガなど、どんどんどんどん広げていくのは至福のひとときです。以前読んだとある通訳の方がエッセイで「辞書を読んでいると恍惚としてしまう」という趣旨のことを書いておられましたが、まさに私もそのような感じです。

今の時代はややもすると「対策さえたてれば突破できる」「ハウツーを身につければ勝てる」という考えがメインになりがちです。たとえば英語関連の資格試験も同様で、実力を図るために作られたテストが今や対策の対象となり、そうした書籍やセミナーは花盛りです。「仕事でどうしてもその試験で高得点をとらなければならない」など、しかるべき事情があるのであれば、そのような対策も有りでしょう。けれども英語であれどのような分野であれ、本来の学びというのは、対策を立ててそれを自己証明に使うのとは異なるように私は考えます。

通訳の仕事というのは、人のお役に立てて初めて任務を達成できるものと私はとらえています。業務前の詰め込み式勉強ももちろん大切です。けれども、今、この瞬間に見聞したこと、体験したこと、自分が感じたことすべてが数年後、あるいは数十年後に生きてくるのが通訳という仕事なのです。いや、もしかしたら何年経っても役に立たないまま、その知識は脳内で埋もれて忘れ去られるのかもしれません。

ただ、私はこうも思うのです。たとえ陽の目を見ない知識であれ、学び続けること自体が自分の使命なのだ、と。

これから通訳者としてデビューなさる方々が、学ぶ楽しさを味わいながらどんどん活躍してくださればと願っています。

(2016年7月18日)

【今週の一冊】
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"The Story About Ping" Marjorie Flack著、Kurt Wiese画、Grosset & Dunlap; Reissue版、2014年

先日、絵本に関連する会議の通訳をしました。我が家の子どもたちはすでに中学生となり、かつて夢中になった絵本から児童書を経て今や一般の書物にも関心を抱いています。彼らが幼いころ、私たち夫婦も眠気との闘いの中、絵本の読み聞かせをしたことも今となっては懐かしい思い出です。もっとも、こちらの方が疲労困憊していて途中まで読み終えることができず、子どもたちに「ねえ、途中で寝ないで~」と起こされたこともありましたが・・・。

今回ご紹介するのは、"The Story About Ping"という絵本です。アメリカで1933年に発行されたロングセラーで、今でも名作として読み継がれています。日本では「あひるのピンのぼうけん」という邦題です。ストーリーは、ピンという子アヒルが家族から離れて多様な冒険をしつつ、晴れて家族の元へ戻るというものです。

先の会議は同時通訳で、開始前にこの絵本をセミナー講師から見せていただくことができました。しかし、開始までの準備時間は限られており、唯一できたのは邦題を教えていただくことと、ざっとページをめくり、英文を目に入れるぐらいでした。本来であればじっくりとこの美しい絵柄や話の流れを堪能したかったのですが、業務前となるとなかなかそうはいきません。それでも斜め読みできたのは実にありがたいものでした。

いざ本番が始まると、セミナー講師はページをめくり、絵本に書かれている文章を音読してくださいました。幸い、書画カメラがページを大きくとらえており、私もそれを追いながら通訳することができました。

ところが本文に出てくるYangze Riverで何と私は訳語に詰まってしまったのです。頭の中で「揚子江」という単語は浮かんでいました。ところがBBC時代の「『揚子江』ではなく『長江』と通訳する」というBBCルールをふと思い出してしまい、訳せなくなってしまったのです。「あれ、こういうときはそのまま揚子江で良いのだっけ?それとも長江にすべきか?」と要らぬ考えが頭の中をよぎってしまい、最後の最後まで「揚子江」も「長江」も出ずじまいとなったのでした。私の苦し紛れの訳は「中国の大きな川」。迷った時は一次元上の観点から訳すので、間違いではありませんでしたが、基本的な語に詰まってしまったこと自体を反省しました。

仕事におけるくやしさというのは決して無駄でないと私は思っています。ですので、私は早速この絵本を図書館から借り、改めてじっくり読み進めてみたのです。今回はストーリーも絵柄も味わえましたので、一人の読者として大いに楽しめました。

ちなみにアメリカのあるサイトでは、この絵本を授業で生かすヒントが書かれています。絵の構図やタッチ、当時の中国のことなど、多様な角度から分析がなされています。絵本をありのままに楽しむのも好きですが、こうした美術的・歴史的観点から観てみるのも面白いですよね。ちなみに1933年と言えば、第二次世界大戦が始まる前。1931年にはアメリカのパール・バックが中国を舞台にした大作「大地」を記しています。


第267回 学びにおけるプライオリティ

あっという間に1年も半分が過ぎましたね。この夏休み、何か新しいことを学びたいと考えていらっしゃる方も多いことでしょう。私も今年は新しい言語に挑戦しようと思い、とある夏期講習に申し込んだところです。英語の仕事をしていると、他言語との接点に関心が出てきます。新たな言語を通じて「ことば」そのものへの理解を深められればと思っています。

さて、「学び」において何を優先するかは人それぞれですよね。「家から近い」「授業料がお手頃」「レッスン時間が自分に合っている」など、プライオリティもまちまちです。私にとっての最優先項目は何といっても「先生が楽しそうに教えていること」です。なぜそう思うようになったかを今回は見てみましょう。

まず、指導者が自分の指導内容を心から楽しんでいると、その熱意は教室において発揮されます。つまり、「自分が楽しい」「私はこの分野が大好き」という思いが指導者の声や態度に反映されるのです。その情熱は人々に伝播しますので、学ぶ側も「へえ、今まで興味はなかったけれど、そんなに面白いのか」と思えてきます。すると、学習者も熱心に授業内容に耳を傾け、そんな教室の雰囲気は先生をさらにやる気にさせるという好循環が生まれるのです。

教師が指導内容や使用テキストを楽しんでいると、受講生もそれを楽しめるようになります。教室内の良き雰囲気が受講生同士の緊張感をほぐし、学ぶ側の横のつながりもできてくるでしょう。連続の講座であれば次週が楽しみになりますし、授業内での他の受講生の言動や学ぶ姿勢からこちらもやる気を得ることができます。

こういう側面から「学び」を考えると、教室の近さや費用の安さ、時間帯などはさほど気にならなくなると私は思うのです。むしろ、「スケジュール的にはきついし、授業料も決して安くはない。しかも家から遠い。でも頑張ってやりくりして来て良かった!」ととらえられれば、それは大きな自己達成感となります。そして頑張った自分を励みに思い、さらに次への学習モチベーションにもなるのです。

では、この逆はどうでしょう?「教室が近くて費用も安い。授業時間もバッチリ。でも授業がつまらない」となった場合、上記とは正反対の現象が出て来るかもしれません。すなわち、先生の話に興味が持てず、教材もイマイチ、他の受講生もバクスイで横のつながりもできず、という具合です。そうなってしまうと、授業に出ること自体が苦痛になってしまいます。

こうした事態を避けるためには、いくつか「対策」があります。一例としてはいきなり長期間の講座を申し込むのでなく、まずは体験レッスンや単発講座を受講してみることが挙げられます。体験授業はたいていの場合無料ですので、学校の雰囲気や授業の流れなどを知ることができます。単発講座も長期間のレッスンに比べればお手頃価格ですので、たとえ失敗したと思っても被害は最小限に食い止められるでしょう。

体験授業を受けた際、「ぜひその先生のレッスンを取りたい」と思ったならば、スタッフやその先生にいつ指導をしているのか直接尋ねても構わないと思います。「この先生についていきたい!」という出会いは大切だからです。長期講座を取ることが難しければ、その先生が他の場所で単発講座などをしているか調べるのも一案です。

一方、こうしたプロセスを経ることができずに申し込み、自分の求めているものと違っていた、という場合はどうすべきでしょうか?私自身は「がまんしてでも受ける価値があるか」と自問自答します。もし答えがイエスであれば、せっかく払った授業料ですので、その元を取り返すべく最大限こちらも努力します。けれども、もし時間的・物理的な貢献をするよりも自宅で同分野の本を読んだ方が生産的と思えるならば、支払い済みの授業料は潔く諦めます。時間がもったいないからです。

与えられた時間は誰にとっても平等です。だからこそ、自分の基準でプライオリティを付けて良いと私は思っています。

(2016年7月11日)

【今週の一冊】
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"How to Study" Ron Fry著, Course Technology PTR, 2011年

最近は書店のビジネスコーナーへ行くと自己啓発関連の本が充実していますよね。プレゼンの仕方や時間管理術、企画書の書き方などトピックも多岐にわたります。私自身、仕事の仕方でもっと効率が必要だと思った際には、そうしたコーナーに置かれている本からアイデアをたくさんもらっています。

今回ご紹介する一冊は、アメリカの学生向けに書かれたものです。書名からわかる通り学習法に関する内容で、著者のRon Fry氏は本書のほかに記憶術や時間管理などの本を記しています。それらはシリーズ化されており、いずれも"How to"というタイトルです。

日本のハウツー本と比べると、英語の書籍はどうしても図解説明が少なくなってしまうのですが、本書は平易な英文で書かれており、読みやすくなっています。高校生や大学生だけでなく、一般社会人でも応用できる内容です。

中でも私にとって印象的だったのは、勉強や仕事の各タスクにどれぐらいかかるのか、あらかじめ見込み時間を設定するという一節でした。たとえば「数学の問題集を解く」という項目の場合、かつての私であれば、それを手帳の「やることリスト」に書き、優先順位を付けた上で取り組んでいたのです。しかし、フライ氏によれば、そのタスクに90分かかると見込んだら、手帳にも「90」と書き込むべしとしています。そして取り組み終了後に実際にかかった時間を記載することが大事だと述べていました。

以来、私も単にタスクに優先順位をつけるだけではなく、手帳の時間欄に終了時間を書き込んで取り組むようにしています。こうすることで、作業の終わり時間がわかるようになり、取り組んでいる際にも何に集中すべきかがわかるようになりました。

他にも授業の受け方やリサーチ方法など、学びに携わる方にとってはヒント満載の一冊です。


第266回 ボランティアのむずかしさ

先日のこと。家族でとある美術館へ出かけました。そこは体験型ミュージアムで、展示品を実際に手に取り、動かしたり触ったりできるのが特徴です。以前から評判を聞いていましたので、ぜひにと思い、訪問したのでした。

建物を有効活用したその美術館には展示物がたくさんあり、説明文も詳しく書かれていました。年齢を問わず楽しめる内容です。あれだけの品を集めるのも大変だったことでしょう。民営のミュージアムですので、限られた予算の中、あそこまでのレベルを維持しているのも、おそらく運営者側の熱意とそれをサポートする方々のおかげだと想像しました。

展示品の中には海外から取り寄せたものもあり、操作が一見難しいものもありました。家族と「これってどうやって使うのかな?こうかな?それともこんな感じ?」と会話をしつつ、普段はなかなか話す時間のない家族同士、楽しくおしゃべりをしながら触っていました。

そのときのこと。ボランティアの方が近づいてきてくださり、操作方法を教えて下さいました。「なるほど、こうすれば良いのね」と納得したのですが、その後の流れに少々違和感を覚えたのです。

それは次の理由からでした。

館内を見渡すと、来館者よりボランティアの数の方が圧倒的に多かったのです。そしてどの来館者にもボランティアが近くに寄り、ずっと相手をしていたのでした。我が家も同様で、「そろそろ家族だけにしてほしいな、ちょっと放っておいてほしいな」と思い始めたときも、マンツーマン状態で私たちが行く場所に付いて来られたのです。

我が家としては珍しい展示品を見て、「どういう用途の物なのだろう?」と想像しながら会話することもコミュニケーションだと思っていたのですね。よって、できればそのような時はそっと見守っていただきたかったのが正直なところです。しかしこの美術館のボランティアの方達は逐一こちらの会話の中に入り、「これはこうして使います」「ちょっと実践してみましょう」という具合だったのです。正直なところ、too muchという思いが頭の中をよぎったのでした。

他の展示室に行き、一息ついたときも、部屋の向こう側からこちらを伺っておられる様子がわかりました。ボランティアの方々に悪気があるわけではないのは重々承知しています。いえ、むしろ「来館者のお役に立ちたい」という、とても熱い思いがどのボランティアさんにもあったのだと思います。「お助けすることが自分たちの使命である。だからこそその機会を伺い、逃してはいけない」という善意の気持ちがあったのだと思います。

「ボランティア」というのはある意味で非常に難しいと私は今回の体験を通じて感じました。と言いますのも、「善意」というのは行き過ぎてしまうと「押し付け」になってしまい、受け手側にとってありがた迷惑になるからです。来館者を監視するのではなく、少し離れたところからそっと見守り、助けを必要としているときにはすぐに応じられる。そんな距離感とタイミングが大切であると私は思っています。

2020年の東京五輪が決まってから「ボランティア通訳」ということばが頻繁に聞かれるようになりました。スポーツ関連の通訳やおもてなし系の通訳など、そのニーズは多岐にわたります。開催まであと4年。今から語学力を高めておくことは大事でしょう。けれどもそれと同時に求められるのは、ボランティアがどういうスタンスで業務に臨み、本当にお客様に喜んでいただくためにすべきことを今一度考えることだと思います。

せっかく「おもてなし」ということばが世界から注目されているのです。日本が得意とする控えめさと勤勉さ、まじめさなどが発揮される「おもてなし」であってほしいと願っています。

(2016年7月4日)

【今週の一冊】
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"D is for DAHL: A gloriumptious A-Z guide to the world of Roald Dahl" Roald Dahl著, Wendy Cooling編纂, Puffin Books, 2007年

ロアルド・ダールと言えば、言わずと知れたイギリスの児童文学者。「チョコレート工場の秘密」や「マチルダは小さな大天才」など、数々の名作を生み出しています。本家イギリスはもちろん、日本をはじめ世界中のファンを魅了している作者です。ダールの作品に大きく貢献しているのが挿絵画家のQuentin Blake。一目見るだけでブレイク氏の絵とわかる温かみある描写も私は大好きです。

今回ご紹介するのは、ダール・ファンにとって必携の一冊とも言えるでしょう。私はまだダール作品を制覇したわけではないのですが、「チョコレート工場の秘密」は数年前の映画版で楽しみましたし、マチルダは以前指導していた学校の副読本で読んだことがありました。本書にはダール作品に関連のある言葉をアルファベット順に記しており、イラストも豊富。どこから読んでも楽しめる内容です。

各キーワードにはその言葉にまつわるエピソードや詳しい説明が出ています。たとえばMatildaを引いてみると、草稿の段階でダールが主人公をJimmyという男の子に設定していたと書かれています。構想から20年を経てようやく出版されたのだそうです。

いくつか興味深いエントリーがあったのですが、中でも私の目を引いたのがYellow pencilsです。ダールはいつも鉛筆で執筆し、しかもDixon Ticonderogaというものを使っていました。これは鉛筆の本体が黄色で、上端に消しゴムが付いています。執筆前にダールは6本を削って原稿を書きました。再度削り直すまで2時間は持ったそうです。

巻末には参考文献が出ており、外国で翻訳された本の表紙の一部も写真入りで紹介されています。ダールが大好きな方も、これからじっくりダールの作品を読みたいという方も味わえる一冊です。


第265回 イギリスの今後を想う

イギリスがEU離脱を決めました。投票直前まで離脱派と残留派の選挙戦は続き、国会議員も犠牲になるなど、世界は大きく注目しました。離脱の是非はイギリスだけの問題ではありません。株式市場への影響、世界経済への波及、現地に展開する企業の今後の動向など、世界の国々にとってこれは他人ごとではなかったのです。

離脱のニュースはCNNでもずいぶん前から取り上げられていました。数年前のスコットランド独立投票同様、当初は私自身も残留派が勝利すると思っていたのです。けれども投票日が近付くにつれて世論調査を見ても両派の支持率は拮抗するようになりました。日本のメディアも大きく扱うようになり、万が一に備えて人々の関心も高まっていったのです。とは言え、世界がこれだけ狭くなっているのですから、残留派が勝つであろうと私は考えていたのでした。

今回の離脱派勝利を受けて、株価や通貨などは大きく反応しています。現地で展開する日系企業にとっても不安があることでしょう。アメリカ大統領選挙への影響はもちろんのこと、今年選挙を控えるEUの他国でどういった結果が出てくるのかも気になります。しかし、あれこれと不安感をあおったり、必要以上に大騒ぎしたりすることはかえって世の中を不透明にさせてしまうのではないか。そう私は考えます。

国民投票というのはあくまでもその国の民意であり、投票の自由を与えられているのも民主主義の恩恵です。他国はその結果を尊重すべきなのですよね。私は子どもの頃と大学院、そして社会人になってからイギリスに暮らしましたが、それぞれの時期のイギリスがどういった雰囲気であったか、今でも強烈に覚えています。小学生当時の英国は「英国病」と揶揄される時代で、過去の栄光を懐かしむ中、ゼネストや倦怠感が漂っていました。ゴミ収集職人のストで街中にはゴミが舞い、郵便局のストで郵便物は数か月届かず、パン屋さんも業務をやめたのでパン店は閉鎖、自動車工場も同様で、我が家の車は3か月間も修理から戻らなかったことがありました。民族構成も今ほど多文化共生ではなく、私が通う小学校もほとんどがいわゆる白人でした。あまり目立たない方が良いのではないか。そんな思いを抱きながら私は暮らしていました。

しかし、サッチャー政権による大幅な改革でイギリスも変わり、私が留学したころは活気がありました。街路には美しい花々が咲くつりしのぶが飾られ、様々な国籍の人が共存していました。国を開放するというのは、こうした多様性を受け入れることなのだと肌で感じましたね。もっとも、私が在籍した学科だけはなぜかイギリス人が多く、留学生は私一人だけ。またもや「日本代表」を仰せつかったかのごとく、緊張しながらの日々でした。自分がもし軽率な言動をとれば、「日本とはそんな国なのか」と先入観を与えてしまいます。小学校時代のあの緊張感をつい思い出してしまい、修士課程のさなかもずっと自分の行動に気を付けねばと思っていたのです。

BBC時代のイギリスはさらに多文化・多様性が進んでいました。たとえば、かつて白人ばかりが暮らしていた街に出かけてみると、私には読めない文字の看板が並んでいたのです。別の国の出身者が多くそこには住んでいたのがわかりました。「多様性を受け入れる」とは、もともとその国に暮らす人たちにとって「未知なるもの」を受け入れることを意味します。日本もその頃、海外からの労働者が少しずつ増えていたころでしたので、平和裏に共存するためにはどうすべきか、当時の私はぼんやりと考えていたことを思い出します。

そして2016年の初夏。イギリス国民はEUからの離脱を決めました。とは言え、圧倒的多数による決定ではありません。民意は真っ二つに割れ、かろうじて離脱派が勝利したという図式です。今回のEU離脱は「EUとイギリス」「イギリスと世界」という関係以上に、イギリス国内の二つの意見がどのように今後展開していくのかを意味します。キャメロン首相の後任者にとっては、分断した世論をどうまとめていくか、その手腕が問われます。

私の自己形成において大きな影響を与えてくれたイギリス。今回の国民投票を受けて、イギリスや世界が落ち着くまでしばらく時間はかかるでしょう。大きな流れの中で見れば、このたびの結果も歴史的変遷を経ての必然なのかもしれません。ただ、イギリスという国がなくなるわけでもありません。一人のイギリス愛好者として、今なお続くイギリス人たちとの交流を大切にしながら、これからも見守っていきたいと思っています。

(2016年6月27日)

【今週の一冊】
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「すてきな絵本タイム」 佐々木宏子と岡山・プー横丁の仲間たち・編著、吉備人選書、2012年

イギリスはNHSという国民皆保険制度があります。そのおかげで病院での診察代はすべて無料でした(ただしなぜか歯科だけは有料でしたが)。長男が現地の病院で生まれたときも、出産関連の費用はすべてタダ。入院費も病院食代も無料で、日本との違いに驚きました。「出産は病気ではない」という考えのもと、たいていの母親は翌日に退院していきますし、私の隣室のお母さんなどは数時間休んだだけで帰宅していました。イギリスの場合、退院後数日間は自宅まで看護師や担当医が診に来て下さるのです。

退院後、赤ちゃんの慣れないお世話をする中、往診に来てくださった看護師から「ブックスタート」ということばを聞きました。赤ちゃんがもう少し大きくなって地区の保健センターで健診を受ける際、絵本がプレゼントされるという内容です。私はまだ生まれたばかりの長男をだっこしながら、そのシステムの素晴らしさに感銘を受けました。字も読めない赤ちゃんではあれ、絵本を与えるということ、そしてそれを無償で行っているというイギリスの懐の深さを感じたからです。

今回ご紹介する本を編集した佐々木宏子先生は、40年以上にわたり絵本と子どもの発達について学術的に研究なさっています。日本におけるブックスタートについても先生は研究をされ、論文や書籍などで発表されています。本書は佐々木先生厳選の絵本が紹介された一冊です。

「絵本=子どもが読むもの」と思われがちですが、絵と、そこに記された少ない文字を通じて著者のイイタイコトをとらえるのが絵本だと私は考えています。そういった視点に立つと、通訳の仕事における「話者のイイタイコトの把握」という作業に近いのかもしれません。

今の時代、児童書コーナーに行くとたくさんの絵本があります。本書は、これまでどの絵本が赤ちゃんに愛されてきたかを知ることができる一冊です。本の後半には岡山で文庫活動をなさっている方へのインタビューもあり、大人になっても絵本や児童書と関わり続けることの大切さがわかります。 


第264回 仕事記録

通訳学校に通う受講生たちにとって、通訳の仕事を得る上での最大のハードルが「実績作り」です。私のようなフリーランス通訳者はほとんどが人材派遣会社、いわゆるエージェントに登録をして仕事を得ています。医師や弁護士の場合は国家資格に合格してようやく仕事をすることができますよね。一方、通訳者の場合、極端な話、自分で名刺を印刷して「通訳者です」と名乗れば、仕事を始めることができるのです。もっとも、どこの誰かわからない人にいきなり仕事を依頼してくださるクライアントさんなど、そうそういません。ゆえに私たち現場の人間にとっては、その橋渡しをしてくださるエージェントさんは本当にありがたい存在なのです。

エージェントに登録する上で必ず必要となるのが「実績」です。今までどのような分野の通訳をどれぐらいしてきたか証明する必要があります。通常、エージェント登録時には履歴書を提出し、それまでの実績を書いた文書も添えます。私の場合、実績表は「○月○日 △△会議、同時通訳 半日」という具合に書いています。通訳経験が増えればこの実績表も充実してきますが、デビュー当初はほとんど実績がありませんでした。これはどの通訳者も同じです。

エージェント側にしてみれば「実績をもっと積んでからぜひご登録を」ということになるでしょう。一方、登録する通訳者にしてみれば、「実績がないから仕事をしたい」となります。

ではどうすれば良いでしょうか?私の場合、通訳学校に通っていたときに請け負ったOJT業務やボランティア通訳を実績表に書きました。また、一般企業に勤めていたときに手がけた通訳や翻訳などの仕事もリストに添えたのですね。要は「語学に関わる作業」「通訳・翻訳関連の仕事」を少しでもおこなったのであれば、それをすべて実績表の中に盛り込んだのでした。

あとはエージェントから頂いた仕事一つ一つを大切にして、業務が終わるとリストに追加していきました。記録をし続けるというのは地道な作業です。繁忙期など通訳準備で手一杯になってしまい、リストをアップデートするのを忘れてしまったこともあります。けれども、自分の実績をその都度記録することは、通訳者としての自分という商品に付加価値を付けることになります。年度末に実績表の最新版をお世話になったエージェントに送ることで、エージェントからはより自分に合った業務をあっせんしていただくことにもつながるのです。

私は大学卒業後、一般企業に就職したものの、どうしても留学がしたくて転職活動を始めました。「大学院に行きたいのだから、できれば学術関係の仕事をしよう」と考え、イギリスの大学事務所に移ったのです。そして留学資金がようやくたまったのを機に、退職してイギリスで学ぶ機会を得ました。ただ、帰国後は研究者になろうと思っていたのですがうまくいかなかったのです。どうしようかと悩んでいたとき、お世話になった通訳学校の先生から通訳の手伝いを依頼されたのがきっかけとなり、本格的にこの世界に入ったのでした。

人生にはどのような出会いがあるかはわかりません。幸い私の場合、通訳のお手伝いを機にこの仕事に魅了され、以来、通訳者として生きていこうと強く思うようになりました。仕事の記録を付けるのは、自分というプロダクトに磨きをかけ、よりお客様にお役にたてるような業務をしたいからなのです。

「通訳者になりたい。でも実績がないからデビューできない」とお悩みのみなさん、どうかあきらめず、目の前の仕事を大切にしてください。少しでも英語関連の仕事をしたり、ボランティアで通訳翻訳を手がけたりしたのであれば、ぜひそれを自分の経験として次につなげていって下さいね。 

(2016年6月20日)

【今週の一冊】
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"マップマニア デザイナーのための地図のデザイン" PIE Books編集・制作、パイインターナショナル発行、2015年

今の時代、地図や時刻表と言えばインターネットやアプリを使う方が主流です。けれども紙版が大好きな私にとって、地図や時刻表というのは空想の世界にいざなってくれる媒体です。仕事カバンの中にはポケット地図帳をいつも携えており、時間が空くとそれを眺めては楽しんでいますし、自宅の本棚には大判の電車時刻表もあります。時刻表は欄外に駅弁紹介があったり、巻頭特集で電車のことや地域の話題などがあったりするので、眺めていて飽きません。

今回ご紹介する「マップマニア」は、地図をデザイン的観点から取り上げた一冊です。副題にもある通り、デザイナー向けにレイアウトや配色、描き方などが出ています。日本各地のイラストマップはもちろん、世界の地図もあり、これを見るだけで旅行気分が味わえます。

雑誌の地図特集や、フリーペーパーに出ているお散歩マップなど、私たちの周りには地図がたくさんあります。目的地まで行くために役立てるのが地図でもありますが、その一方で、デザイナーやイラストレーター、フォトグラファーにクリエイティブディレクターなど、様々な人々の努力があるからこそ、一枚の地図ができあがるのですよね。本書に紹介されている地図は、いずれもそうした縁の下の力持ちのお名前も紹介されています。まさに芸術作品としての地図です。

本書を読むと、日頃何気なく眺めている様々な地図にも命が吹き込まれているのだと思うようになります。芸術としての地図を味わえる、そんな一冊です。



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プロフィール

柴原早苗

柴原 早苗さん
放送通訳者、獨協大学非常勤講師。上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。ロンドンのBBCワールド勤務を経て現在はCNNj、CBSイブニングニュースなどで放送通訳者として活躍中。 アルク「English Journal」でBBC Newsを監修した後、現在はNHK「ニュースで英会話」ウェブサイトの日本語訳・解説を担当中。 通訳学校で後進の指導にあたるほか、大学の英語学習サポートルームにて英語学習アドバイザーも務める。 著書に「通訳の仕事 始め方・稼ぎ方」(イカロス出版、2010年:共著)。「放送通訳者・柴原早苗のブログ」を更新中。