INTERPRETATION

スローダウンも必要

柴原早苗

通訳者のたまごたちへ

 わが家は4月上旬に一家でダウンしたものの、通院と薬のおかげで何とか病欠せずに乗り切ることができました。かつてイギリスに暮らしていたころは病院で診察してもらうにも予約がとれないと診てもらえませんでしたが、日本の場合、とりあえず病院まで行けば何時間待とうと必ず診察してもらえます。今回もつくづくそのありがたみを感じました。考えてみたら、病気というのは計画的に発生するわけではないのですから、日本のようにじっと待てば診てもらえるというのは本当にありがたいですよね。国民皆保険制度を含め、日本人で良かったなとつくづく思います。

 さて、今回ダウンしてみて、私自身、いくつかの「気づき」がありましたので、今日はそのお話です。

 1点目は「スローダウンすることも必要」という点です。

 かつて私は時間管理や効率的な事務処理方法など、様々な書物を通じて取り入れられるメソッドは導入してきました。仕事や家庭、自分の勉強などを限られた24時間の中でどのように割り振り、進めていけばよいかが最大の関心事だったからです。調理しながらシャドーイングをしたり、電子レンジの数分間で音読をやったり、掃除機をかけながらポッドキャストを聞くなど、「ながら学習」と隙間時間の活用を心がけて暮らしていました。

 けれどもダウンして感じたこと。それは、人間の体力にはやはり限界があるということでした。

 どんなに効率化しても、その余った時間を楽しむぐらいの心のゆとりがなければ、結局は発生した余剰時間にさらに「やること」を押し込んでしまいます。時間を生み出してのんびりと充電することが本来であれば必要だと思うのですが、私のように「忙しい生活」が染み付いてしまうと、空いた隙間時間にさらに何かをやろうとしてしまうのです。これでは体が休まるどころか、ますます疲弊してしまいます。それゆえに、意識的にスローダウンすることも必要だと改めて思いました。

 2点目は「今、目の前のことを楽しむ」ことです。

 毎日To do listが山盛りだと、一つのことをこなしながら、心の中では「次にあれをやって、その後これをやって」と段取りを考えながら体は動いています。私の場合、子どもたちを学童保育へ迎えに歩いていくときなど、「お迎えから帰ったらお湯をわかして、炒めものをして・・・。その間に子どもたちのお箸とコップを洗って、そのあとお風呂をためて・・・」とひたすら考えていました。スズメが巣に帰ろうと群れをなしている光景や美しい夕焼け雲など、目には入るものの心の奥まで響いていなかったのです。しかも歩くときは常にポッドキャストを聞いていましたので、そもそも外部の音を遮断していました。

 このたび体調を崩して勉強もポッドキャストも「もうたくさん」という心境になったのですが、それがきっかけで自然の音や景色にも意識がいくようになったと思います。そうした音や色、顔に当たる風の強さなどが、大自然の素晴らしさを教えてくれました。目の前のことを味わう大切さがわかったように思います。

 3つ目は、「ガツガツしなくたっていい」という点です。

 ここ数年、書店へ行けば自己啓発本やハウツー本などがたくさん並んでいます。どれも「目標を設定し、やることを細分化し、日々実行していく」という内容です。私自身、こうした方法は大切だと思いますし、自分でもそう心がけてきました。壮大な目標も実行可能なやり方でコツコツやれば、必ず到達できると思います。

 けれどもそうした書籍ばかりを読んでいると、「目標を持たねば」「夢を実現しなければ」という「〜せねば」的な考えになってしまいます。まるで目標がないことがいけないことであるかのようにも思えてきてしまうのです。

 自分の中にはっきりとした目標があれば、そうした方法は効果的です。けれども今現在、目標がなかったとしても強迫観念にかられることはないと思うのです。ガツガツしなくても、著名人が唱えるような夢実現法を実践できなくても、日々ニコニコと暮らしていけるのであれば、それだけでその人は周りに大きな幸せをもたらしてくれます。「自分は何も夢がない。何もできない」と思ってしまうよりも、「特に目標はないけれど、自分はゴキゲン」という人の方が、多くの和みを人々に放つことができると思います。

 私自身、体調不良はしんどいものでしたが、その一方で大きなことに気づくことができました。本当に良かったと思っています。

 (2010年4月26日)

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記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

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