INTERPRETATION

空間的広がりがもたらすもの

柴原早苗

通訳者のたまごたちへ

 引っ越してから1週間。ようやく荷ほどきも終わり、少しずつ家らしくなってきました。以前暮らしていたマンションはイギリスから帰国直後に入居したもの。当時私たち夫婦は正規社員の座をあっさり捨てて後先考えずに帰国し、仕事もないまま夫の実家に転がり込んでいました。生後1歳9カ月の長男が、そしてお腹の中には翌年5月に生まれることになる長女がいたのです。義父母は大歓迎してくれましたが、いつまでも仕事がないまま頼ってはいけないと思い、近くのマンションに引っ越したのでした。そこに住み続けること7年。いよいよ手狭になったので今の場所に越してきたのが今月中旬です。

 夫婦そろって同じような仕事をしているため、わが家には年月とともに資料や書籍があふれかえっていきました。そして子どもたちが相次いで入学したことから、いよいよ引っ越しを考えなければいけない状況になったのです。子どもたちにはこれまで座卓で勉強や遊びをさせていましたが、体格も大きくなり、押した押さないでケンカも絶えなくなりました。

 幸い新たに入居したところでは初めて子供部屋ができ、二人とも大喜びです。私たちも「空間的広がりがこれほど心に余裕をもたらすのか」と改めて気付きました。大豪邸というわけではもちろんありませんが、それまでの間取りと比べると大いにのびのび暮らせます。

 今までは1階でしたが、今回は4階。空が近くなり、夜景も見えて、私などそれだけでも感動してしまいます。朝、カーテンを開けると目の前の電線にスズメが止まっており、「こんな至近距離でスズメを見たのは初めて!」と感激。夕方には階段の踊り場からコウモリが見えてそれだけでも「おおっ!」と感嘆したほどでした。夜、遠くの高層マンションの明かりを見ると、「人間というのはあれほどすごい建物を作ってしまうのか」とまたまた感心してしまいます。

 日ごろ通訳の仕事をしていると、ややもすると「あの単語が訳せなかった」「内容がよく分からなかった」と目の前のことだけにとらわれてしまいがちです。けれども一歩引いてみて、なぜ自分はこの通訳をしているのか、誰のために訳しているのか考えてみると、空間的な広がりからとらえられるように思います。将棋の羽生善治氏が述べるように、「大局観」で常に物事を把握することが大切なのです。

 自分が通訳した内容は、特定の聴衆のため「だけ」かも知れません。けれどもそこで得た知識をどう自分が生かすか。たとえば私は放送通訳者ですが、ニュースで聞いた内容をどう解釈し、よりよい社会にするために自分は何ができるかを考えることも、自分の英語力を社会へ還元することにつながると思っています。

 空間的な広がり。この視点で物事を考え続けたいと私は思います。

 

(2010年9月27日)

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記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

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