TRANSLATION

第10回 とある金融翻訳者の一日

土川裕子

金融翻訳ポイント講座

朝5時。この時期まだ外は暗いが、毎晩本を読みながら22時頃には沈没してしまう私は、何となく目が覚める。明るくなるまでは、新聞の時間。いまや新聞もタブレットで読める時代なので、布団に入ったまま、横着な姿勢で日経の電子版を読む。本当のところ、6時頃まで二度寝でもできれば最高なのだが、なにしろ日々情勢の変わる金融の翻訳を仕事にしているので、新聞の購読は必須。だが、特に気になる(経済的)イベントでもなければ、正直、面倒くさい。かといって一週間でもためようものなら、結局は仕事での調査が倍増し、自分に跳ね返って来るので、読むしかない。リアルタイムで追って得たのと同じ知識、同じ俯瞰図を後追いで頭の中に構築しようとしても2倍3倍の時間が掛かり、実に無駄である。……ことはよく分かっているのだが、実際にはしばしば読むのをサボり、後で自分に跳ね返ってくるのであった。

余裕があれば、ロイターやブルームバーグにも目を通す。自分が定期物の翻訳を担当している証券・運用会社のウェブページをチェックすることもある。外資系企業の月次レポートなどでは、本社(本国)のウェブページに掲載されると同時に翻訳開始、ということもあるからだ。実際には、日本支社の担当者がそれを確認して翻訳会社に発注、その後ようやく翻訳者に発注、という流れが多いが、大体の内容だけでも分かっていると、色々と下準備ができる。

そもそも、「隔月第1水曜日発行」とか「四半期最後の営業日に発行」とか言われていても、期日通りに来ることはあまりない(さすがに週次レポートは最悪でも数時間遅れでやってくるが)。にも関わらず、遅れた分だけきっちり納期を延ばしてもらえるような甘い世界でもないので、とにかく一刻も早い着手が重要となる。よってウェブ上に公開される文書の場合は、フライングになることを覚悟のうえでダウンロードし、準備をしておくわけだ。だが実際の依頼原稿がウェブ上のものと一部異なることもあるし、最悪の場合、依頼そのものがないという悲劇もある。予定の期日に原稿が間に合っても、コンプライアンス後にごっそり変更ということもある。涙が出る。

脱線した。

6時。天気が良ければ、ウォーキングへ。朝の時間が好きなので、半分は趣味と言えるけれども、半分は「体調管理」という「仕事」か。実際、階段のない今の家で、買い物にでも行かない限り、一日の歩数はもしかしたら2,000歩くらいかもしれない。「食うための仕事」という免罪符を高らかに掲げ、家事もテキトーに済ませているので、なにしろ歩かない。

しかし仕事が詰まっているときは、ウォーキングはなし。新聞もそこそこに、1時間半ほど働く。

早朝は静かでいい。新聞配達の音がするくらいで、電話は絶対かかってこないし、メールも来ない。しばしば気を失いそうになるランチ後の1時間と比較すると、生産性は2倍くらいなのではないか。世の中、なぜか「朝納品で結構です(=徹夜してでもきっちり納品しろや)」とおっしゃる翻訳会社さんが多いので、前日に完成一歩手前まで詰めておき、翌日朝に仕上げることもある。夜、(ある意味、納品時間まで余裕のある状態で)最後の詰めをするよりは、残り1時間くらいで強制的に追い込む方が、馬力がかかる気がする。

そして朝食。がっつり食べる。朝抜き? あり得ない。先日、健康診断のため久々に朝食を抜いたら、あまりに腹が減り過ぎて胃の検査用のバリウムがうまかったほど。

さて。

できれば8時過ぎには仕事部屋に入りたいところであるが、最低限の家事や、毎日恒例、母親への音声メッセージを録音していると、なんだかんだで8時半頃になる。(メッセージは約5分。あちらからも「次の水曜日にお友達を家に呼ぶ。おやつはこれこれで、お茶はいつものにする」だの「昨日は町内の掃除に参加した。Cさんが出てこなかった」だの、どうでもいい情報が大量に送られてくるので、それを大人しく拝聴する。なんて親孝行なのだろう)

8時半は、始業時間としては普通かもしれない。だがリビングから仕事部屋への通勤が徒歩5歩という点では、通勤組の皆さんに激しくうらやましがられそうだ(その分、激しく運動不足になるが)。

言い忘れたが、朝食前に「家弁」を作ることもある。納期に余裕がある場合は、昼にその場で作り、とっておいたビデオでも見ながら食べた方が気分転換になるが、例えば朝一(あるいは夜中)に入稿して、その日のうちに納品などという短期決戦の場合は、朝に弁当を作り、昼は仕事部屋で食べる。

PCを見ながら食べることはしない。だが「仕事モード」を途切れさせたくないので、デスクで弁当をかきこみ、お茶もそこそこに仕事に戻る。弁当の匂い漂う部屋の中で仕事をしていると、クラスの半分が早弁していた高校時代の4時間目を思い出す。

午後。食いぶちを稼ぐための仕事であるからして、さすがに寝てしまうことはないものの、朝方に比べると明らかに生産性は落ちている。そんなときは、椅子に座ったまま足を机の上に乗せて5~15分間の昼寝をする。最近は昼寝を推奨する企業もあるそうだが、足を机の上に乗せて寝ることまではできまい。弱小個人事業主にも、せめてこれくらいのメリットがなければ。

短い時間とはいえ騒音で起こされたくはないので、音を音でマスキングすべく、波の音をかなりの音量で流す。最近では、波の音=睡眠という条件反射が形成されているので、寝入るのに苦労はない。念のため言っておくが、足を机に乗せるのは、個室を与えられたC-suiteを気取るためではなく(そんなことをしても足の短さが気になるだけだ)、エコノミークラス症候群を防ぐのが目的である。

昼寝以外の休憩時間でも、床に寝ころんで足を壁にもたせかけ、血液を頭に戻す(つもりになる)ことが多い。これも在宅フリーランスならではのメリットだろうか。だが休憩は5分前後。単に目を閉じることもあるし、金融関係の本を読むこともある。体が固まっているときは、体操をすることも。いずれにしろ、気持ちが仕事から離れ過ぎてしまわないように気をつけている。この点、オフィスにいるだけで仕事モードが維持できる会社員諸氏と異なり、やや厳しいところだ。

昼寝のあと1時間くらいは早朝に近い生産性を確保できるが、朝と異なり、電話、メール、メッセージ、宅配や勧誘などのリアル訪問客、加えてコーヒーの極上の匂いで私の気を散らそうとする同居人の存在などが業務の支障となる。それらを乗り越えるほどの集中力があれば問題ないが、どうも最近、年齢のせいか、あるいは金融翻訳を始めてウン年、そろそろ気が緩み始めているせいか分からないが、集中力が落ちている気がする。そのため、集中力を途切れさせない方法をいろいろと試している最中だ。

3時。おやつはきっちり食べる。しかし一日の歩数が2,000歩(推定)に満たないこともある生活を送っているため、カロリーは大敵。したがって、食べるとしてもミニドーナツ1個とかせいぜいその程度で、涙がちょちょ切れる(安上がりだが)。仕事中、一歩も歩いていないのに異常に空腹になるときがあり、やはり脳はエネルギーを大量消費する器官なのだと実感する。そういうとき、脳のエネルギー源であるブドウ糖を補給しなければ仕事にならないし、といってこの超・運動不足状態で糖分をとり過ぎるのも問題だしで、なかなか悩ましい。

4時半~5時頃になると、本日の業務にケリをつけるのか、夕食後も働くのか、決断を迫られる。特に用事がなければ、我が家の早めの夕食(6時)を終えた後、少なくとも2、3時間は働くことが可能だ。だがなるべくならば「残業」はしないようにしている。くだくだしく理由を述べる必要もないと思う。

「残業」しない日の夕食後は、なるべくだらだら過ごす。そうでもしないと、起きている間中、頭が仕事のことになりかねないからだ。国際宇宙ステーションの通過が見られるときは、わざわざ見に行ったりする。月がきれいなときは、横着にも家の中で望遠鏡を組み立て、飽きることなく月面の様子を観察したりする。だが通常は、録画しておいた海外ドラマを見て、吹き替えのうまさにため息をついたりする。

そして早ければ9時には布団にもぐりこみ、本を読む。これも、業務とはまったく無関係なもの(主にミステリかSF)を読むようにしている。

さあ、明日の朝は月次案件があるから、5時から仕事だ。もう寝よう。

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記事を書いた人

土川裕子

愛知県立大学外国語学部スペイン学科卒。地方企業にて英語・西語の自動車関連マニュアル制作業務に携わった後、フリーランス翻訳者として独立。証券アナリストの資格を取得し、現在は金融分野の翻訳を専門に手掛ける。本業での質の高い訳文もさることながら、独特のアース節の効いた翻訳ブログやメルマガも好評を博する。制作に7年を要した『スペイン語経済ビジネス用語辞典』の執筆者を務めるという偉業の持ち主。

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