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放送通訳者直伝!

第357回 どこでも準備

通訳者というのは、業務を依頼された時点で一斉に準備を始めます。当日まで間があろうがなかろうが、とにかくひたすら勉強を続けるというのがこの仕事の特徴です。できる限りのことをギリギリまでする。それが当日の通訳パフォーマンスに直結するからです。「何が飛び出すかわからないからこそ、万全を期して臨みたい」「お客様に喜んでいただけるような通訳をしたい」というのが通訳者共通の願いです。

誰にとっても一日は24時間です。ゆえに、限られた時間内でどのように集中するかも考えなければなりません。中学高校のような「試験範囲」もありません。「ここまで予習したから、この通訳はバッチリ行くはず!」とはならないのですね。極端に言えば、「今まで生きてきた中で自分自身が吸収したことすべてが問われる」のです。

たとえば先日のこと。私はスロベニア関連の通訳業務に携わりました。私にとっての「スロベニア」というのは「メラニア・トランプ大統領夫人の出身国」という知識だけです。首都名も知らず、スロベニアの文化も宗教も言語もまったく未知のものでした。「自分は何をしらないのか?」を自問自答し、そこから準備は出発するのです。

今の時代であれば、おそらく誰もが「まずはインターネットで検索」となるでしょう。私もその一人です。ネットさえあれば大量の情報を入手できます。私が通訳者デビューをした時代はインターネットがありませんでしたので、自分で図書館へ出向いたり、関係者に話を聞いたり、あるいは書籍を買ったりする以外、方法はありませんでした。「自分の足で情報を獲得しに行く」というのが主流だったのです。

今回のスロベニア通訳の準備で、私はノートに調べるべき課題をひたすら書き出しました。最近はマインドマップを用いていますので、ノートの中央に「スロベニア」と記し、そこから線を広げて「文化」「政治」「宗教」「地理」などと書き出していきます。思いつくことをすべてこの段階で書き出していくのです。まさに連想ゲームです。

なお、概要をまずは把握する上で私が重宝するのは外務省の「国・地域」ページです。ここには国別に基本情報や日本との関係が簡潔にまとめられています。概要を知るうえでとても便利です。同様に「世界年鑑」(共同通信社)もコンパクトな記述ですので、こちらを図書館でコピーすることもあります。

こうしてある程度資料をそろえたら、あとは読み込み作業となります。本番までの準備時間を意識しながら、ひたすら読むのみです。キーワードに印をつける、単語リストを作成するなどもこの段階で行います。ただ、資料をそろえすぎてしまうと読む時間が足りなくなります。よって取捨選択も大切です。

資料の予習でもう一つ大事なこと。それは「集中力」です。私にとっての理想は「いつでもどこでも集中できること」なのですが、やはり人間ですので体調の波や周囲の環境もあります。いつ何時でも周りに左右されずに集中というわけにいかないのが悩みどころです。

そこでお勧めしたいのが「集中できる時間帯」「場所」を自分なりに編み出しておくこと。私の場合、イヤホンを付けるだけで仕事モードになります。また、勉強しやすいカフェや図書館などもいくつか決めています。電車内も座れさえすれば比較的集中できるようになりました。車内ではクリップボードがあると、安定して書く作業ができます。

過日、ヘンリー王子ご成婚のテレビ通訳を担当したときのこと。別の仕事の間に10分ほどの隙間時間があったため、行きつけのカフェへ向かいました。ところが満席!仕方なく駅へ戻り、「台がある場所」を探したところ、駅スタンプ用の台を発見!「10分だけ拝借いたします~」と内心思いつつ、資料を広げて読み込み作業をしたのでした。通訳者というのは、こうして「どこでもドア」ならぬ「どこでも準備」状態になるようです。スタンプ台を前に資料を口パクで音読する姿は、さぞ怪しく映ったことでしょう。

(2018年6月11日)

【今週の一冊】
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「ゴッホ 旅とレシピ」 林綾野著、講談社、2010年

先日、大学の授業でゴッホに関する教材を取り上げました。学生たちへの課題は「ゴッホに関する書籍を読む」というものです。今やゴッホ関連本は画集にとどまらず、弟テオとの手紙を分析する本やゴッホの作品のなぞ解きをするといった書籍も発行されています。せっかくですので、私も何か新しいアプローチからとらえたゴッホ本を探してみました。そこで見つかったのが今回ご紹介する一冊です。

著者の林綾野さんはキュレーターが本職で、ご専門は「アーティストと食の関係」です。本書はゴッホの作品に描かれている食材を使ったレシピが紹介されています。また、ゴッホが旅したフランスやイギリスなどのメニューを知ることもできます。

たとえば鮮やかなイエローがキャンバスいっぱいに広がる作品「黄色い紙の上の燻製ニシン」の隣ページには、「ニシンの燻製、マリネ仕立て」の写真が掲載されており、本の後ろに詳しいレシピがあります。一方、1889年にゴッホがアルルで描いた「タマネギの皿のある静物」。この作品をヒントに紹介されているレシピは「タマネギのスープ」です。いずれのレシピもシンプルなもので、すぐに作れそうです。

ゴッホは素直で何事にも真剣であったような印象を私は抱きます。今風に言えば「不器用な生き方」をせざるを得なかったのかもしれません。ゆえにわずか37歳で自らの命を絶ってしまったのでしょう。

先日、アメリカの人気シェフ、アンソニー・ボーデインさんが亡くなりました。CNNの看板番組を担当していたボーデインさんの早すぎる自死は、多くの人々に衝撃を与えています。食を人々に身近に感じさせる、そんな天才的な才能を持ったボーデインさん。彼とゴッホの生涯は、ある意味で共通点が見いだせるような気が私はしています。



第356回 思い出に残ることば

ここ数年間、4月始まりの手帳を愛用しています。月間カレンダーと週間見開き縦型タイプからなる一冊です。

この手帳には余白もあるため、私は月間カレンダーの余白に「今月の目標」を、一週間ページには「今週の目標」を書き出しています。具体的な達成事項というよりも、スローガン的なものを書き込んでいます。引用元は書籍の中の一節であったり、新聞記事などで読んだ心に残るフレーズだったりです。毎朝起きた直後に私は手帳を眺めるのですが、その際に「今週の目標」と「今月の目標」を必ず読むようにしています。1年が終了すると、月間目標は合計で12本、週間目標は52本書いたことになります。

本や新聞などを読んでいると、書き写したくなるようなフレーズにたくさん出会います。けれども残念ながらすべてを手帳に落とし込むことはできません。このため、記録しておきたい内容は手帳の余白ページや日記に書き写すようにしています。

そこで今週は、最近私が出会った珠玉の言葉をご紹介いたします。

1.「私たちの意欲は、ただ待っていても出てこない。何かをして良かった、楽しかったと思えるからこそ、またそうしたことをしてみたいという気持ちになるのだ。」
(「こころの健康学」大野裕、日本経済新聞、2018年4月16日月曜日朝刊)

私は動機づけや「やる気」に興味があり、この文章もその一環です。「何か楽しいことがないかなあ」と思っているだけでは、なかなか意欲は出てきません。実際に自分で動いてみて、色々な試みを通じて「楽しかった」「良かった」という経験を積み重ねることが大切なのですよね。最初のトライでうまくいかなくても、それは自分が悪いのではありません。たまたま相性が合わなかったととらえれば良いのです。そうして繰り返していけば、モチベーションは上がるはずです。

2.「希望を持つのはタダですので、明日を信じ感謝して生きて行こうと思っています。」
(「Human Report人間大好き350 星野富弘さん」『マンスリーとーぶ』2018年5月号、東武鉄道広報部発行)

詩画作家の星野富弘さんは若かりし頃、勤務先の中学校で部活動の指導中に事故に遭い、頚髄を損傷しました。1972年頃から筆を口にくわえて美しい絵と詩を創作なさっています。事故直後は絶望感に見舞われたものの、三浦綾子さんの「塩狩峠」を読み、自分にも役割が託されたのだと考え始めます。誰にでも希望を持つことは許されています。しかも「希望を持つのはタダ」。だからこそ前を向きたいと思います。

3.「可能性があると信じるなら飛び込んでみる方法もあります。そこでどれだけ納得できる仕事ができるのかが大切です。」
(「企業選びの新常識 遠藤功さん」『新卒採用広告特集』日本経済新聞、2018年4月24日火曜日朝刊)

実際の新聞記事だけでなく、新聞広告に書かれている文言にも私は注目しています。上記の文章はローランド・ベルガー日本法人会長の遠藤功氏によるものです。遠藤氏は早稲田大学で教鞭をとられたほか、ビジネス関連の本を多数出版されています。なかでも「ガリガリくん」に関する本は実に興味深かったですね。
 この文が掲載されていたのは就職活動生向けの全面広告でした。どのような仕事であれ、自分自身がその会社の可能性を信じるのであれば、思い切って飛び込むべしという内容です。私自身、新しい通訳分野やその他の仕事をする際、迷うことがあります。けれどもまずは試してみる。そして自分なりに納得できる仕事かどうかを見極めることも大事だと考えています。

4.「生活は常に質素で、華美なもの、権力の横暴を嫌った。幾多の喪失感を、研究と発見のエネルギーに変え、国際的に広く尊敬された。」
(「独創性という意志 第三回 『天才の発見を受け継ぐ』村上龍」、EPSON全面広告、日本経済新聞、2018年5月30日水曜日朝刊)

 こちらも新聞広告で見つけたフレーズです。筆者は村上龍氏。キュリー夫人について記した一節です。キュリー夫人は幼いころに姉を亡くし、のちに母、父も他界。ノーベル物理学賞を受賞してわずか3年後に最愛の夫も亡くなります。そのような悲しみがキュリー夫人を研究へと駆り立てたのかもしれません。
 たとえ今、大変な状況下にあるとしても、自分には与えられた使命がある。そのためにエネルギーを注ぐことこそ、社会への貢献につながると私は感じます。

5.「教育とは憧れに憧れる関係性である」
(齋藤孝・明治大学教授のことば)

 ここ最近、齋藤先生の本を手当たり次第に読んでおり、その中で発見した一節です。どの書籍から自分のノートに抜き書きしたのか忘れてしまいましたが、「憧れに憧れる」という言葉が私にとっては強烈に印象に残りました。
 私は今まで「学習者」として歩んできた際、その科目の先生に憧れられるかどうかがモチベーションの大きなカギを握っていたと思っています。たとえ苦手科目でも、先生が楽しそうに授業をしていると引き込まれていったのですね。そのような明るい先生に憧れ、やがてその科目にも憧れていくこと。これが指導における理想だと思ったのでした。
 通訳も同じだと考えます。漠然と「通訳者になりたい」と思うより、憧れたくなるようなベテランの通訳者を探してみることが学習意欲に結び付きます。そのためには「通訳者が活躍しているセミナーに出かけ、同時通訳レシーバーを借りて聞いてみる」「通訳者が記した本を読んでみる」など、色々な方法があります。私自身、デビュー前に耳にした大先輩の通訳に憧れ、その美しい通訳パフォーマンスを今でも目標としつつ、現在に至っています。

 以上、今週は私が惹かれたことばを5つご紹介しました。皆さんにも、自分を支えることばとの出会いがありますように。

(2018年6月4日)

【今週の一冊】
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「タイのごはん(絵本 世界の食事)」 銀城康子(文)、いずみなほ。星桂介(絵)、農文協、2008年

インターネットが普及し始めたころの私は「通訳の事前準備=ウェブで検索してひたすら読み込む」 と考えて実践していました。家から外へ出なくても、色々なことがネット上でリサーチできたからです。それまでは図書館や書店へ出向いたり、関係機関に問い合わせたりしていましたので、天候や時間を問わずに調べ物ができるようになったのは本当にありがたかったですね。

ただ、ネット検索の弊害もあります。それは「情報量が膨大になること」です。たとえば、手始めにWikipediaを印刷すれば、数十ページにわたることもあります。そもそもの基礎知識がなければ、たとえ日本語の解説でも頭になかなか入りません。

そこで思いついたのが、「まずは自分の身近なところから攻めよう」ということでした。準備時間に余裕があるときは、なるべく多方面からリサーチをしようと決めたのです。

今回ご紹介する「タイのごはん」。この本を読んだきっかけも、タイ関連の通訳準備のためでした。私は元々食文化に興味があります。ですので通訳の事前勉強も、自分の好きなテーマから入った方が断然頭に入ります。

本書は農文協が子ども向けに発行している絵本シリーズの一冊です。現在は全20巻が刊行されています。小さい子どもでも読めるように読み仮名が振ってありますし、地図やイラストも豊富に描かれています。タイ米と日本のお米の違いを始め、宗教がもたらした食生活や気候風土のことなど、「食」を軸にしつつも多様な観点からタイという国を知ることができます。おいしそうなタイ料理レシピも紹介されています。

食事マナーや市場・流通のこと、外食の話などもたくさん出ていますので、これを読んでから旅行に出かければ一層楽しめるはずです。子どもだけの本にしておくのはあまりにももったいない!ぜひ大人の方々に読んでいただきたいシリーズです。


第355回 どこまで準備する?

5月19日土曜日。イギリス王室ヘンリー王子と女優メーガン・マークルさんの結婚式が執り行われました。日本でも一部のテレビ局が生中継をしていました。数年前のウィリアム王子ご成婚以来、久しぶりの慶事です。このたび私も同時通訳の機会をいただき、とある放送局で業務に携わりました。

エージェントから依頼をいただいたのは数週間前です。イギリスから送電される映像を見つつ、状況や場面に応じて生で同時通訳をするという内容でした。準備時間は1か月を切っています。身が引き締まりました。

このようなご依頼をいただいた際、まず私が行うのは、ノートに「やるべきこと」を徹底的に書き出すことです。最近はマインドマップを活用しており、まずはノートの中央に「ヘンリー王子結婚式」と書きました。そこからどんどん線を引き、リサーチ項目を列記していくのです。「プロフィール」「家系図」「現在の活動」などをヘンリー王子メーガンさん双方で書き出し、さらに「ウィリアム王子結婚式」「ダイアナ妃結婚式」「衣装」「英国聖公会結婚式」「聖書」という具合に広げていきます。これ以上項目はないのではというぐらい、徹底的に書き出します。

このようにして列記したら、次はひたすら下調べです。私の場合、母語は日本語ですので、情報収集は日本語の方が断然早くなります。同じキリスト教でもプロテスタントやカトリックとイギリスの聖公会は異なりますので、宗教用語も頭に叩き込まねばなりません。世界の結婚式を紹介した図鑑を入手したところ、聖公会の式の流れや聖書の引用個所も出ていました。そこで今度は該当する聖書のページをコピーします。ただし、聖書の場合は、そのまま式で聖職者が読むと思われますので、英語聖書と日本語聖書の両方をコピーし、見やすいようにノートに貼り付けます。

さらにウィリアム王子ご成婚の式次第をネットで検索し、印刷します。そこに書かれている聖職者や登壇者の名前に正式な日本語名を書き込みます。日本ですでに報道されている場合、カタカナ表記も決まっていることがあるからです。さらに賛美歌の邦題も調べ、訳文もウェブで検索です。

ヘンリー王子結婚式自体の同時通訳とは言え、通訳現場では何が飛び出すかわかりません。ゆえに派生して調べるべきことは山ほどあります。ウェディングドレスや入退場時の音楽、聖歌隊の指揮者名なども調べた方が安心です。しかも今回はアメリカからカリー大主教がわざわざ渡英されるとのこと。カリー氏の動画を見ることで、その話し方やロジックの展開にも慣れる必要があるのですね。

あちらこちらと手を広げながら準備をしていると、あっという間に当日になります。しかも19日土曜日の朝にはイギリス王室が具体的な式次第を発表しました。いよいよ本番まであと数時間です。ここまで来れば、あとは式次第そのものを集中的に読み込み、該当する聖書の箇所や引用などを調べるだけです。もう一つ大事なのは、日本語訳を見つけたら必ず事前に音読すること。読んでみると案外読めない漢字があったり、発音アクセントで戸惑う部分があったりするからです。たとえば私の場合、「贖罪」という単語の強弱に戸惑いました。そのような時は、すぐに電子辞書に搭載されている「NHK日本語発音アクセント辞典」で確認です。

通訳現場というのはハプニングがつきものです。今回も当初の予定より式が早く進行したり、カリー氏の演説がアドリブになったりと、通訳しながらハラハラドキドキすることがたくさんありました。

通訳の準備には終わりがありません。どこまで備えてもエンドレスです。けれども、今回私は英王室メンバーのご成婚という滅多にない機会に間接的ながらも触れることができました。本当に仕事冥利に尽きると感謝しています。通訳本番では正確さを意識し、場の雰囲気を伝えることに専念しつつ、私自身がお二人の幸せに包まれたご成婚を堪能したのでした。

(2018年5月28日)

【今週の一冊】
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「ブリューゲルへの招待」 朝日新聞出版編、朝日新聞出版、2017年

私が初めてブリューゲルの作品を実際に見たのは、オーストリアに短期留学していた大学3年生の夏休みでした。ウィーン美術史美術館には「バベルの塔」「農民の婚宴」など複数が所蔵されているのです。中でも私のお気に入りは「子どもの遊戯」。90種類以上の子どもの遊びがそこには描かれています。絵本「ウォーリーを探せ」や安野光雅さんの「旅の絵本」を思い起こさせるような緻密さが好きなのですね。

今回ご紹介するのは、昨年春に東京都美術館で開催された美術展と連動して発行された一冊です。細かいディテールまで描かれたブリューゲルの作品をどのように鑑賞すべきか。この本を読めばそのポイントがわかるようになっています。

たとえば「農民の婚宴」には料理も描かれていますが、解説によれば、それはオランダの伝統的なシチュー「ハシェイ」と考えられるそうです。一方、「バベルの塔」を今の日本に出現させると、東京スカイツリーの634メートルに匹敵するのだそうです。なかなかの圧巻です。

ブリューゲルの作品には聖書の題材も多く登場します。たとえば「サウルの自害」は旧約聖書の「サムエル記」から、「東方三博士の礼拝」も「マタイ伝」から来ています。絵画の解説をきっかけに、聖書を紐解いてみる。できれば英語と日本語を照らし合わせながら聖書を読んでみると、大いに勉強になります。お勧めです。


第354回 原稿?万能ではありません

通訳の仕事というのは事前の準備がすべてです。業務を依頼された時点で仕事は始まります。たとえ当日まで数か月・数週間あったとしてもです。頭の中はその業務のキーワードを常に掲げ、関連する情報を手に入れながら日々を過ごすことになります。当日まで緊張感が続くことになるのですが、逆に私にとってはそれが心地よいのですね。限られた時間でどれだけ勉強をし尽くせるか、どれぐらい内容を自分の血肉にできるかを考えながら当日を迎えます。

満を持してその日となればベストです。ただし、いつもそうとは言えません。他の用事で思ったより準備ができなかったり、途中で息切れしてしまったりということもあります。それでも準備は準備です。泣いても笑っても通訳当日は来るのですよね。

運が良ければ直前に話者の読み原稿をいただけることもあります。これは本当にありがたいです。大きな会議の際、登壇者もぎりぎりまで演説原稿を練るものです。それを通訳者にお分けいただければ、私たちも準備ができます。たとえ開始数分前でも、参考になるものがあることは、より良いパフォーマンスにつなげられるのです。

私もこれまでそのような恩恵にあずかったことがあります。「英文の演説原稿は一切ありません」と事前に言われて覚悟を決めていたところ、「完成しました!」と通訳ブースに届けられたこともありました。しかも主催者の計らいで和訳も付けて手渡されたこともあったのです。これには感動します。誰もが忙しい中、より良い会議にしていこうという思いを皆が心に抱き、尽力してくださっているのですよね。

こうして英文と和訳が届けられた際、開始時間までの集中力がものを言います。まずは原文と日本語を突き合わせながら確認します。私が意識するのは「音読」です。他に通訳者がいる際には配慮して声こそ出しませんが、口パクで読むようにしています。まずは英文を1文読み、それに相当する和訳を読む。読みづらい日本語にはフリガナをつけ、発音に自信がなければ電子辞書に搭載されているアクセント辞典で確認です。たとえばキリスト教用語に「御名」「贖罪」などがありますが、読み間違える可能性があれば、「みな」「しょくざい」とカナを振るのです。さらに「み」「しょくざい」という具合に、アクセントを置く箇所をマークします。「知っている単語」が必ずしも「声に出せる単語」とは限らないのですね。神経を使います。

ここまで準備できれば、あとは本番を待つのみです。ご本人がこの原稿に沿ってお話しなさることを願うばかりです。ところがところが、スクリプトから外れることも少なくありません。開始直後は原稿通りであるものの、途中から即興で話すこともあり得るのです。実際私自身、それを何度も経験しました。「よーし、いただいた日本語和訳を丁寧に読んでいこう」と張り切っていても、演説途中から「え?今、原稿のどこ?違うこと言ってる!もしかしてアドリブになった?」となるのですね。

このようなときに大事なのは、とにかく慌てないこと。堂々と日本語訳原稿を読んできた分、心が焦れば声も上ずります。テンポも崩れてしまうのです。けれどもそれをマイク越しにお客様に感じさせないのもプロとして求められます。アドリブ時にはまずイヤホンから入ってくる英語音声に集中し、同時通訳に専念することなのです。焦る心をおさえて最善を尽くすべく同時通訳を行う。それと同時に、ご本人が原稿に戻ってくる可能性に備えて目は原稿を追っていくのです。演説者の表情を見つつ、耳で英語の演説を聞き、口からは日本語を同時通訳をしつつ、時折、目を原稿にやり確認する。そのようなことをブースで行います。つまり、「原稿=万能」ではないのです。

わずか10分15分の演説であっても、このような状況下に置かれると、心も体も相当緊張してきます。座り仕事ではあるものの、終了時にはグッタリです。私など、フルマラソンを走ったかのような(実際、走ったことはないのですが!)気分に襲われます。ゆえに、通訳者の「次の業務」は体のメンテナンス。行きつけの鍼灸サロンへ駈け込んでは、じっくりとほぐしていただいています。特に首、肩甲骨、背中、鎖骨、こめかみと頭の筋肉はガチガチになりますので、緩ませなければなりません。心身のケアも仕事の一部です。

(2018年5月21日)

【今週の一冊】
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"London's Secret Tubes" Andrew Emmerson, Tony Beard著、Capital Transport Publishing, 2007年

2月にロンドンへ出かけました。折しも現地は数十年ぶりの大雪!八甲田山の小説のごとく、雪中行軍に勤しんだ旅となりました。しかも観光オフシーズンにも関わらず、市内は旅行客であふれていましたね。どこへ行っても人、人、人でした。

人混みが苦手な私にとって、観光名所めぐりは今一つ気乗りしません。はるばる日本から出かけたのですから、知的好奇心を満たせることがしたいと思いました。偶然見つけたのが、ロンドン交通博物館が主催していたウォーキングツアー。テムズ川南部にあるClapham South駅の地下トンネルを歩くというものでした。

実はロンドン市内には戦時中、防空壕として使われたシェルターがいくつか残されています。Clapham Southもその一つ。階段を180段降りると、8本のシェルターがあります。戦時中の話をガイドさんから聞きながら歩くツアーは実に興味深かったですね。避難所としてだけでなく、戦後はカリブ海からの移民受け入れ施設に、そしてロンドン博覧会が行われた際には旅行客の宿泊所にもなったそうです。

今回ご紹介するのは、このような地下シェルターに関する一冊です。本書は総括的なもので写真も説明も豊富。巻末索引も充実しており、図鑑として活用できます。ロンドンには他にも連合軍が司令部として使ったシェルターや、BBCが戦時中の放送中断を避けるために造った地下施設もあります。第二次世界大戦について地下シェルターという観点から知ることのできる興味深い一冊です。



第353回 理念を頭に入れる

BBCで放送通訳を始めたころ、クリケットのワールドカップがありました。当時はインターネットもさほど普及しておらず、日本語で用語やルールを調べようにも難しい状況だったのです。そもそものルールがわからない中、同時通訳をせねばなりません。ずいぶん難儀しましたね。

そのときとった方法は、いわば「力技」です。対戦チームの勝敗だけ把握しておき、あとは優勝インタビューであれば勝者の喜びを念頭にそれらしく、敗者インタビューは負けて悔しいという思いを頭の中に描きながら通訳しました。あとは聞こえてくる単語と単語をつなぎ合わせて、何とか辻褄を合わせていたのです。今にして思うと冷や汗ものです。

とは言え、この方法が完全に間違いとは思いません。なぜなら通訳者は「話者の立場」を把握したうえで訳さねばならないからです。アメリカ大統領選で候補者を応援する人のインタビューの場合、共和党か民主党かを押さえたうえで訳す必要があります。環境問題しかり、紛争の和平交渉しかりです。「この人はどちら側の意見なのか?」を番組内で瞬時に把握していくのです。画面に出てくる名前と肩書、プレゼンターの紹介文などが頼りです。

立場さえつかめれば、あとはそれに大きく反れないことを念頭にすれば、聞き取り自体に集中できます。「この人のめざすところはどこか」をとらえることが大事なのです。

これは通訳に限らず、仕事全般において大切だと私は感じます。たとえば教育者の場合、目の前の生徒に何を教えたいかだけでなく、クラスや学年の目標を常に意識すれば、日々の授業に反映できます。さらに現在の学校目標や建学の精神、学是など、大きな視点に立つことで、どういった生徒を卒業させ、社会に送り出すかも見えてくるでしょう。

さらに鳥瞰図的にとらえれば、日本がどのような次世代を輩出し、国を支える人づくりにするかも考える必要があります。もっと広げれば、東南アジア、アジア太平洋、地球規模でどのような人が社会を支えるべきかとらえるべきです。「そのために自分は今、目の前の生徒たちに教えているのだ」ととらえれば、教える仕事も非常に責任重大であり、やりがいのあるものと改めて気づけるでしょう。

会社も同じです。日々の仕事が辛くなったら、所属チームや部の目標を見直したり、企業理念を確認したりすることで方向が見えてきます。会社のモットー、業界の目標、日本国内における位置づけ、世界にその業種がどのように貢献できるかを考えるのです。

このような視点に立つことができれば、自分がたとえ巨大組織の歯車のように思えたとしても、自身の仕事に大きな意味と意義が見いだせるはずです。自分が組織を、そして社会を支えているのだというプライドは人を前進させてくれます。

ずいぶん前に私は非常に難しい学術会議の通訳を仰せつかったことがあります。専門家の方々ばかりが参加するセミナーで、予習量が膨大でした。「これほどの専門用語は日常生活でお目見えしないのに」と、その難解さに音を上げたほどです。けれども自分が通訳をすることにより、その分野の学説は国際的に共有されることになります。そして専門家同士が交流を図れるのです。それがいずれは一般市民に還元されるのですよね。そう考えると、自分も微力ながら社会の一部を支えていると思えます。

近視眼に陥りそうな時ほど、理念を見直してみることが大切です。

(2018年5月14日)

【今週の一冊】
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"Made in North Korea: Graphics From Everyday Life in the DPRK" Nicholas Bonner著、Phaidon、2017年

2月にロンドンへ出かけました。オフシーズンなのに街中は人だらけ。人気の博物館も人混みが予想されました。そこで穴場ギャラリーを探したところ、キングス・クロス北側の再開発地域にあるミュージアムを発見しました。House of Illustrationです。

そのとき開催されていたのが"Made in North Korea: Everyday graphics from the DPRK"です。北朝鮮のポスターやパッケージデザインなどのオリジナルが多数展示されていました。なかなかお目にかかれないアイテムばかりです。

展示会ではプロパガンダ・ポスターだけでなく、漫画やコンサートのパンフレット、機内グッズなども見られました。雰囲気としては昭和時代の日本という感じです。デザインはとても精巧で、芸術的にも味わい深いものでした。

今回ご紹介するのは、その展示会の内容がすべて網羅された一冊です。著者のBonner氏はイギリス出身。景観設計を専攻し、中国建築に魅了されて中国へと渡ります。そこで友人と北朝鮮向けの旅行会社を興したそうです。その後、シェフィールド大学での指導ポジションをオファーされたものの断り現在に至る、と前書きには書かれていました。

本書をめくると北朝鮮のデザインがオールカラーで味わえます。南北首脳会談も開催され、米朝首脳会談への期待も高まる今、政治とは別に一般の人々の生活を垣間見られる「デザイン」に注目するのもお勧めです。




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プロフィール

柴原早苗

柴原 早苗さん
放送通訳者。獨協大学・順天堂大学非常勤講師。 上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。 ロンドンのBBCワールド勤務を経て現在はCNNj、CBSイブニングニュースなどで放送通訳者として活躍中。 NHK「世界へ発信!ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説を担当。 ESAC(イーザック)英語学習アドバイザー資格制度マスター・アドバイザー。 通訳学校にて後進の指導にあたるほか、大学での英語学習アドバイザー経験も豊富。 著書に「通訳の仕事 始め方・稼ぎ方」(イカロス出版、2010年:共著)、「英検分野別ターゲット英検1級英作文問題」(旺文社、2014年:共著)。 「放送通訳者・柴原早苗のブログ」 http://sanaeshibahara.blog.
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