TRANSLATION

Vol.25 山が教えてくれたこと

ハイキャリア編集部

翻訳者インタビュー

第25回 中島 聡子さん  Satoko Nakajima
いつもはモスクワで活躍中の中島さんに帰国中を狙ってインタビュー!日本の湿気と暑さに既にお疲れ気味でしたが、心のうちに秘めた情熱とその行動力に圧倒されたインタビューです。銀行員時代、山登り、コロンビア大学院留学、途上国支援活動、そして翻訳から見えてくるもの。聞き尽くせない中島さんのお話を凝縮してお届けします!

<プロフィール>
米系銀行で13年間勤務後、コロンビア大学国際関係大学院で開発学を学ぶ。学生結婚したご主人とともに日本に戻り発展途上国支援の仕事に携わる。その間に長女出産。2006年4月にモスクワ移住、フリーランス翻訳業を開始。『通訳・翻訳者リレーブログ』にて”さるるん@ロシア”のハンドルネームで毎週火曜日担当。

Q. 語学に興味を持ったきっかけは?
母方の祖父が英語教師で、自分が初孫だったこともありかわいがってもらい、小学3年から英語を教えてもらいました。祖父はいわゆる”慶応ボーイ”でしたが、そこは明治生まれ。”because”は”なんとなれば”だと教えられました!その頃から漠然と自分は英語を使った仕事をしていくんだろうな、と思っていました。進学先の津田塾大学で専攻したのはアメリカの地域研究です。当時はアメリカで起きたことが10年後に日本で起きると言われていたので、日本の将来を知りたいという気持ちで勉強しました。

Q. 卒業後初めてのお仕事は外資系銀行でしたね。金融関係に興味を持っていたのですか?

私が大学を卒業した頃は、女性が男性と同等に仕事ができるのは外資系企業だけと言われていました。多様な日本企業を支える立場にある銀行で、英語を使って国際的な舞台で仕事をすることに魅力を感じました。

Q. 現在は金融・会計を中心に翻訳をされていらっしゃいますが、翻訳に生かされる基礎がここで築かれたのですか?

そうですね。所属は貿易関連の部署でしたが、貿易を通して国と国とのつながりや世界の中での日本というものを確認することができましたし、外国為替や銀行の商品についての基礎知識はここで得られました。リスクマネジメント関連の知識として財務諸表など企業判断に関する書類の見方を学んだり、監査に対応する機会がありましたので、今の翻訳業に役立っていると思います。また、入社後10年で課長職に昇進しました。その時にマネジメントとはどういうことかを学び、部課長レベルのミーティングで戦略的な話に加わる機会があったことが、後に他の仕事でマネジメントに携わる際の基礎になりました。翻訳で議事録などを訳す際にもイメージがつかみやすいですね。社内文書が全て英語だったので、英文のビジネス文書にも慣れました。

Q. その後アメリカの大学院に留学したきっかけは?
銀行員時代、山登りが好きで年間100日くらい山に登っていた時期がありました。土日も長期休暇もほぼ山にいた感じですね。主に北アルプスなど日本の山に登っていたのですが、山仲間に「ネパールに行かなくては!」と薦められ、ヒマラヤトレッキングに行ったんです。ここで見たものは、ネパールの人びとが家族をとても大事にしていて、昔の日本のような温かさを残していることでした。一方で生活は貧しく、彼我の差を感じました。この時をきっかけに途上国の問題に関心を持つようになりいろいろ調べるうちに、自分が関わっている貿易(フリートレード)の構造が途上国の貧しさと無縁ではないという思いにいたりました。これからは途上国支援に携わろうと決め、開発について総合的に学ぶためにコロンビア大学の大学院に留学しました。

Q. NYでの留学生活はどうでしたか?

留学先の国際関係大学院は世界中から人が集まってくるところでそこが魅力でした。アフリカや南米出身の女性たちがとてもアグレッシブで圧倒されました。『ニューヨーク・タイムズ』を購読していましたが、さすが米国は世界の警察と言われるだけのことはあり、世界中の動きを取り上げているところが日本の新聞雑誌にはない点でした。日本のメディアによる海外のニュース報道があまりにも限定的だと気づかされました。ちょうど留学した頃は冷戦終結から数年という時期で、これからの世界は日米欧の三極化だと楽観的に考えていました。日本がアジアや世界の中でも中心的な役割を担っていくと期待していたのですが、外から日本を見ると日本にはリーダーシップを取ろうという気概がないと思えてきましたし、アメリカの目も既に日本ではなく中国に向いており、愕然としました。海外で暮らすと、日本がよく見えるようになる気がします。

Q. ご主人との出会いもこのNYだったのですね。

はい。私が開発専攻で主人が環境政策専攻。アメリカの外交政策のゼミで出会いました。主人はロシア人です。私の育った北海道では冷戦時代にはソ連の存在はリアルな脅威だったので、主人と初めて会ったときもロシア人ってどういう人間なんだろうととても興味があって、私から話しかけたような気がします。徐々に話をするうちにお互いを理解していったのだと思います。主人からのプロポーズはこの留学中、今はなきワールドトレードセンターの屋上でした。ちょうど卒業の時期が近づいていた頃で、もしこのまま卒業して離れ離れになったら二度と会えないと思い、プロポーズを受けてから2週間も経たないで書類を整えて結婚しました。その時互いの親には写真しか見せていませんでしたが! そして、二人で日本に戻ってきました。

Q. すごい行動力!ところで”翻訳”との出会いはいつ頃だったのでしょうか?

職業にするかどうかは別として、大学時代から翻訳自体に興味があり、中田耕治先生(翻訳家、作家、評論家、元女子美大教授)の文芸翻訳の講座を受けたことがあります。その授業で自分の訳文を発表する機会があったのですが、当時はまだ人生経験が浅くいわゆる男女の機微を理解できなかったため、「それはそういうことではないよ!」と周りから爆笑されたりして・・・。銀行員時代には、ボランティアとしてフォスターペアレントとチャイルド間の手紙を百通以上翻訳した経験があります。留学後は仕事の一環で翻訳をする機会も少なからずありましたが、収入を得た初めての翻訳という点では、NGO団体に勤めていた頃、主人の英訳の下訳をしたことが最初といえるかもしれません。フリーランスとして翻訳業に専念し始めたのは、モスクワに引っ越してからです。

Q. フリーランサーとして翻訳業を始めたのは背水の陣だともお聞きしました。

確かに最初はそういう意識がありました。子どももいますし、ロシア語は簡単な日常会話程度のレベルです。現地の会社で働くにも難しさを感じましたので、在宅で翻訳の仕事ができるということはありがたい選択肢でした。翻訳という仕事を通じ、様々なビジネスを下支えしているような気持ちになります。翻訳を通じ世界の中の日本を、しかも日本の外から見ることができます。そういう風に世界や日本に関わる仕事がしたいとずっと思ってきましたし、ビジネス翻訳の仕事を始め、仕事を通して世界の動きを知るという感覚がよみがえってきています。

Q. これまでの失敗談はありますか?

今もそうなのですがまだ自分は若葉マークなので、適量が分からないときがあります。原稿を見たときに必要翻訳時間が正確に把握できず、結果的にとてもぎりぎりのスケジュールで作業をすることもあります。立て込んでいる時期は、起きている時間は家事をするか仕事をするかで、一日中翻訳している気がします。主人に夕食の準備をしてもらったり、土日は家が静かな環境になるようにと子どもを外へ連れ出してもらったり、何かと協力してもらっています。

Q. 仕事で大切にしていることはありますか?

人生で大切だと思うことは、山から学んだことが多いです。パーティを組んで山に入り、ザイルをつないで登る時には仲間との信頼関係は絶対です。そういう意味ではテンナインとはパーティを組んでいる気持ちになっています。
以前一人がベテランで三人が冬山初心者という四人のパーティで雪山に登ったことがあります。麓から見上げると美しい雪煙ですが、その中は強風で体が吹き飛ばされそうな世界です。滑落の危険のある場所でザイルを出したのですが、私ともう一人がパニック状態だったのか、ハーネスにザイルを通す方法を思い出せなくなったのです。先行した二人を散々待たせてしまいました。手が覚えていたブーリン結びで直接ザイルを体に結び付けて進みました。二人は「早く来いよ!」と思っていたはずですが、寒い中何も言わずに待っていてくれて、その時にパーティを組んで自分の持分をしっかりと果たさないと仲間まで巻き添えになってしまう、この人たちを死なせてしまうんだと思いました。自分の持分を果たすことが仲間を生かすことだと強烈に感じました。その後仕事をする時にもチームで仕事をする時には、他の仲間を倒れさせないためにも自分ががんばる、という意識は心の底にあります。

Q. 将来の目標やプランはありますか?

今は、日本とロシアの二つの祖国を持つ我が子に日本をどう継承していくかということが自分にとって大きなテーマです。そう思うと、やはり現在日本が危機的な状況にあることを考えずにはいられません。日本のために何かをしていこうと思いますが、翻訳をしながら日本のビジネスの後押しをし、そこから私もいろいろと学んで、日本のあり方を考えられるかもしれない。そういった意味では今の自分に合ったことをさせてもらっています。
また日本に帰ってきて、翻訳の仕事をそのまま続けるかどうかは正直わかりません。もし何か活動の場所が見つかれば、何をするかはわからないですね(笑)。でもどこかで一生活動家でいたいのかもしれません。

<編集後記>
常に世界の中の日本を意識し、そのために何か役に立つことをしていきたいと語る中島さんの心に熱い炎が静かに燃えさかっているのが見えました。今後翻訳の枠を飛び越えて活躍の場を広げてほしいと思います。中島さんの口からこぼれるちょっとした言葉がとてもユニークで、全部をご紹介できないのが残念です。皆さん、『リレーブログ』も要チェック!山の話やモスクワの話ももっと聞きたかったです。

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ハイキャリア編集部

テンナイン・コミュニケーション編集部です。
通訳、翻訳、英語教育に関する記事を幅広く発信していきます。

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