INTERPRETATION

第134回 次の道をひらくには

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

数年前、近所のカフェに立ち寄ったときのことです。お店の近くには大きな公園があり、たくさんの子どもたちがにぎやかに遊んでいます。かつては子連れで喫茶店に入るのは憚られたものでしたが、近年はおしゃれなカフェに集う親子の姿があります。

その日私が座った席の隣にはベビーカーがあり、中では赤ちゃんがスヤスヤ寝ていました。お母さんはというと、問題集のようなものを真剣に解いています。

ふとしたきっかけで、少しだけ言葉を交わしました。聞けば資格試験突破をめざしているとのこと。家では勉強できないので、まずは外の公園で赤ちゃんを思い切り遊ばせるのだそうです。そしてお子さんがくたびれてベビーカーで寝入ったらようやく勉強のチャンス。このカフェに入り、テキストを広げるのだと語っていました。乳児ですので、いつ眠りから覚めるか分かりません。そのときまでの時間を大切に丁寧に勉強に充てたいというお母さんの気持ちが伝わってきました。きっと今では彼女も資格を手にしたことでしょう。

家事・育児・勉強や仕事のバランスをどうとるか。これには絶対的な正解はないと私は考えます。その人の価値観や置かれた環境は異なるのです。体力・気力的なものもあるでしょう。時短のノウハウやグッズはありますが、それでも理想通りいかないかもしれません。他人と比べれば焦りばかりが募ります。

私が尊敬する精神科医・神谷美恵子先生は、お子さんたちが生まれたころ、学問に没頭したくてたまらなかったそうです。研究したい、論文を書いて学会で発表したいという悲痛な胸の内が、みすず書房刊の日記には記されています。まだ戦後間もないころです。彼女はそうした自分の勉強欲を「鬼」と呼び、そのオニが表に出れば家庭を壊してしまうと恐れていました。「風よ吹け吹け」と心の中の鬼をなだめている様子も綴られています。

悩みに悩んだ末、彼女は結論を出しました。長い論文ではなく短い文章を書きためていこうと決めたのです。これなら家族を二の次にせず、少ない時間で取り組めます。そしてたくさんのエッセイを残したのです。

今は本当に恵まれた時代です。子どもを置いて働きに出ても、うしろゆびをさされることはありません。私が働く通訳や教育の世界には女性が多くいます。先輩方のおかげで安心して仕事に集中できるとありがたく思います。

今後、年齢と共に私の状況も変わることでしょう。アクセル全開で進めるかと思えば、同じ場所に停滞するときが来るかもしれません。何にしても、大切なのは人と比べず、今、目の前の状況を受け入れること。そしてその中で最善を尽くすことです。月並みな考えかもしれませんが、その積み重ねがあってようやく私たちの目の前には次の道がひらけてくると思うのです。

(2013年10月7日)

【今週の一冊】

「『謝罪の王様』オフィシャルブック 土下座の彼方まで~黒島譲に学ぶ謝罪の極意~」東京ニュース通信社、2013年

手前味噌で大変恐縮なのだが、今回ご紹介するのは私が端役で出演した映画の公式本を。監督の水田伸生氏、脚本家・宮藤官九郎氏、そして俳優・阿部サダヲさんはこれまでも「舞妓Haaaan!」と「なくもんか」でチームを組んできている。3回目となるのが本作「謝罪の王様」である。阿部さんが演じるのは「謝罪師」という仕事。誰かの代わりに謝ることで問題解決を図るという役である。

ちょうどドラマ「半沢直樹」が終了した後にこの映画は公開されたのだが、どちらの作品にもよく登場するのが「土下座」という言葉。でも私が本作品の収録に赴いたのはまだダウンジャケットを着る寒い時期だったので、「半沢直樹」よりは少し前だったかな、などと勝手に思い込んでいる。

関係者向け試写会で観たときも笑えたのだが、公開直後に鑑賞した時はさらに楽しめた。1度目には気付かなかったしかけが分かったからだ。そしてこの本を読んだのはそのあとのこと。3回目はもっと味わえることだろう。

ちなみに私は映画後半に「放送通訳者」として声の出演をしております。よろしければご覧ください。

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記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

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