INTERPRETATION

第148回 挨拶のこと

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

「こちらから挨拶しているのに、返してくれない。」そんな状況に遭遇したことはありませんか?ずいぶん前に私はこの件で悩んでいました。

ある場所で、定期的に顔を合わせる方がいらしたのですが、なぜかこちらの挨拶に無視を決め込んでしまうのです。私としては聞こえるように大きい声を出しています。目も合わせています。なのに相手はこちらを一瞥するのみで、一切反応がないのです。いえ、厳密にいえばリアクションはあります。鋭い視線でこちらを見る、という反応が。

私は自問自答しました。何か失礼なことを私がしてしまったのではないか?いつ、どのような状況で相手の気分を害してしまったのだろう?どうしたら状況を改善できるか?誤解を与えたままならば、それを解きたいと。

しかしいくら考えても思い当たることがありません。その人との接点はその後も続きます。私は悩みました。好意的に挨拶の言葉を投げかけても無反応。これはこたえます。挨拶するたびにむなしい。それどころか、相手の厳しい表情にくたびれてしまいました。

私は迷った結果、「相手が無視するならば、私も挨拶するまい」と決めます。意図的に顔をそむけるのではなく、同じ空間に居合わせたとしても「相手は自分の視界内に存在しない」と考えたのです。「そちらがそういう態度なら、私も同じにする」、心の中では強気でした。

相手の反応にいちいち傷つかなくなりましたので、負担は減りました。しかし、私はそれを続けることができなかったのです。教え子や我が家の子どもたちに挨拶の大切さをさんざん説いている自分が、小さな強がりを見せている。しかも自分の価値観と逆のことをしている。それが心の中で重さを増していきました。

「こんな態度、やっぱり止めよう。」そう思った私は、再びその相手に対して挨拶を始めました。リアクションはもう考えない。にらまれようが無視されようが構わない。信念として声をかける。そんな思いで続けました。

ある日のこと、その方は少しだけ首を傾けてくれたのです。ぎこちないものでしたが、明らかに体が反応していました。それから日を追うごとに、小声で挨拶を返してくれるようになったのです。

私が悩み始めてからすでに数年がたっていました。先方はあそこまでだんまりを決め込んでいたのですから、反応しづらかったことでしょう。でもリアクションを見せてくれるようになったことは、私にとって嬉しいものでした。

私は色々な人の職業を見るのが好きです。仕事の進め方、理念など、通訳業とは異なっても、何か学べる点があるからです。特に注目するのはその人の挨拶の仕方です。どのような表情でどんな声をかけるか、それだけでその方の仕事観を垣間見られるように思います。

中でも尊敬するのは、「無愛想なお客が相手でも、にこやかにしっかりとあいさつする」方たちです。私の周りにもずいぶんいます。最寄駅の売店員、宅配便のドライバー、ヘアサロンのスタッフ、スポーツクラブのインストラクターなど、私が日ごろお世話になる方々の仕事観には本当に学ばされます。

「ええい、そちらが挨拶しないなら、こちらもしない!」こんな幼い反応しかできなかった自分を、今となっては恥ずかしく感じます。他の方々の仕事に対する理念や信念から、学び続けたいと思います。

(2014年1月20日)

【今週の一冊】

「人生とは勇気」児玉清著、集英社、2012年

2011年に亡くなった俳優・児玉清さんは読書家としても知られている。私もどちらかと言えばテレビやスクリーンでお見かけしたことよりも、その文章に触れている時間の方が多かった。

児玉氏の文章を初めて読んだのがいつだったか、今となっては覚えていない。ただ、その頃は「文学論者イコール学者」というイメージが私の中にはあった。よって、一人の俳優が文学作品について批評しているというのはピンとこなかったのである。

しかし、氏のエッセイは違った。鋭い視点から切り込みつつ、作者への敬意があふれている。バランスのとれた文章だった。ああ、この人は本当に本が好きで言葉を愛しているのだなと思わせる内容だった。

そんな児玉さんが、実は晩年に愛娘を亡くしていたというのは衝撃的だった。お嬢さんは末期がんと宣告され、お子さんを残してまだ30代という若さで逝ってしまったのだ。本書の後半には「祈り」をキーワードに娘さんのことを綴っている。短く淡々と綴られたことばから、児玉さんの無念さが伝わる。

俳優、読書家、司会者、批評家として多才な能力を発揮された児玉氏。本書の中で印象的だった箇所をひとつご紹介したい。

「(司会に関して)緊張はある程度はあったほうが番組としては締まるわけです。(中略)なぜならば、番組というのはある『凝縮した時間』を作るわけですから」

通訳も同じだと思う。あがる必要はないが、緊張感はあって良いと私は感じている。凝縮した時間の中で、聞き手に対していかに正確でわかりやすく伝えるか。私自身、まだまだ試行錯誤の日々である。

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記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

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