第352回 出版翻訳家デビュー記念インタビュー~石井ひろみさん 前編
今回の連載では、出版翻訳家デビュー記念インタビューをお届けいたします。デビューサポート企画に登場されていたIさんこと石井ひろみさんが、14社目の持ち込みでついに出版を実現されました! 翻訳を手がけられた『ルース・アサワ 触れるものすべて』は日経新聞や読売新聞、毎日新聞のほか、共同通信の配信記事として各紙の書評欄に取り上げられました。さらに「芸術新潮」「美術手帖」といったアート関係の専門誌から「週刊新潮」「子どもと本」まで幅広く紹介され、大きな反響を呼んでいます。そんな石井さんに、原書との出逢いや持ち込みについてお話を伺いました。

石井ひろみさんプロフィール:
翻訳者。南山大学文学部卒。米イリノイ大学大学院修了(MBA)。米国在住時、スミソニアン国立アジア美術館(旧フリーア美術館および旧アーサー・M・サックラー・ギャラリー)や日系アメリカ人関連団体の活動にボランティアとして携わる。博物館学芸員資格をもつ。現在は出版翻訳を中心に活動しており、『ルース・アサワ 触れるものすべて』が初の美術評伝訳書となる。
寺田:あらためまして、ご出版おめでとうございます! 石井さんはデビューサポート企画に応募してくださった時点から、かなり完成度の高い企画書を用意されていました。試訳を拝読したところ、内容も面白く、「早くこの本を日本語版で読みたい!」と思っていました。そもそも、この原書とはどうやって出逢ったのでしょう?
石井(以下敬称略):米国での記念切手発行のニュースを見かけたことがきっかけでした。とても素敵な作風だったので、ちょうど刊行されたばかりだった評伝を読んでみたら、もう一気読み、というくらいに引き込まれまして……。このあたりのいきさつは、先日寄稿した「ほんやくwebzine」の記事でも詳しくご紹介していますので、ご覧いただけたらうれしいです。
原書との出逢いが2020年の夏。その年の秋に、ある翻訳情報サイトのオーディション企画に応募しました。持ち込みの翻訳企画の概要をリストに掲載してもらって、興味を持ってくださる出版社があれば、その企画が日本で本になります。最高に面白い作品ですし、アメリカでは大きな話題になっていたので、なにかしらの反応はもらえるだろうと期待していましたが、これがまったくなし(笑)。それでも、どこかの出版社さんが出されるだろうから、半年くらいしたら出るだろうな、と思ってたんです。でも、出ないんですね、なぜか。それで、こりゃもう自分がやるしかないのかな、とこちらのデビューサポート企画に応募させていただきました。寺田さんの連載はずっと拝読していて、「へえぇ、そうやって持ち込むのか」と勉強させてもらっていましたが、まさか自分が当事者になるとは思いませんでした(笑)。
寺田:作品や企画書のクオリティとしては、すぐに出版が決まってもおかしくなかったのですが、評伝というジャンル自体の難しさもあり、時間がかかりましたよね。
石井:作品自体のクオリティが高くても、扱う人物やテーマが日本で知られていないと、わりとそこで終わりなんですよね。海外では話題でも、「それ誰?」と言われてしまう……。まずはなにかしらの点で興味を持っていただけないと、挽回は難しいです。持ち込みを始めた当初はかなり思い上がってまして、「(ルース・アサワは)朝ドラの主人公になってもおかしくない人です!」とかご紹介していました。まあ、今でもそう思っているんですけど(笑)。「とにかく良い本だから通るはず」という思いだけでやっていました。
寺田:途中では、つらいご経験もされました。最終的に14社目での企画通過となりましたが、最後まで頑張れたのはなぜでしょう?
石井:2026年がアサワの生誕100周年にあたる、と気づいたことが大きかったのかな? その時までになんとかしないと、と思いました。故人の供養というわけでもないんですが、「出版の道筋だけでもつけなくては」という謎の使命感を抱いてしまって(笑)。また、100周年だと思いついたことが、企画としてのアピール材料にもなりました。たぶん、先方の編集者さんも企画会議で言いやすくなるんじゃないでしょうか。そういう情報が提供できると、反応が変わってくることを実感しました。
寺田:本書を担当してくださった編集者さんが、たまたまルース・アサワに注目していたんですよね。アサワのニューヨークでの回顧展にも行こうと思っていらしたとか……すごい巡り合わせですね。
石井:はい、その話を初回の顔合わせでうかがって、おお、こりゃもう運命だと(笑)。ちなみに、アサワの師であるジョセフ・アルバースの回顧展が2023年に日本で開催された際、本書の解説を書いてくださった沢山遼さんの関連講演会があって、拝聴したんです。翻訳の参考になるかと思って参加させてもらったんですが、なんと、その編集者さんもいらしていたそうです。
寺田:当時からご縁が始まっていたんですね。編集者さんのアサワへのご関心もあり、本書の企画通過につながりました。翻訳自体はいかがでしたか。
石井:自分にほんとに訳せるのかなぁ、と最後まで思っていました。第4章の「ブラックマウンテンに登る」なんかはウキウキ訳せるんですが、日系人差別に強制収容、後半は病気、設立した芸術高校の移転問題など、試練や苦労もてんこもり、みたいな人生で……。彫刻関連のくだりにしても、鋳造作業の細部など、文献情報だけだとぴんとこないところも多いですし。陶芸は多少かじったことがあるのですが、彫刻の専門知識はありませんでしたから、なるべくボロが出ないように(笑)、わかる方が読んでくださっても違和感がないように、しつこく見ていきました。評伝の翻訳は大変です。なんといっても人の一生ですから、さまざまなことがありますし、いろいろな人に出逢います。それらを追いかけて、できるだけ正確に、かつ日本の読者にわかるように伝えなくてはいけません。
寺田:拝読して、「これを翻訳するのはさぞや大変だっただろうなぁ」と思いましたが、見事にやり遂げられたことに感心しています。この装幀もまた素敵ですよね。
石井:そうなんです! 表紙のオレンジ色は銅の色、帯は鉄の色、タイトルは銀箔押し、扉は金色……ルース・アサワのワイヤー彫刻の素材も意識してくださったのかな、と感動しました。あと、憧れの奈良美智さんに帯文を書いていただけたのも、うれしいサプライズでした。

寺田:精魂込めた作品を、このような形で世に出せるのはうれしいことですよね。発売後は書店でアサワ作品のパネル展が開催されたり、多くの媒体で書評が出たりと、反響も大きいですね。
石井:本当にありがたいことです。でも、まだ周囲からの感想はあまりもらえてないんですよ。
寺田:そうなんですか?
石井:はい。きっと、まだ読んでくれていないんじゃないかと……。
寺田:ページ数も多いですし、内容的にも読みこなす体力が要りますものね。
石井:いちど没入できると、わりとすぐなんでしょうけどね(笑)。それでも、うれしかったことが2つあります。1つは、地方の学校で教える美術教師の方から熱いお便りを頂戴したことです。便せん十数枚にもわたる、ぶ厚いお手紙で、本書をオマージュした絵まで添えてくださっていました。もう1つは、こちらも地方にお住まいの、90代の男性からの読者カードです。「○月○日読了、すごい本にめぐり会った」といったことが書いてあって。その年齢の方が、書評を見てさっそく書店に赴き、読んでくださったのか、としびれました。
寺田:そういうご感想をいただくと、苦労が報われますね。私は、「ルース・アサワはバットマンだ」と思いました。日系人として第二次世界大戦中に収容され、鉄条網に閉じ込められていたのに、その素材である針金を使ってアート作品を生み出しました。自分を苦しめていたものを美しいものにつくり変えたわけですよね。『バットマン ビギンズ』で描かれているところでは、バットマンは、自分にとっての恐怖の象徴であるコウモリを身にまとうことで強い存在になっていきます。そんなふうに、マイナスをプラスに転化させるところに共通点を感じました。
石井:おお、そうなんですね。じつは私は「この人、花の子ルンルンみたいだな……」となどと思っておりました。植物が好きで、さすらいの旅をしながら問題を解決し、最後は軽やかに去っていく――花の種を残して。よく考えると、むっちゃかっこよくないですか? ちなみに『花の子ルンルン』の最終回では、彼女がお家に帰ったら、各地で残した種から育った花の種が届いていて、庭で満開になっていたみたいです。いろいろなものに触れ、後押ししながらも、そこで自分がいい思いをするのではなく、動き出したら軽やかに去っていって、良いところは人にあげちゃう。行く先々で幸せの種を授け、それを誰か別の人が育てて、その人が幸せになっていく――そんなところが似ている気がします。たとえば『キャンディ・キャンディ』みたいに「私がキャンディよ!」と前面に出るんじゃなくて。
寺田:石井さんに似ている部分も多く感じましたよ。265ページに、こんな箇所がありますよね。
“実際の制作作業にとりかかれるまでに、打ち合わせや入札、設計・開発、現場視察、素材選びなどで数カ月間かかるのは当たり前で、数年間かかることも珍しくない。もちろん制作費の交渉や契約書の調印等もあらかじめ済ませておく必要がある。この間ずっと、自らのビジョンに変わらぬ情熱を抱き、やる気と集中力を保ち続けるのは簡単ではない。よほどの覚悟がないかぎり、くじけそうになるはずだ。”
持ち込みも数年がかりでしたが、ずっとくじけずに続けてこられた石井さんの姿に重なりました。
石井:ありがとうございます。でも、じつは「すんません、私はくじけてばかりで」などと思いながら、この箇所は訳していました(笑)
寺田:そうでしたか。306ページに「こうした状況はすべて、ルースをますますやる気にさせたようだった」とあるように、やる気になっているように見えました。
石井:その辺は、自分に言い聞かせるように作業していたかもしれません。「アサワがこんなにがんばっていたんだから、私もやらなくちゃ」と思って。「アサワが作品制作に打ち込めるのは、家族が寝静まってからだけだった」ということが書かれていましたが、私も落ち着いて翻訳できるのは深夜で、気がついたら午前4時とか5時、というときも結構ありました。納品が迫っていた頃は、2ヵ月ほどショートスリーパーのようにしてやっていました。今の部屋には冷房がないので、ときどき図書館やカフェに避難して、パソコンがオーバーヒートしないように目配りしながら……。
注の分量が多いのも大変でした。原書では対応するテキストの冒頭だけを示す方式をとっていたので、日本語版ではそれが本文中でどこにあたるかをいちいち特定し、最適と思われる位置に注マークを入れていく、という工程まで発生して……。また、粗訳だけはしていましたが、人名の表記とか、あやふやな点のある箇所はとりあえず原文のままで残していましたし、推敲やその他の調べものもわりと手つかずでしたので、その状態から完成までもっていくのは大変でした。
それでも、以前、別の出版社でこの企画が通りそうになった際、少し訳し始めていたのが幸いしました。その出版社と結局ご縁はなかったのですが、惰性でその後もぼちぼちと訳していたので、結果的に助かりました。企画が動き出す時は一気に動くものなんだな、と実感しました。
後編では、石井さんが影響を受けたルース・アサワの人生観や、今後の翻訳家としてのキャリアについてお話を伺います。どうぞお楽しみに!
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