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辞書を編む 〜その2〜

アース

通訳・翻訳者リレーブログ

(前回の概要)英語以外の言語で仕事をしようとすると、辞書の少なさが大きな壁となります。特に専門用語辞典は「ほぼ存在しない」と言っても過言ではありません。わたしが足を踏み入れたスペイン語業界でも、誰もが「使える経済用語辞典」を心待ちにしていました。しかし英語と比べて圧倒的に需要の少ないスペイン語業界。投資分の回収さえ難しそうな辞書を作ってくれる出版社などありません。

「ならば自分たちで作ろう」。適当な辞書がなくて苦労していたスペイン語の翻訳者や通訳者が集まって、辞書作りの素人たちによる前代未聞の作業が始まりました。

               ☆

辞書を自分たちで作ろうなんて、とんでもない発想が生まれた瞬間にわたしは立ち合っていないので、詳しいところは分かりませんが、ともあれ首謀者(?)は、スペイン語教育を多角的に行なっている(有)イスパニカさんの代表・井戸さんと、同社が開催していた経済スペイン語の特別通学クラスに参加していた受講生さん。

これに加わったのは、わたしを含め、経済用語の辞書がなくて日々困っていた通訳者や翻訳者、日々の業務でスペイン語の経済用語に接する機会の多い、JETRO(日本貿易振興機構)やJICA(国際協力機構)、スペイン語圏諸国の大使館などに勤務する方々、ODA(政府開発援助)関係者、スペイン語や経済関係の大学関係者の方々など。最終的に、ほんの少しでも助力いただいた方々の数は、多く見積もっても30〜40人というところでしょうか。

専門用語辞典を制作するのに、これが少ないのか多いのか、よくわかりません。しかし、日々の仕事に追われてなかなか時間を割くことはできないが、使える辞書を作るという趣旨に強く賛同し、スペイン語(外国語)業界の発展のためという壮大な志から、役に立つ辞書があったら助かるという、全員に共通する目先の利益まで、とにかく「少しでも役に立ちたい」という気持ちは誰もが持っていたのではないかと思います。

この点、すでに評価の確立した語学辞典や専門用語辞典があり、トッププロからまったくの初心者に至るまで多数の消費者がおり、厚みのある市場が存在して、「ツールの制作者」側と、そのツールを使うだけのユーザー側との境界が非常にはっきりしている英語と、その他の言語業界とで、大きく違うところかもしれません。

使えるツールが少ないことに不満を感じながらも、いえ、感じているからこそ、「自分たちが○○語の業界を先導している」という自負が、少なからずあるように思います。実際、英・中などを除けば、独・仏・葡などと並んで需要の多いスペイン語業界ではありますが、場合によっては「この用語を訳すのは自分が初めて」であり、「今後、日本でその訳語が定着する可能性がある」というケースにもたまに行き当たります。英語では、なかなかそんなチャンスには巡り合えないのではないでしょうか。(チャンスであると同時に、恐怖でもありますけれど)

脱線してしまいました。

記録によると、最初の会議は2000年4月。当時、電子辞書自体はすでに存在していたものの、西和・和西辞典が搭載された電子辞書の発売は、まだそれから4年の歳月を待たねばならず、当然ながら最初は書籍版での出版を想定していました。

といっても、まさに草の根からのプロジェクト発進ですから、出版社にあてがあるわけではありません。しかし出版の確約がとれるまで待っていたら何も進みませんので、外国語や辞書に強い出版社から大学の出版会まで、とにかくあたっていくことになりました。会員制にしてオンラインでのみ公開という方法も検討したことがあるような気がします。

この後数年間は出版のあてのない状態が続き、それはすなわち「仲間内で使える辞書もどきは残っても、最終的に一銭も入ってこない」可能性があることを意味していましたが、メインのメンバーから一時的に助力いただいた方まで、文句も言わずに、みな本当によくやったと思います。

さて。

どの出版社に持ち込むにせよ、しっかりした企画内容はもちろん、サンプルがなければ話になりません。とにかくまずはA〜C項目のサンプル原稿を書きましょう、ということになりました。しかし、ひとくちに辞書を作るといっても、いったいどこから手をつければいいのでしょうか。「考えることが多すぎて、途方に暮れたのでは」と思う方もいらっしゃるでしょう。

しかし、そこは辞書作りのド素人の強みか、はたまた「のどから手が出るほど欲しい辞書」の輪郭が、メンバーそれぞれにすでに浮かんでいたからか、足がすくんでしまって一歩も進めない、ということはありませんでした。

それよりも、メンバーそれぞれに辞書の理想形があって、「あれも入れたいこれも入れたい」という欲求が強く、むしろ内容の削ぎ落としの方に苦労したように記憶しています。話し合いに慣れた会社員の方々と異なり、自己主張を事とする(?)フリーランスだからか、それぞれに理想が強かったからか、なかなか意見の一致をみることは難しかったように記憶していますが、実際に作業を進めるなかで、事実上「できること」と「できないこと」が自然と整理されていきました。

プロであれアマであれ、辞書を使っていると、「もう少しここが○○だったらいいのに」と思うことは少なくありません。わたしも、他人様の作った辞書にはしょっちゅうツッコミを入れています。しかし実際に制作する側に立ってみて、世の中の評価の高い辞書が、いかに考え尽くされた内容・構成になっているかがよく分かりました。

自分たちで使うだけなら、気がついたものを何でもかんでも放り込んでおけばよろしい。しかし仮にも何千円もするものを買っていただくからには、掲載語数はなるべく多く、難易度・地域性・分野などのバランスがとれ、見やすく、理解しやすく、利便性は高く、誤解を招くような内容は避け……といった要求をすべて満たす必要があります。これらを追求していくと、どんどん既存の辞書の形に近くなっていくのが興味深く、なるほど、とことん考え尽くされているのだなぁと感心もしました。

さらに通常の書籍であれば、制作にかかる時間・費用に見合うだけの利益が見込めることが絶対条件となりますが、さきほど書いたように、わたしたちの場合はそもそも出版の見込みのない見切り発車でしたから、逆にかけようと思えばいくらでも時間と手間をかけることができました。

したがって、わたしたちの場合はむしろ、「将来、本当に出版できたとして、最終的に得られる収入に見合

た作業」とできるか否かを問題とすべきでしたし、そうせねばという気持ちがあったことは確かですが、実際には割けるだけの時間を割いてしまったかな、という感じです。

しかし最終的には、国内の電子辞書シェアトップを誇るCASIOのエクスワードへの搭載が実現したわけですから、「見返り」という点では文句のない成果を上げることができました。これは、イスパニカさんというしっかりとした編集母体が存在し、渉外に関しては同社代表の井戸さんに精力的に奔走していただいたからこその結果で、わたしのような東京から離れた地域に住むメンバーや、海外のメンバー、在京であっても日々の業務に忙しい翻訳者・通訳者が単に集まっただけでは、これだけの成果はとても出せなかっただろうと思います。これについては井戸さんに本当に感謝、です。(「印税はどのくらいですか」という直截的な質問をしばしば受けますが、ナイショです(笑))

ところで、辞書作りで得た成果の一つはもちろん金銭的な報酬ですが、それよりも制作プロセスそのものから得た知識やノウハウの方が、わたしにとっては得難い財産になっています。そのお話は、また次回以降にしたいと思います。

                         (つづく)

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記事を書いた人

アース

田舎の翻訳者。外国留学・在留経験ナシ。都会生まれの都会育ちだが、現在はド田舎暮らしで、ネットのありがたさにすがって生きる日々。何でも楽しめる性格で、特に生き物と地球と宇宙が大好き。でも翻訳分野はなぜか金融・ビジネス(英語・西語)。宇宙旅行の資金を貯めるため、仕事の効率化(と単価アップ?!)を模索中。

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