INTERPRETATION

第18回 本当に大切なことは

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

東日本大震災を機に、日本は大きな転換点を迎えたと思います。それまでぼんやりした平和的日常が続いていた社会が、物理的にも心理的にもゆさぶりをかけられ、人々が改めて生き方を考えるようになったと私は感じています。

私自身、3月11日を境にずいぶんと考えが変わりました。中でも大きな変化は、「自分の生き方」そのものに対するとらえ方です。

かつての私は目標を設定し、それに向かって中期短期計画を立案し、日々の課題をこなすことに大きな喜びを見いだしていました。たとえば英語の検定試験を受けようと思ったら、受験日から逆算して問題集を割り振ったり、勉強時間をスケジュールの中に落とし込んだりという具合で進めていったのです。計画を立ててそれを実行していくということが、もともと好きだったからなのかもしれません。最終的に目標が達成できると大きな喜びを抱くことができましたし、それが次への原動力にもなっていました。

しかし自分のライフステージの変化と共に、それが一筋縄ではいかなくなっていたのです。具体的には結婚と出産、そして子育てでした。

自分一人だけで暮らしていたころは、どんな時でも自分のペースで行うことができました。「仕事の予習をキリの良いところまでやりたい」と思えば、それこそ寝食を忘れてでも勉強できたのです。世間に迷惑さえかけなければ良いという状況でした。

けれども結婚すれば相手と生活を共にするわけですので、様々な場面でお互いの価値観や暮らし方をすり合わせる必要があります。さらに子どもが生まれれば、「大人の事情」など子どもは考慮してきませんので、自分のやり方そのものを変える必要が出てきました。

私の場合、それでもかなり粘りに粘って、子どもが小さい時も自分の勉強や仕事を何とかこなそうとしました。それが自分の存在意義のように感じていたからです。もちろん子どもたちはかけがえのない存在でしたが、「自分が今頑張らなければ、社会から不要に思われてしまう」という恐怖心の方が高かったのです。子どもたちが乳幼児のころから保育時間ギリギリまで預けて、仕事や勉強に猛進していました。

そしてやってきたのがあの大震災です。私はその時、同時通訳ブースで仕事をしていましたが、一番心配したのが子どもたちのことでした。大人は自力でもなんとか身を守ることができます。けれども生まれて数年しかたっていない子どもたちは、いくら学校で防災訓練をしていたところで、どこまで対応できるかは未知数です。それだけに彼らのことが気になって仕方ありませんでした。

あの日をきっかけに、私はわが子たちに対する考え方が大きく変わったと思います。それまでは依頼された仕事において「自分の実力+300%」ぐらいを目指さねばと躍起になっていました。けれども、自分の今の与えられた環境においてベストを尽くすことが、結局のところ、ストレスをためない生き方となり、それが子どもたちと真に向き合う状況へとつながるのではないかと思うようになったのです。

東日本大震災においては、復興への道のりも長いものとなりそうです。私の価値観の変換も、長い道のりをかけて自分にとっての「ベスト」を見いだしていきたいと思っています。

(2011年4月11日)

【今週の一冊】

「いのちの森の台所」佐藤初女著、集英社、2010年

青森県の岩木山麓で「森のイスキア」を営む佐藤初女さん。悩める人を受け入れ、手作りのごちそうで向き合い、人々の心を救ってきた女性である。私は数年前に友人から紹介されて初女さんの本に出会い、以来、文面からにじみ出てくるお人柄に大いに励まされて今に至っている。今年で90歳になられる。

初女さんは敬謙なクリスチャンで、自分にできることは何かをずっと考え続けながら日々の暮らしを大切にして、それが今の活動に結びついている。最初から大きな目標を立ててそれに向かってまい進したのではない。「今、この瞬間に何ができるか」を常に自問自答しながら目の前のことを丁寧に行い、それが実ってきたのだ。

近年、初女さんのことはマスコミでもずいぶん取り上げられるようになり、とりわけ

「地球交響曲 第二番」という映画で紹介されてからは、イスキアでの活動に留まらず、各地での講演にも招かれるようになった。けれどもやはりその原点は初女さんが心を込めて作る食事であり、特に初女さんの握るおむすびこそが心に悩みを抱える人々を勇気づけ、励ましてきたのである。

今から数年前、どうしても初女さんに直接お目にかかりたくて、子どもたちを連れて初女さんを囲む会に参加すべく、北海道まで飛んだ。当時子どもたちはまだ幼く、私も仕事と子育てに大いに揺れていた時期であった。心の中で暴風雨が吹き荒れていた私に、子どもたちもさぞ戸惑っていたことであろう。そんな時代だった。その時、息子が初女さんに優しく語りかけていただいている写真が本書の終わりの方に掲載されている。この写真を見るたびに、未熟だった自分が思い出される。

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記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

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