INTERPRETATION

第698回 通訳「今昔物語」

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

私は子ども時代を海外で過ごしていたのですが、その時、一番恋しかったのが「日本語の活字」。当時はインターネットも無く、日本語環境が圧倒的に少なかったのです。そこで親戚から本を船便で送ってもらい、それこそcover to coverで読んでいました。そんな活字渇望状態時代の私が愛読した児童書が「今昔物語」。ずっしりと重みのある「今昔物語」を手にした際、少し背伸びしたような気分になったのでした。

今週は通訳の「今昔物語」と題してお送りします。

私が通訳者デビューをしたのは1990年代半ば。欧州では電子メールとインターネットが普及し始めるも、日本はまだでした。その頃の通訳者は以下のような準備をしていました:

*電子辞書はまだ黎明期。基本は紙の辞書。通訳者は通常の英語辞書だけでなく、法律や医学、コンピュータや自動車など、それぞれに特化した紙版の英和・和英専門辞書を所有。

*クライアントの書類は全て紙版。エージェントはそれを入手すると、通訳者の自宅へ宅配便またはバイク便で送付。対訳で用意されるケースは稀で、通訳者は受領すると即座に訳語を調べて資料に書き込み作業。全訳する時間は無いので、スラッシュを入れながらキーワードの重要訳語のみを併記するだけで時間切れ。

*たとえばクライアント側の資料完成が前日になった場合。通訳者はエージェントと都内で待ち合わせをして、対面で受け取り。ただし機密案件の場合、コーディネーターは「絶対に電車内では開かないでください」と釘をさしてくる。通訳者は帰宅してから猛スピードで上記のような予習をすることになる。

という具合です。では、最近はどうかと言えばみなさんもご存知の通り、ほぼデジタルで送信されてきます。クライアント側が自動翻訳機にかけて訳版を作成して送ってくれることもあるほどです。当日は両資料を開いておけば済む。隔世の感があります。

しかし、だからと言って今が「とてつもなくラク」かと言えばそうではありません。いえ、むしろ昔より厳しい側面もあると私は感じます。と言いますのも、日本の法律が変わり、個人情報や守秘義務など企業コンプライアンスが非常に厳しくなったからです。そうした事情ゆえ、クライアントもたとえ資料を事前に準備していたとて、やすやすとエージェント経由で通訳者に事前共有できなくなりました。昔のような「エージェントも通訳者もワンチーム」と見なされていた時代から、今は距離が生じているのです。

資料の事前共有ができず、現場入りしてみたら想定よりとてつもなくハイレベル案件だった、というケースも生じます。そうした中、文字起こしソフトを持つ通訳者であれば、何とか活字を見ながら機械的に同時通訳することはできます。しかし、ソフト無し通訳者にとっては、自分の耳と知識だけで勝負せざるを得ません。これにより、クライアント側が「資料は出さなくても何とか通訳者は訳せる」と思うリスクも高まるのです。

時代の流れ、と言ってしまえばそれまでなのかもしれません。しかし私はこの状況を医療現場に置き換えたくなります。たとえば「『脳外科医』の先生が『外科』という肩書だけで『心臓外科』の手術をすることに匹敵する」と思えるのです。手術室で脳外科医がYou Tubeの心臓手術動画を見ながら、見よう見まねで患者さんの手術をしているように私には思えてしまうのです。

考え過ぎなのかもしれません。文字起こしソフトの素晴らしさを否定しているわけでもありません。ただ、もしこの動向が今後もさらに業界でデフォルトになり、クライアントも「資料は出さなくても何とか訳してもらえる」という傾向になってしまうと、昔のような「通訳者をも信頼して最大限の情報共有をして、一緒に会議を成功させる」というものとは違う展開になってしまうのではないでしょうか?

そのことを今、私は考えています。

(2026年8月11日)

【今週の一冊】

「動物園を100倍楽しむ!飼育員が教えるどうぶつのディープな話し」大渕希郷(編著)緑書房、2023年

電車に乗る度に中づり広告を眺めています。比較的目に入ってくるのが動物園の広告。なるほど、夏休みに向けての集客なのでしょうね。私自身、子どもの頃はよく出かけましたが、最近はかなりご無沙汰。この猛暑では動物たちも大変なのではと想像しています。

そこで手に取ったのが本書。リアルな動物たちに会えなくても、動物園の面白い話が本書には満載です。通常の動物関連本は種類別に掲載されていますが、本書は「生息地」別に章立てされています。私はハムスターが好きなので、目次をざっと眺めたところ、げっ歯目もかなり掲載されていました。

改めて学びになったのがカピバラのページ。何と世界最大のネズミなのだそうです。露天風呂好きで知られるカピバラですが、実は小石をカリカリ噛む習性もあるとか。これは歯を削るためなのだそうです。削らないと伸び続けてしまううのがカピバラの特徴です。

他にも「アルパカの熱中症対策」「フラミンゴのミルクは真っ赤」など楽しい話題がいっぱい。これを読んで、少し涼しくなったら動物園に行ってみたいですね。

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記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者、獨協大学および通訳スクール講師。上智大学卒業。ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2024年米大統領選では大統領討論会、トランプ氏勝利宣言、ハリス氏敗北宣言、トランプ大統領就任式などの同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラム執筆にも従事。

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