INTERPRETATION

第697回 やっぱり紙(だけど絶滅危惧種)

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

本コラムをお読みのみなさま、お久しぶりです!サイトの方がようやく通常営業となり、11カ月ぶりに戻ってまいりました。昨年の今頃も「暑い暑い」を連呼していましたが、今年も晩春・初夏を飛ばしていきなり真夏という感じですよね。通訳業は体力勝負。ですのでこれまで以上に体調に気を付けながら仕事を続けていきたいと思います。

さて、前回の本コラムは2025年9月2日付。そこには「通訳現場で目撃した文字起こしソフトに衝撃を受けた」という趣旨を書きました。あれから1年弱にして、もうこの文字起こしは現場においてほぼデフォルトになっています。ただ、私はというと、相変わらずアナログ派。いえ、むしろ昨年よりもはるかに「紙回帰現象」が起きています。

きっかけは、会議通訳の準備における自分のスタンスに違和感を抱いたこと。具体的には「昔と比べて準備着手がギリギリになってきている」というものでした。

せっかくエージェントから資料を早めに頂けたにも関わらず、PCでダウンロードして安心してしまう。「早く目を通さねば」とは思えど、PC内に温存してあるという安心感からか、開かぬまま数日過ぎてしまう。そして直前になって慌てる。このようなサイクルができてしまったのです。

なぜなのか考えてみました。そして出た答えは「紙媒体ではないから」でした。

デジタル前の時代、通訳者向け資料はすべて紙に印刷されていました。エージェントは宅配便やバイク便を使い、通訳者宅へ配送。ずっしりと重い封筒を玄関で受け取って開封。机の上にどさっと広げて、「さあ、どの資料から読むべきか?」「どれぐらいの速度で目を通すべきか」と資料をめくりながら、当時はあれこれ予習計画を立てていたのです。その時点で一字一句は読み込まなくても、パラパラとめくるだけでどのような内容なのかが視界に入ってきていたのですよね。

この重量感が私にはモチベーションとなっていたのでした。

しかし、全てがスライドやPDFでデジタル送信されると、そうした重みを感じることができません。もちろん、個々の資料のメガバイト数を見れば「重量測定」はできるでしょう。でもずっしり感は無い。私の場合iPadではなくPCへのダウンロードなので、手元のペンでサッと書き込むこともできない。だからなのでしょう、ダウンロードして満足しがちになってしまったのです。

これに気づいてから、私は方式を変えました。資料を受信・ダウンロードした時点ですべて印刷することにしたのです。そのために、だましだまし使っていた絶不調プリンタを買い替えたほど。「これも必要経費!ヤル気スイッチのためには必要!」と自己暗示をかけるようになりました。

印刷した以上、プリンタのトレイに放置するわけにはいきません。揃えてホチキス止めしてパラパラめくるところまでを一連の作業と位置付けました。私の場合、これが功を奏したようで、早め早めの資料チェックができるようになったようです。

このようにして印刷した大量の資料。業務当日のリュックは肩と背中を容赦なく痛めつけてきます。現場のみなさんはiPadにタッチペンで書き込んだ資料をスマートにお使いになる方がほとんど。でも人は人で良いのです。私はこのスタイルが「好き」なのだと言い聞かせ、今日も資料読み込みに励んでいます。

とは言え、かなりの「絶滅危惧種」であることも、もちろん自覚しています。ハイ。

(2026年8月4日)

【今週の一冊】


「『やってみたい』と思った今がそのとき」花岡理恵著、あさ出版、2025年

私はかねてから「英語学習に必要な基礎知識」として「聖書・シェイクスピア・ギリシャ神話」を挙げてきました。西洋文化と言語を知る上で土台となっているからです。とは言いつつ、私自身、なかなか本腰を入れてすべて制覇できていないのが実情。何しろどれも大作だからです。

そこで思いついたのがアプリの活用。昨年は聖書アプリをダウンロードし、一日少しずつですが聖書を読み進めていました。わかりやすい日本語で書かれており、解説も豊富。テーマ別に検索もできます。重宝していましたが、やはりこちらも上記コラム同様、紙の聖書に最近回帰しています(笑)。

今回ご紹介する書籍の著者・花岡理恵さんのことを知ったのは、とある教会のイベント。告知に「字幕翻訳者」という文字があったのです。早速参加したところ、実に考えさせられる内容で、仕事や生き方についてたくさんの学びをいただきました。

専業主婦だった花岡さんは子育てをされていたころ、重度のうつ病に見舞われました。彼女にとっての救いは「推し活」をしていた韓国人俳優。ところがその俳優は若くして亡くなってしまいます。花岡さんは自分を支えてくれた彼に韓国語でお礼を何としても伝えたいと考え、44歳で韓国語学習に着手します。そして様々なご縁や出会いを経て、51歳で韓国語字幕監修者になられたのです。

本書には花岡さんの経験がつまびらかに説明されています。公にするには躊躇されたであろうご本人の正直な思いも、です。花岡さんの誠意が行間から読み取れます。たとえ心がつらい日々を過ごしていても、トンネルの出口はあるのだということを読者に教えてくれます。

世間の価値観に無理やり合わせてしまうとツラくなりますよね。負の感情が湧き出ているのに無理に我慢すれば、自分の本心に蓋をしてしまいます。そうした状況にどう対処なさって来たか。花岡さんの一言一言から読者は大きな勇気を得られることでしょう。

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記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者、獨協大学および通訳スクール講師。上智大学卒業。ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2024年米大統領選では大統領討論会、トランプ氏勝利宣言、ハリス氏敗北宣言、トランプ大統領就任式などの同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラム執筆にも従事。

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