第346回 AI翻訳に怒り、AIに慰められる
先日、知人から翻訳の依頼がありました。以前の仕事の関係者で、当時は日本に滞在していました。今は自国に戻り、最近起業して自分が開発したアプリをグローバルに展開したいとのこと。日本語はすっかりさびついてしまったので、翻訳を頼みたいという話でした。
これは仕事ではなく、ボランティアで引き受けました。分量的にさほどなかったこと、以前から語学関係でお互いに「頼んで、頼まれて」という関係性があったこと、さらには起業へのご祝儀の気持ちもありました。
依頼内容は、オープニング映像のナレーションとユーザーインターフェースの翻訳です。どちらもAIを使いましたが、手を入れないといけない箇所が結構ありました。
ナレーションは映像に合わせて確認し、「この言い回しのほうが映像に合うのでは」「前の箇所でこの言葉を使ったから、ここはこう訳そう」と、職人気質が顔を出します。ユーザーインターフェースのほうも、「この表示では、ユーザーには必要な対応が把握しづらい」と感じ、細かく手を入れることに。結果的に、意外と時間のかかる作業になりました。
それでも無事終えて翻訳を知人に送ると、こんな返信が。
「今日、ユーザーの使用言語を自動検出して動画を再生できるように改良したんだ。 そっちのOS環境が日本語なら、動画は日本語で再生されるはず。一度試してみて、感想を教えて」
これを読んだ私の感想は……
「はあ!? 何それ」
でした。「そもそも人にものを頼んでおいて、こちらが時間も労力もかけたことに対して何のお礼もなく、挙句の果てにその時間と労力が無駄になるようなことをしておきながら、この態度はいったい……」と、ものすごく腹が立ったのです。
こうして感情的になったときは、クールダウンのためにAIを使って考えてみるようにしています。この話を伝えると、「かなり技術者らしい返し」という捉え方がされました。技術的なアップデートの報告に焦点が当たってしまうのは「技術者あるある」だと。悪意があるわけではなく、ただ単にそういうコミュニケーションスタイルなのだ、と。なるほど……。
普段は「ケア」関係の方とのやり取りが多いので、「こう言ったら相手がそれをどう受け取るか」ということに配慮をするのが当たり前になっていましたが、そこにあまり注意を払わない人もいるわけですよね。異文化コミュニケーションと思えば、そこまで怒りは覚えません。
それでも、なんだかすっきりしない。なぜなのかを考えてみると、実際にその設定を確認したときに音声で流れてきたAI翻訳が、なかなかよくできていたことが原因のひとつだと気づきました。これはきっと今あらゆる業種で多くの方が感じていることでしょうが、「だったら私のやった作業は何だったの? 最初からAIに全部任せて済むなら、私は要らないよね?」という実存的な問題があったのですね。
さらには、そのAI翻訳が「なかなかよくできている」けれども、「ちょっとおかしいところがある」のに、「AIの自動音声だから、こんなものだよね」と受け容れてしまっていたことも原因でした。「これ『が』いい」ではなく、「これ『で』いい」になってしまったら、ものすごく感性が貧しくなってしまうと危機感を抱きました。
「そこまでするの!?」というくらい神経を使って細やかにするのがプロの仕事なのに、AIが提供するものに慣れていってしまうと、そんなプロの仕事が必要とされなくなっていってしまうのではないか。同時に、それを享受したいと思っても、提供してもらえる人はごく一部に限られていくのではないか……。
そういう日頃からの思いがあったからこそ、知人の対応に「はあ!?」と怒りが湧いてきたのでしょう。一見すると知人のコミュニケーションへの不満ですが、その背後にはAIの世界で生きていくことに対して普段から抱いていた感情がありました。そんな自分の感情にその都度目を向けて、丁寧に腑分けしていくことの大切さを感じた出来事でした。
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