ENGLISH LEARNING

第288回 考えすぎてしまうときに思い出す詩

にしだ きょうご

今日をやさしくやわらかく みんなの詩集

先読み。深読み。裏読み。

どれも考えすぎの症状ですよね。余計なことまであれこれ考えて、頭がパンクしそうになったときに思い出す詩があります。

「ぼくにとって線路とは何か?」という、真面目なんだかふざけているんだか分からない詩なのですが、あまり深く考えずに読んでみてください。

*****

What’s the Railroad to Me
Henry David Thoreau

What’s the railroad to me?
I never go to see
Where it ends.
It fills a few hollows,
And makes banks for the swallows,
It sets the sand a-blowing,
And the blackberries a-growing.

*****

ぼくにとって線路とは何か?
ヘンリー・デイヴィット・ソロー

ぼくにとって線路とは何か?
わざわざ見に行くわけではない
線路がどこまで続いているかなんて
線路は窪地を埋め
土手はツバメの住処になる
線路は砂を舞い上がらせ
クロイチゴの育つ場所になる

*****

「ぼくにとって線路とは何か?」と言うので、何やら深い哲学的な話が展開されるのかと思いきや、本当に線路の話だったという詩。

深読みしすぎないように気をつけながら、この詩について考えてみましょう。

What’s the railroad to me?
I never go to see
Where it ends.
ぼくにとって線路とは何か?
わざわざ見に行くわけではない
線路がどこまで続いているかなんて

アメリカの最初の大陸横断鉄道が開通したのが、1869年。詩人ヘンリー・デイヴィット・ソローが、森での自給自足生活を元に書いた代表作『ウォールデン 森の生活』が、1854年。西部開拓に合わせて、鉄道建設がが西へ西へと進む時代です。

線路が象徴する近代文明とその限界。そんなテーマで深堀りされてもおかしくないシンボルが、線路。

でも、この詩は、そういったことに興味がないようです。ロマンチックな詩人なら、線路がどこで終わるのかというロマンを語り始めそうですが、そんな気配もなし。

It fills a few hollows,
And makes banks for the swallows,
It sets the sand a-blowing,
And the blackberries a-growing.
線路は窪地を埋め
土手はツバメの住処になる
線路は砂を舞い上がらせ
クロイチゴの育つ場所になる

アメリカの西部開拓時代の線路と言えば、荒野を貫いてどこまでも伸びる線路と、砂煙を上げて走り去る蒸気機関車。そういった壮大なパノラマの図が思い浮かびますが、この詩は、はるかに小さなところを見ています。

線路土手のツバメやクロイチゴ。

この詩において、線路は、西部開拓のインフラではなく、動物や草花の生息地。しかも、それらの動物や草花が何をもたらすかとか、どうなっていくのかといった話には一切触れずに、詩はおしまい。

この潔さが、爽快ですよね。深い意味づけもせず、未来への展望もしない。

考えすぎてしまうときって、まさに、物事に余計な意味づけをしてしまい、簡単な話を複雑にしてしまったり、まだ見ぬ未来のことをあれこれと先回りして考えてしまったりするものですよね。

昔、とあるミュージシャンが、インタビュアーの「あなたにとってギターとは何ですか」という質問に対して、「死んだ木だ」と言い放ったという逸話があります。とかく、人間は無駄な意味づけを求めがちです。しかし、「ギター=死んだ木」と同じくらい、この詩は無駄な意味づけを避けています。

私も余計な話をし始める前に、終わりにしようと思います!

*****

今回の訳のポイント

西部開拓時代の線路と聞いて、深い考察をしたがる読者をあざ笑うかのようなこの詩。訳の最大のポイントは、タイトルです。

What’s the Railroad to Me
ぼくにとって線路とは何か?

人称をどう訳すか、英語を日本語に訳すときの、大問題ですよね。

「~にとって○○とは何か?」と言っているので、私も最初は、深遠なテーマを語る詩なのだろうと思い、この詩を英語で読みながら「わたしにとって線路とは何か?」と頭の中では日本語に訳していました。

ところが、そういった思い込みを裏切るように、最後まで深い話にはならずに、足元の日常に視点を落として詩は終わります。

詩もそうですが、業界やコミュニティには特定の思考パターンがあって、そこに長くいると、その思考パターンに囚われるようになってしまいます。しかし、この詩は、詩にありがちな壮大な哲学的テーマではなく、小さな日常を描いています。

とすると、小さな日常は、もっともらしい「わたし」ではなく、日常的な「ぼく」で語るべきだと思うのです。

Written by

記事を書いた人

にしだ きょうご

大手英会話学校にて講師・トレーナーを務めたのち、国際NGOでの経理・人事やプロジェクト管理職を経て、株式会社テンナイン・コミュニケーションにて英語・日本語学習プログラムの開発・管理に従事。フランス語やイタリア語、ポーランド語をはじめ、海外で友人ができるごとに外国語を独学したり、2500冊の蔵書をもとに読書会を主宰したり、言葉が大好き。
現在は、NPOで障害や難病を抱える当事者やその家族とともに「誰でもビーチ」という活動を運営しつつ、フォトグラファーとしても活動し、泣いたり笑ったりの日々を送る。

END