INTERPRETATION

「感じる」を大切にする

柴原早苗

通訳者のたまごたちへ

 ここ数週間、どちらかと言うとペースダウンのエッセイが続いていましたが、ようやくここに来て少しずつ上昇気流に乗りつつあります。私は日ごろ忙しくしていることが好きなので、いったん失速してしまうと焦る気持ちが非常に募ってしまい、かなり空回りしていたのです。けれども、そうしたありのままの状態を受け入れてみたことで、次のステップが見えてきたように思います。

 私は普段から目標を立ててやることリストを作成し、それを忠実に実行することに大いなる達成感を抱くタイプです。もちろん、毎日のやることリストの項目すべてが達成できるはずはないのですが、何割かでもこなすことができると「今日も良い一日だった」と満足感を抱けるのです。ややこしいことは考えず、大きい課題ならば細分化し、とにかく着手する。そんなスタンスでしたので、「まずは体を動かしてやってみる」ことがポリシーでした。

けれども人間と言うのは、いつもいつもそうして計画的に物事を進められるわけではありません。なぜ以前はスムーズに行っていたかを自分自身振り返ってみると、それはひとえに自分が元気だったからなのでした。体力もあり、気力も充実。たっぷり睡眠もとって運動もして、体の循環が心身共に良い状態だったからだと思います。

誰にとってもそうした状態が続けば本当に幸せだと思うのですが、人間ですので疲労がたまったり、ウィルス性の風邪にかかったり、自分のコントロール外の要因で状況が停滞することは大いにあり得ます。そのようなときに自分のペースでゴリ押ししようとすると、ますます疲れてしまいます。「今まで何とかこなせたのだから、これぐらいのハードルだって乗り越えられるはず!」と思って頑張れば頑張るほど、体はますます悲鳴をあげてしまうわけです。

さりとて、そうした几帳面で頑張り屋な性格の場合、今までのやり方をあっさり葬ることも難しいでしょう。それゆえに多くの葛藤を内面で抱えながら苦しみ、ますます深みにはまってしまうのです。

今回私はそうした状況を脱すべく、「とにかくありのままの今を受け入れよう」と思いました。多少家事が滞っても、自分の勉強ができなくても自分を責めるのではなく、「体力回復のために必要」とひたすら言い聞かせたのです。ポッドキャストの視聴もお休みして、木々や風などの自然音をあえて聞くようにしたり、美術展に足を運んだりもしました。その結果、「最近の自分に欠けていたことは『感じる』ということだったんだな」と思いいたったのです。

日ごろ「ことば」を生業としている分、何ごとも言語やロジックに落とし込もうと考えていました。けれども文字や文章で表現できない、いわば素のままでの感じ方があっても良いのですよね。おいしいものを食べて「おいしい」とあえて言わずにとにかく味わってみる。あるいは美しい絵画を見て「きれい」と表現せずに心で受け止めてみる。

通訳という仕事柄、ついつい私はすべてを言語的にとらえようとしてきたのですが、今回、「感情」を大切にすることが大事であると改めて思ったのでした。

 (2010年5月17日)

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記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

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