出版翻訳家の時間感覚
数年前から気になっているテーマのひとつに、「時間」があります。「時間とは?」という哲学的な側面もありますが、「自分の時間感覚はどんなものなんだろう? それに合う働き方はどんなものだろう?」という側面のほうが大きいかもしれません。
『うたう生物学』を読んでいたら、こんな記述がありました。
“現代社会はビジネスに都合のいいように出来ています。ビジネスってビジーの名詞形ですね。忙しいことです。忙しい、つまり時間の速度が早い。時間の速度を上げて、何でも早くやったものが勝つのがビジネスの世界です。(中略)ビジネスに基礎を置いた今の時間は早すぎるんです。体には体のペースっていうものが元々あるとするのが「ゾウの時間 ネズミの時間」の考え方。ヒトという動物にも固有の時間の速度があるのです。それを大きく超えて早くなっているのが現代のビジネスの時間なのであって、これに付き合うのは、若者にとっても並大抵のことではないんですよ。”
出版業界でも、ビジネス書や実用書だとこういう傾向がありますし、年々強まっているようです。以前、ある編集者さんと話していた時も話題になり、かつては「1分で」というキーワードがよく書籍のタイトルに踊っていたのが、この頃は「1秒で」に変わってきたと聞きました。
売上重視のため、決定権のある上の人が参加する企画会議では、類書がどれだけ売れているかばかりが注目されます。売れている本があると「それと同じような本をつくろう」という発想になってしまうそうです。その編集者さんには自分が大切だと考えているテーマがあり、本当はそのテーマに関する本をつくりたいのですが、この環境ではなかなかつくれないようです。
先日お話していた別の編集者さんも、以前はそういう出版社で働いていたため、本の売上ランキングばかりを見て本をつくるようになっていたと言います。「こういう本が売れているから、同じような本をつくろう」とか「この著者が売れているから、この著者に書いてもらおう」という具合に仕事をしていたそうです。
でも、それでは本質的なことからどんどん外れてしまい、「私はいったい何をやっているんだろう」とか「この仕事にどんな意味があるんだろう」と思うようになってしまうので、働いているほうも幸せではないんですよね。
ビジネス書や実用書のジャンルでも、出版社によっては、「こんな面白いものがあるから世の中に届けたい」というスタンスで本づくりをしているところもありますし、「いいものをつくるために時間をかける」と考えているところもあります。ただ、全体から見ると少数派かもしれません。
小説や絵本、歴史書や哲学書など文芸、人文のジャンルだと、「何年も読み継がれるものを読者に届ける」という意識があるので、時間感覚もかなり違います。100年先を見据えて、とまではいかずとも、10年、20年といった時間の流れの中で物事を見ていこうという意識が根底にあるように思います。
持ち込みの際も、原書に適した時間感覚があると思います。「子どもたちに読んでもらって、大人になった時にも心の支えにしてほしい」という本を、「1秒で○○」というタイプの本を手がける出版社で出そうとしても、ミスマッチになってしまいますからね。
自分の選ぶ原書は、自分の時間感覚を知るヒントにもなるのかもしれません。私も通訳時代は外資系企業だったので、速度重視の時間の中で生きていました。だけど自分が持ち込んできた原書を見ると、すごくゆっくりとした時間が流れているのです。以前は自分に合わない時間感覚の中で働いていたために、自分をうまく活かせなかったのかもしれないと思うようになりました。それを認識できたことは、働き方を考えるうえでもよかったと思っています。
※ラジオ出演のアーカイブをお聞きいただけます。「心が疲れている人におすすめの本」を中心にお届けしています。「鎌田實しあわせの処方箋」2025年放送分の5月28日放送分です。よかったら、お聞きいただけたらうれしいです。
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