INTERPRETATION

結局は「今」に生きている

柴原早苗

通訳者のたまごたちへ

 ロンドンのBBC日本語部での仕事を終えて帰国したのが2002年。現在のマンションに住み続けること8年。子どもたちも大きくなり、今の間取りではいよいよ手狭になってきたため、思い切って引っ越しを決意しました。このコラムがアップするころにはちょうど引っ越し作業も終えて、新居で荷ほどきに追われているはずです。

 今回の転居にあたり、改めて自分の持ち物を見直してみると、わずか10年ほどでここまでたまるのかというほど増えていました。わが家は夫婦そろって通訳・講師業をしていますので、必然的に本や紙の書類が多くなります。そうしたモノと今後の新居でどう共存していくかも大きな課題です。

 荷造りをする上でまずやるべきことは不用品の処分です。最近は「断捨離」という考えの片づけ法がはやっていますが、自分の人生においてどこまでが必要なものでどこからが要らないものなのか、今回の引っ越しはそれを考える良い機会となりました。とにかく引っ越し日までの日程は限られていますので、あれこれ考える時間もありません。素早く「要・不要」に基づく決断を迫られました。

 まず着手したのは仕事関連のファイル。会議通訳や放送通訳、通訳学校での指導と分野別に分けて収納していましたが、これらも抜本的に見直しました。どう考えても古くて今後使う可能性のないものは迷わず処分。一方、悩んだのは単語リストや関連資料が収納されていたキャビネットです。「もしかしたら今後同じ案件を依頼されて使うかもしれない」と思って保管してきましたが、ここ数年間まったく取り出さずにいたのも事実です。そうしたものは思い切って処分することにしました。自分の脳みそに残っていないのならば、それはそれまで。また勉強の必要性に迫られたら学び直せばよいと思っています。

 次に取り組んだのが各種手続き関連の書類。たとえば確定申告書やイギリス時代の公的文書です。確定申告書などは過去5年分さえあれば良いとのことなので、こちらも古いものはゴミ箱へ。一方、イギリス時代の書類は「面白ネタとしてコラム執筆の際に」と保管していたのですが、結局こちらも使わずじまいでしたので、やはり捨てることにしました。

 そして本です。本は重さもあってかさばるため、運搬や収納だけでも大変です。ただ、見渡してみると本当に気に入っている本はごくわずかで、私の場合、未読の本がかなり大量にあることがわかりました。それらをざっと斜め読みして不要本はブックオフへ。子どもたちの絵本を含めてかなりの数を査定してもらい、無事売却することができました。私の尊敬する精神科医の故・神谷美恵子氏は本を整理するにあたり、「この本は卒業しよう」と考えながら選別していったそうです。今回私も同じようなアプローチをとりました。

 最後まで迷ったのが手紙です。手書きで手紙を送ったりいただいたりするのが大好きな私にとって、これまでは全ての手紙を大事に保管してきました。しかし自分が年齢を重ねるほど、そうした手紙の量も膨大になってきます。メールの時代になり、届く量こそ減りましたが、それでも箱の中に残されている手紙はたくさんあります。今回の引っ越しを機にすべてを取り出し、選り分けてみました。その際の基準となったのは、「DMや文字が薄れてしまったファクス文書は処分」「自分が大切に思う人からの手紙や、読んで元気が出る手紙のみを保管する」というものでした。これだけでもだいぶ選別ができたと思います。

 こうして手持ちのモノを改めて見つめ直してみて、色々と感じることがありました。一番大きいのは、通信手段の変化です。これまで旅先から絵葉書を送ってくれた筆まめの友人たちとの間も、デジタル化の波と共に少しずつ連絡が途絶えていきました。今の時代、一対一で連絡を取り合うよりも、Facebookやツイッターに自分の近況をアップし、それに気づいた友人たちがコメントを寄せるという交友関係に変化してきているのです。逆に私のように、あまりFacebookにアクセスしない者にとって、旧交を温める手段が減ったというのも事実です。

 先日スーパーで生後数か月の男の赤ちゃんがベビーカーに乗っているのを見かけました。つぶらな瞳でこちらを見る様子は、わが家の長男にそっくり。とても懐かしくなりました。けれどもそのとき思ったのです。わが子の「あの時代」はもう二度と来ないのだと。

 手紙や書類も同じです。確かに「あの時」に私はその渦中にあったけれども、それはあくまでも「今の自分を作ってくれた過去」なのです。だからこそ、仕事でも日常でも子育てでも、「今」を大切に生きようと思いました。

 

(2010年9月20日)

Written by

記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

END