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Sit Back and Relax

葛生 賢治

考えることば ことばで考える

年が明けてすぐ、用事があってフィラデルフィアに行ってきました。

海外に行くたびに思うのですが、フライトは私にとって特殊な経験です。目的地へ向かう期待と不安の入り混じった独特の感覚を味わうのと同時に、地上では感じることのない開放感を覚えます。

狭い座席。常に聞こえるジェットエンジンの轟音。横に座る人へ気遣いながら体勢を変え、トイレに立つたびに通路を開けてもらい、足も伸ばせず、携帯も見れず。いきなり窓のカバーを開けられて眩しい光に眠りを邪魔されたり、キャビンアテンダントを呼ぶ「ポン」という音に気を取られたり。

はっきりいって不自由極まりない空間なのですが、それでも私はその不自由さの中に「開放感」を覚えます。長い間、これは私だけの経験だろうと思っていました。

ところがThe Atlantic誌にこんな記事を見つけました。ライターのイライジャ・ウルフソンが数名の友人と話していた際、そのうち一人がフライト中にコメディー映画を見て泣いてしまったことがある、と話したところ、そこに居合わせた他の友人たちもみな同様に「機内で泣いた経験がある」と言い出し、興味をもった彼はフライトと涙の関係について多角的に考察した、という内容です。

彼は仮説を立てます。フライト中の機内という環境が人体に及ぼす物理的な影響と、それに伴う心理的な影響に原因があるのでは、というもの。

ある神経生理学の調査によると、人は困難やストレスに直面している間は交感神経が働いていて、たやすく泣けるほどの精神状態にないのに対して、直接のストレスから距離をおいて孤独になり、リラックスした状態になると副交感神経が働きだし、抑圧していた感情があふれ出るそうで、機内で泣くのはこの交感神経から副交感神経へのシフトが大きな原因になっているのでは、と推測しています。地上のめんどくさいことから逃れ、孤独な空間で重い鎧を脱ぎ捨て、人は自分の感情に正面から向き合う、ということ。

「人はなぜ機内で泣くのか」について書かれた記事は他にもいくつかあり(こちらこちらの記事など)、この記事では、上空の酸素の薄さが人間の心理に及ぼす影響が指摘されています。

どの記事も要するに、地上と異なる特殊な環境が原因となっているのでは、と生理学的・心理学的に因果関係を説明しています。

村上春樹の「ノルウェイの森」は主人公がドイツのハンブルグ空港に着陸する機内で悲しみに浸るシーンから始まりますし、日本のロックバンド・キリンジの「愛のCoda」は恋人と別れた主人公が離陸する機内の窓から雨の街を眺める姿を描いた曲です。「飛行機」と「悲しみ」をモチーフとした多くのアート作品の裏にそうした因果関係を見つけることも可能かもしれません。

私が感じた「開放感」もある程度そうした因果関係で説明がつくように思えますが、同時に決定的な違いがあります。

まず、私の「開放感」とこれらの記事が分析する「泣く行為」は、どちらもカタルシスとしてまとめることができるでしょう。ウルフソンの記事が引用する別の調査では、泣いた人の涙の成分を調べたところ、ストレスホルモンが含まれていたことが分かっています。つまり、人は涙を流すことで体内のストレスホルモンを排出している、ということ。要するに、心の浄化作用です。

私は泣きはしませんでしたが(むしろ興奮して笑顔でしたが)、心が軽くなる感覚は味わっていたわけで、私の体内でも副交感神経へのシフトやストレスホルモンの減少などが起きていたのかもしれません。

けれども、そうした「科学のことば」による説明とは別に、「哲学のことば」を導入しなければ説明できない部分があると私は考えます。

私が感じた「開放感」には、どこか「開」いて「放」つ以外のもの、つまり単なるストレス発散や浄化とは異なるもの、世界観が広がる感覚が含まれていたからです。

機内はこれ以上ないというほど不自由です。体の自由が効かない上に、自分の社会的ステータス、経済的能力、過去の功績、友人関係、家族関係など、自分を自分たらしめているもの、つまり自分のアイデンティティーがほとんど意味をもたなくなります。墜落したら全てがゼロになるのですから。

自分が持っているもの、自分が行ってきたこと、自分がこれからやること、それら全てが一瞬にして失われる可能性が常に開かれているという、当たり前といえば当たり前の事実を再確認する空間だと言えないでしょうか。

逆に地上で私たちは、一瞬先にすべてが無となる可能性と常に隣り合わせで生きているのに、その事実を無いこととして日常を過ごしていると言えないでしょうか。

つまり、機内とは人生の絶対的な偶然性に直面する空間である、ということ。

地上では、全てに必然性が求められます。「必然性がある」とは、言い換えれば「意味がある」ということ。自分が置かれた家庭環境、人間関係、自分の職業、趣味、好きなこと、嫌いなこと、何がしたいか、何がしなくないか、それら全てに「意味がある」「他と入れ替えができない」ことが求められ、それを「幸福」として生きている。

それら全てに実は必然性が無かった、としたらどうでしょう。正確には、意味があるとされる地上の空間と、人生のすべての意味がゼロになってしまう上空、それら両方を同時に生きるのが私たちなのではないでしょうか。

「地上だけ」ではなく「地上も上空もある」という二面性を取り戻すこと。「いま自分が自分であることには意味がある、と同時に、それは偶然の意味しかない」という人間が根本的に抱える矛盾を直視すること。そのビジョンを手に入れることで、ある種の「開放感」を感じるのは私だけでしょうか。

「当機はまもなく最終着陸態勢に入ります。お座席とテーブルを元の位置に戻し、シートベルトをお締めください」

機内アナウンスを聞きながら、様々な「意味」で固められた地上に降りていく私は、どこか心が軽くなっていました。

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<今日のことば>

カタルシスは英語のcatharsisの訳ですが、これはギリシャ語で「浄化」を意味するkatharsisが語源です。アリストテレスが「詩学(Poetics)」の中でギリシャ悲劇が観客の体に及ぼす作用を論じるときに登場します。

交感神経は英語でsympathetic nerve、副交感神経はparasympathetic nerveです。

開放感はa sense of opennessと訳すことができるでしょう。Open-mindednessは他人の意見を受け入れる「寛容」「柔軟さ」という意味で、ここでの文脈と若干異なります。

Written by

記事を書いた人

葛生 賢治

哲学者。
早稲田大学卒業後、サラリーマン生活を経て渡米。ニュースクール(The New School for Social Research)にて哲学博士号を取得した後、ニューヨーク市立大学(CUNY)をはじめ、ニューヨーク州・ニュージャージー州の複数の大学で哲学科非常勤講師を兼任。専門はアメリカンプラグマティズム。博士論文の表題は「ジョン・デューイ哲学における宗教性」。

現在は東京にて論文執筆・ウェブ連載・翻訳活動に従事。
最新の発表論文はデビッド・リンチ、ジョン・カサヴェテスの映画分析を通じたリチャード・ローティー論。趣味は駄洒落づくり。代表作は「クリムトを海苔でくりむとどうなるんだろう」。

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