TRANSLATION

固有のことばと複製(前編)

葛生 賢治

考えることば ことばで考える

ニューヨークの大学で教えていた頃のこと。夏休みに実家のある東京に戻った際、数名の集まりで食事をしたことがありました。同席した初対面の女性に自己紹介をすると、「あ、哲学をされているんですか。じゃあこういうのご興味あります?」と持っていた本を渡されたことがあります。日本人が書いた詩集でした。名前や本の装丁からして自費出版と思われる本。その女性に好意を寄せている男性から「僕が書いた本です」と渡されたそうで、あいにく彼女は彼に興味がなく、読んでみても「自分の世界に浸っているだけ」のようで理解できず、きっと哲学者なら理解できるのでは、ということでした。

どうせ捨てるくらいなら少しでも理解できる人がもらってくれた方が、と言わんばかりの表情で渡されたときにはその男性を気の毒に思いましたが、それよりも強く印象に残ったのは彼女の詩に対する理解でした。

これは私の想像ですが、現代の日本人で詩に興味のある人、詩を日常的に読んだり書いたりする人はかなり少ないのではないでしょうか。そして詩に興味のない人の多くは詩を「書いた人が自分の世界に浸っているだけのことば」と捉えているのでは。

詩とは何か?詩をナルシスティックなことばを綴っただけの表現と理解する人が少なくないとすれば、それは何故なのでしょうか?

ジム・ジャームッシュの映画『パターソン』(2016)を例に考えてみましょう。

アメリカのニュージャージー州パターソンに暮らすバスの運転手の話。アダム・ドライバー演じる主人公の名前はパターソン。運転手として平凡そのものと呼べるような毎日を送りながら「秘密のノート」に詩を書き溜めています。毎朝6時過ぎに目を覚まして妻を起こさないようにベッドを抜け出し、一人朝食のシリアルを食べ、バスの車庫まで歩いて行き、運転を始める前の時間で運転席に座りながらノートに詩を書き、同僚のドライバーと挨拶を交わし、自作の詩を思い浮かべながらパターソンの街をバスで走り、乗客の話し声に耳を傾け、帰宅して妻と夕食をとり、犬の散歩に出かけたついでに近所のバーに立ち寄ってビールを飲み、家に帰って寝る。これを繰り返します。

平凡な毎日の中にもわずかな変化はあります。朝の挨拶を交わすたびに同僚の愚痴が激しさを増す。帰宅すると妻が部屋の壁やカーテンを奇抜な白黒模様にペイントしていた。バーの常連客である友人が長年思いを寄せてきた女性に冷たくあしらわれて逆上し、銃を持ってバーに押し入るもパターソンがタックルして押さえつけてみると銃はおもちゃだった。バスが電気系統のトラブルで動かなくなり乗客全員を下ろして代わりのバスを手配した、等々。ちょっとしたことは起きますが、そこから「ドラマ」が始まることはなく、彼はバスを運転し、詩を綴り、1日を終えてベッドで眠ります。

彼の詩には日常のことばが溢れています。シリアルを食べながらふと手にしたマッチ箱のラベル、子供の頃に教わった「次元」についての話、妻の寝顔、祖父がよく歌っていた歌の歌詞、バーで飲むビールのグラス。

彼が詩を綴り、そのフレーズを運転しながら思い浮かべると、画面には運転席から見たパターソンの街並みや歩行者、彼の顔のアップショット、ノートに字を綴る手、グレートフォールズ(パターソンにある滝)などが柔らかな光に包まれ、詩の単語一つひとつが白い手書き文字で浮かび上がり、環境音楽のようなBGMが重なります。インディーズ映画界の巨匠とも呼ばれるジム・ジャームッシュによるオフビートな「映画を使った詩」、いや「映画という詩」の表現です。

妻はパターソンの詩の才能を高く評価し、彼に本を出版するように、出版に気が引けるならせめてノートのコピーを取っておくように何度も勧めますが、彼はなかなか乗り気ではありません。やっとコピーを取ると約束してから2日後、妻の作ったカップケーキがグリーンマーケットで売れて286ドル手に入ったささやかなお祝いに二人は映画のレイトショーに出かけ外食をします。帰宅すると家に残しておいた犬がパターソンの秘密のノートをズタズタに噛みちぎっていました。カップケーキの成功に興奮する妻に押されバタバタと出かけたため、普段は鍵をかけた地下室に保管してあるノートをうっかりソファーに置いたままにしていたのです。文字が判別できないほど粉々に破り去られたノート。彼は落胆し、詩を書くことをやめてしまいます。

翌日、意気消沈したパターソンが一人グレートフォールズを眺めていると、スーツ姿の日本人男性(永瀬正敏)が現れます。「すみませんが、隣に座ってもよろしいですか?」と横に座ると「不躾なことを伺うかもしれませんが、あなたはここニュージャージー州パターソンの方ですか?」「また不躾なことを伺いますが、あなたはここニュージャージー州パターソン出身の偉大なる詩人ウィリアム・カーロス・ウィリアムズをご存知ですか?」「あなたは詩人ですか?」と様々に聞いてきます。実際にウィリアムズ・カーロス・ウィリアムズは20世紀のアメリカを代表する詩人で『パターソン』という長編詩を記しており、パターソンの最も敬愛する詩人でした。そして日本人がバッグから取り出した本は『パターソン』の翻訳本で、片側のページに日本語訳、反対側に原文が書かれていました。

その後の会話でも日本人はパターソンがバス運転手だと知ると「それはとても詩的ですね。まるでウィリアム・カーロス・ウィリアムズの詩のようです」と言ったり、なぜかパターソンが好きな詩人フランク・オハラに触れたり、ウィリアム・カーロス・ウィリアムズが医者だったことを教えると「なるほど(Ah-hah)」と返したり、奇妙なやり取りを続けます。パターソンが「あなたは随分と詩が好きなんですね」と言うと「私は詩を呼吸します」「私は詩を書きますが、日本語でだけです。翻訳はしません。詩の翻訳なんて、レインコートを着たままシャワーを浴びるようなものです」と返事。最後にパターソンに「贈り物です」と何も書かれていないノートを渡します。別れの挨拶をして立ち去る途中、一度だけ振り向いて「Ah hah」と言い、消えていきます。再び一人になり滝を見つめるパターソン。彼はおもむろにノートを開き、ポケットからペンを出して新しい詩を綴り出すのでした。

この映画、詩とは何かを考える上で示唆に富んだ作品だと言えます。後編で様々に分析していきましょう。

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<今日のことば>

「環境音楽」はambient musicの訳です。ambientは「周囲を取り巻く」「包囲する」という意味。メロディーやリズムといった伝統的な音楽の要素を排して空気感や雰囲気を表現する音楽として70年代後半にイギリスの音楽家Brian Enoによって生み出されました。

「意気消沈する」はbe disheartenedやbe depressedと訳すことができます。もう少し軽く「落ち込んでいる」程度ならfeel downやfeel lowが使えるでしょう。

「オフビート(offbeat)」はビートを通常のリズムから外したという音楽用語から派生して、「風変わりな」「変わった」という意味で使われます。

Written by

記事を書いた人

葛生 賢治

哲学者。
早稲田大学卒業後、サラリーマン生活を経て渡米。ニュースクール(The New School for Social Research)にて哲学博士号を取得した後、ニューヨーク市立大学(CUNY)をはじめ、ニューヨーク州・ニュージャージー州の複数の大学で哲学科非常勤講師を兼任。専門はアメリカンプラグマティズム。博士論文の表題は「ジョン・デューイ哲学における宗教性」。

現在は東京にて論文執筆・ウェブ連載・翻訳活動に従事。
最新の発表論文はデビッド・リンチ、ジョン・カサヴェテスの映画分析を通じたリチャード・ローティー論。趣味は駄洒落づくり。代表作は「クリムトを海苔でくりむとどうなるんだろう」。

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