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湖面に映る我が身を覗けば

葛生賢治

考えることば ことばで考える

みなさん、はじめまして。今回からこちらでコラムを書かせていただく哲学者の葛生賢治です。

「哲学」と聞くと「何やら抽象的でムズカシそうだな」と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、英語や文化の話題に触れながら、日常の中にある「世界を違う角度から見る瞬間」をご紹介できればと思います。よろしくどうぞ。

みなさんはSNSをよく閲覧・投稿されているでしょうか。インターネットの出現、さらにはSNSの登場によって社会のあり方そのものが変容したとよく言われますが、デジタルなネットワークが拡大したことで生まれる新しい言葉や現象があります。

Selfie(セルフィー:自撮り画像)もそのひとつ。若い世代を中心に多くの人が自撮り写真をネット空間に投稿しています。

SNSにセルフィーばかり載せている人たちを指して「そういう人は自分が大好きなのだろう」「自己愛が強いのでしょう」「ナルシスト(narcissist)なんじゃないか」と言う風潮があるかもしれません。

でも、ちょっと違うんです。

「ナルシスト」は古代ギリシャ神話に出てくる美少年ナルキッソス(Narcissus)からきています。その美貌ゆえ他人にいつも傲慢なナルキッソスに怒った神は、彼を愛する者が決して彼を手に入れることができなくしてしまいます。もはや自分しか愛せなくなってしまった美少年ナルキッソス。彼は水を飲もうと泉に行くと、水面に映った自分の姿を他人と間違い、一目惚れします。水に映る美少年から目を離すことができなくなったナルキッソスはそのまま餓死します。

バロック期のイタリア人画家、カラヴァッジオもナルキッソスを描いています。こちらがカラヴァッジォの描いたナルキッソス。
https://en.wikipedia.org/wiki/Narcissus_(Caravaggio)

ポイントは、ナルキッソスは自分自身の姿を他人と間違った、ということです。決して彼は「これは私だ。私はなんて美しいのだろう」と思っていたわけではありません。それはナルシストではなく唯我主義者(solipcist)です。世の中で優れているのは自分だけだ、という人。

ナルシストとは、目の前にいる人を「これは他人だ」と思っているけど、実際のところ自分を投影してるだけ、という人間を指します。自分の中に閉じこもって「自分はすごい」と思っているのではなく、「他人はすごい」と思っているにも関わらず、その「他人」が自分でしかない、という人なのです。上の絵を見てください。彼は水の中の自分を「他人」と勘違いしてうっとりしています。

だからSNSにセルフィーばかり載せてる人はナルシストではありません。「自分はすごい」と思っているのだから、ある意味それは「普通」のこと。誰にだって自尊心はあります。それが極度に強い、というだけでしょう。つまり、「度が過ぎた正直者」というだけなのです。

ナルシストは、例えば「私は国民の皆さまに我が身を捧げます!」と額に汗して演説していながら、その「皆さまへの献身」が実は「自己満足」でしかない政治家に代表される人間のことです。弁舌さわやか、理路整然とした主張、希望に満ちた目の輝き、他者のための自己犠牲、笑顔。でも結局、それは自分を投影しただけの「他者」という幻影にうっとりしているだけ。ナルキッソスのように。

そういう意味でナルシストは「自分ばかり見ている人」ではなく、「自分を見ているようで自分が一番見えていない人」のことです。セルフィー大好き人間は「他人よりも自分が素晴らしい」と思っている点では「他人」の存在を前提としているわけですから、よっぽど他者に開かれていると言えるでしょう。

けれども、「ナルシストはダメだ」と単純に切り捨てることはできません。誰にだってどこか上のような意味でナルシストのところがあるとは思いませんか?

問題は、本当の意味で他者に目を開くとはどういうことか、本当の意味で「自分を見つめる」とはどういうことか、ということ。

そこで、クリティカルに見る・考えることが大きな意味を持ってきます。哲学はここから始まるのです。

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<今日のことば>
日本語の「自己愛」にあたる英語はズバリ、Narcissismです。精神医学で使われる「自己愛性パーソナリティ障害」はNarcissistic personality disorder (NDP) の訳です。

文中に出てきた「度が過ぎた正直者」はextremely honest personと訳すことができるでしょう。「自己満足」はself-satisfactionとなります。

クリティカルに考えること、つまりcritical thinkingのcriticalは古代ギリシャ語のkrī́nō(区別・判断・決定する)を起源としています。この語は同時にcrisis(危機)の起源にもなっているのをご存知でしょうか。「決定的な状況」という意味から英語のcritical(危機的な、重大な)にもつながっているんですね。

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記事を書いた人

葛生賢治

哲学者。
早稲田大学卒業後、サラリーマン生活を経て渡米。ニュースクール(The New School for Social Research)にて哲学博士号を取得した後、ニューヨーク市立大学(CUNY)をはじめ、ニューヨーク州・ニュージャージー州の複数の大学で哲学科非常勤講師を兼任。専門はアメリカンプラグマティズム。博士論文の表題は「ジョン・デューイ哲学における宗教性」。

現在は東京にて論文執筆・ウェブ連載・翻訳活動に従事。
最新の発表論文はデビッド・リンチ、ジョン・カサヴェテスの映画分析を通じたリチャード・ローティー論。趣味は駄洒落づくり。代表作は「クリムトを海苔でくりむとどうなるんだろう」。

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