TRANSLATION

第353回 出版翻訳家デビュー記念インタビュー~石井ひろみさん 後編

寺田 真理子

あなたを出版翻訳家にする7つの魔法

今回の連載では、石井ひろみさんの出版翻訳家デビュー記念インタビュー後編をお届けいたします。『ルース・アサワ 触れるものすべて』の翻訳を通して石井さんが影響を受けたルース・アサワの人生観や、今後の翻訳家としてのキャリアについてお話を伺いました

石井ひろみさんプロフィール:
翻訳者。南山大学文学部卒。米イリノイ大学大学院修了(MBA)。米国在住時、スミソニアン国立アジア美術館(旧フリーア美術館および旧アーサー・M・サックラー・ギャラリー)や日系アメリカ人関連団体の活動にボランティアとして携わる。博物館学芸員資格をもつ。現在は出版翻訳を中心に活動しており、『ルース・アサワ 触れるものすべて』が初の美術評伝訳書となる。

寺田:本書の刊行後、他のルース・アサワ作品の企画が動いたりはしていないんですか。絵本も原書で刊行されていますよね?

石井:絵本は何冊も刊行されていますし、グラフィックノベルも出ています。機会があれば、いずれかぜひやってみたいですね。ちなみに、アサワの遺族は、このうちの1冊をつくる時、故人の意を汲んで「不幸を売りにしないでほしい」と言っていたそうです。そういうところを尊敬しています。「かわいそう自慢」をする人が多い世の中で、それを売りにしないのは素敵です。

寺田:アサワのどんなところに特に魅力を感じますか。

石井:彼女を尊敬する点は、エゴというものが本当にないところです。美しいものをつくることにはものすごくこだわるのに、「こんな美しいものをつくれる私って天才、私は偉い」とかはまったくない。たとえば、サンフランシスコのウォーターフロントに《アンドレア》という人魚姫の噴水をつくっているんです。それまで抽象彫刻家として売り出していた人でしたから、普通なら「自分の抽象作品が最高に映えるように」と考えるだろうに、彼女の場合は「その場所に噴水として何があったらいいか」をいちばんに考えるんです。具象とか抽象とかは、どうでもいい。「私は抽象作家だから」とか、そういうのがないんです。そういうスケールの大きいところを尊敬します。

「自分がすごいからつくってあげる」のではなくて、「たまたま自分が選ばれたに過ぎない」と捉える、そういう視野の広さですね。アーティストだけが偉いわけじゃなくて、作品を鋳造してくれる職人さんたちもすごいし、みんなが頑張っている。アーティストもその中の1人として役割を担っているだけ、というスタンスです。

翻訳者にも通じるところがあると思います。「私の本」ではなくて「私たちの本」なんですよね。版権を取ってくださった方がいて、内容の磨き上げや直しを手伝ってくださった方がいて、本をさまざまなかたちで届けてくださる方がいて、もちろん、その本を受け取って、読んでくださる方もいて……みんなで、いっしょにその唯一無二の1冊をつくりあげている。つい「私の本」とか思っちゃったりするかもしれないけれど、全然そうじゃないんですよね。

寺田:今のように承認欲求で動く人が多い世の中では、アサワのような在り方は貴重ですね。

石井:芸術界って、特にそうですよね。芸術のためなら、周囲の人を犠牲にしたっていい――そういう価値観が逆に尊敬されたりもして。ピカソのように「芸術がすべてに優先する」という芸術家観が比較的根づいているように思いますが、アサワはそれをひっくり返す人だと思います。みんなで分かち合って、美を生みだし、はぐくんでいく。そんな姿勢に共感する人が増えている気もするので、彼女への理解も進むのではないでしょうか。

寺田:今の時代に合っている、と?

石井:今年はアサワの生誕100周年にあたりますが、昭和100年でもあります。それくらい昔の人なのに、今の時代に通じるものがすごく多いんです。いろいろな物を再利用して何かをつくるとか、仕事と家庭のバランスとか、地元にコミュニティガーデンをつくるとか……平成や令和の話なのかな、と思うほどです。こんなふうに触発されることが多くて、人生の参考書にもなるから、評伝は好きなんです。

寺田:たしかに、そういう要素が多いですよね。

石井:アサワの通ったブラックマウンテン・カレッジの教育も、「世界市民として何ができるか」「最小の資源で最大のものを生み出す」といったことを重視していたようです。

養子をもらって育てるところも、アンジェリーナ・ジョリーが最初じゃなかったんだな、と。なんと自分の最初の子どもが生まれる際に、養子もいっしょに迎えているんですよ。育てる手間はひとりもふたりも変わらないから、とか言って。アサワにとっては、子育ても創造活動のひとつだったのかもしれません。もちろん、実子も養子も分け隔てはいっさいしません。たとえ血はつながっていなくても、フリではなくて、本当に自分の子に対するのと同じような愛情を注いでいるんですよね。

寺田:私は335ページのこの箇所に、アサワらしさがいちばんよく表現されているように感じました。アサワは大御所になってからも、病身をおして社会貢献活動に従事していたんですよね。その様子を描いた箇所です。

“後のほうになると、狼瘡の影響が色濃くにじむようになった。あの日も、みんなでアルバラドで草抜き作業をしていた。彼女も一緒に抜いていたんだが、途中、軽くつんのめったような感じになった。するとそのまま、地べたに倒れたままの体勢で、手の届く範囲の雑草を一本残らず抜いてしまった。で、転がるように別の場所に移動して、また抜いていく。”

石井:その時の友人たちの反応もいいんですよ。普通だったら「大丈夫?」とか騒ぎ立てそうなものなのに、彼女の好きにさせようと黙って見守っている。

寺田:友人と言えば、顔マスクもすごいですよね。友人たちの顔を石膏で型取りして、そのライフマスクを家の外壁に飾るという……。

石井:あれ、美しいんでしょうかね(苦笑)。収容所のトラウマとかもあるのかな? 見守っていてほしい、とか、愛する人たちにいつでも会えるようにしておきたい、とか……。

寺田:自分の中に絶対的な美の基準があるんでしょうね。100ページの石1つでもやりなおすところにも、それが表れています。

“もし積んだ石がひとつでも最適な位置にないように見えた場合、冷静に「おかしい」と伝える。そして「その部分をこわして、やりなおせ」と言い張るのだ。”

石井:エゴや自己主張は無いんだけれど、美しくないものは許せないんだろうな、と思います。

寺田:そうやって徹底するところは、翻訳にも通じます。

石井:そんなアサワの姿勢に近づけるよう、睡眠を削ってやりました(笑)。ただ、企画が通ってからも、「すごく良い本だけど、訳すのが自分でいいのだろうか」と思っていました。「見つけてきたからというだけで、訳していいのだろうか」と。でも、その時点で大半を訳していたのはおそらく日本では私だけでしたし、調べものもしつこくしていましたし。アサワの父の「ウマキチ」の漢字まで調べていましたからね(笑)。横浜の海外移住資料館に何度か足を運ぶうちに、なんと司書さんが当時の紳士録に掲載されているのを見つけてくださって。それ以外にも、国会図書館から県図書館、地元図書館まで、司書の方々には、本当にお世話になりました。

寺田:著者とのやりとりはありましたか。

石井:二度ほど質問やご相談をさせていただきました。ただ、直接ではなく、版元さまを通してエージェント経由でのやりとりでした。でも本書の刊行後に著者の公式サイトをたまたま見たら、韓国語版よりも大きく日本語版を扱ってくださっていて、うれしかったです。

寺田:それはうれしいですね。

石井:本書の刊行後も、アサワの日本でのルーツについて調べ続けています。調べてどうなるわけでもないんですが、訳していてやや気になった点もあったので、できれば日本側の資料も確認できたら、と思いまして。父親の出身地の情報を見つけて、先日問い合わせてみたところ、村の担当者の方がいろいろとお骨折りくださって、間違いなくそこだったと裏がとれたんです。ご親戚の方から連絡先も頂戴しました。

寺田:そこまで行くと、もう研究者ですよね。

石井:そんな大層なものでもないのですが、暇があるとアサワ関連の資料をながめたりはしています。調べたことはウィキペディアでも一部共有しています。きっかけは、やや不確かな記述が含まれているのに気づいてしまったことでした。訳者としてはさすがに見過ごせないかな、と。「これって翻訳者の仕事なの?」と自分にツッコミを入れながらも、たまたま天に指名されてしまったような気がしています。

寺田:アサワ的な考え方ですね。彼女はもともと内気な人物でしたが、コラボレーションを通して多くの人と関わるようになり、地元の子どもたちの美術教育から、最終的にはアーティストの権利擁護にも関わるようになりましたよね。今後のキャリアの広げ方に関しても、アサワの影響がありそうですか。

石井:アサワやブラックマウンテンに関する企画がまたあれば、携われるとうれしいですね。基本的に、自分の学びが深まることや、面白そうなにおいがするものは、なんでもやってみたいです。アサワの父母の故郷に行ってみたいとも思っているんです。それが仕事につながるかどうかはわかりませんが……。あとは、女性の評伝でこれと思える作品があれば、またぜひ挑戦したいです。

本書の刊行をきっかけに、X(旧Twitter)での発信も始めました。じつは、これまでSNSには苦手意識があったんです。あと、この本については、私はあまり表に出ないほうがいいかな、とも思っていました。でも、本を出しっぱなしじゃ無責任かな、と反省しまして。届けるべきところにはきちんと届けなくては、と一念発起して始めました。SNSだとこういう文章を書くのか、と勉強になっています。できれば、美術関係者や愛好家の方だけでなく、一般の方々にも届けたいんです。ちなみに、個人的にいちばん届けたいのは、介護や育児に追われてふっと夢をあきらめそうになっている、クリエイターの女性たち(翻訳者・通訳者・事務職も含む)だったりします。

寺田:今後の翻訳についてはいかがでしょう?

石井:機会さえいただけるようなら、翻訳は気長に続けていきたいです。アサワ的にいろいろな世界をのぞいてみたくもありますが、本書を訳させてもらって、評伝ってやっぱり面白いなあ、と思いました。ビジネス書だと基本的に1つのメッセージに関することだけですが、評伝はいろいろな分野の話が出てくるので、一緒に旅するような感じがして面白いんです。翻訳案件としてはかなり手強くて、事実に基づくから調べものも大変で、今回もそれこそ「鶴の恩返し」のように命を削る感じでやってました。人生初の腱鞘炎にもなってしまって、一時はペンも持てなかったほどです。だから翻訳をやるにしても、やり方は変えていかないとな、と思ったりもしています。

いろいろな評伝を読んでいると、日本に紹介されていない素敵な人生がまだまだたくさんあるんだなぁと思います。なんで日本語になってないの? もったいない! と思ってしまう名著も結構あって。ただ、いざ持ち込むとなると、あのしんどい旅がまた始まるのか、とやや気が重くもなりますが……。それでも、「評伝沼」にハマりそうです。

今読んでいる原書も550ページくらいあるんですが、お手洗いに行くのも嫌になるくらい面白いんですよ。本書とは全然違う分野だし、時代的にも多少ずれるので、またイチから勉強しないといけませんが。読み始めると、もうとまらない(笑)。アサワの知人のエリック・ホッファーとか、アサワの生きた時代とか、ブラックマウンテン・カレッジ関連とか、いろいろなつながりでみていくと、興味深い本がまだまだあります。

寺田:石井さんを通して、また魅力的な人物を日本の読者に知ってもらえるきっかけになるのではと楽しみです。本日はありがとうございました。ご出版、本当におめでとうございます! さらに多くの読者に届くことを願っています。

長年の持ち込みを経て、本書『ルース・アサワ 触れるものすべて』を世に送り出してくれた石井さん。本書はアート関係者にとって重要な本として今後読み継がれるだけでなく、多くの方にロールモデルを与える本としても、大きな意義があると思っています。石井さんご自身がアートに造詣が深く、守備範囲が広いこともあって、本書を見つけ出し、翻訳を手がけることができたのでしょう。その選書眼で今度はどんな素敵な人物を紹介してくれるのか……今後もご活躍に期待しています!

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記事を書いた人

寺田 真理子

日本読書療法学会会長
パーソンセンタードケア研究会講師
日本メンタルヘルス協会公認心理カウンセラー

長崎県出身。幼少時より南米諸国に滞在。東京大学法学部卒業。
多数の外資系企業での通訳を経て、現在は講演、執筆、翻訳活動。
出版翻訳家として認知症ケアの分野を中心に英語の専門書を多数出版するほか、スペイン語では絵本と小説も手がけている。日本読書療法学会を設立し、国際的に活動中。
ブログ:https://ameblo.jp/teradamariko/


『認知症の介護のために知っておきたい大切なこと~パーソンセンタードケア入門』(Bricolage)
『介護職のための実践!パーソンセンタードケア~認知症ケアの参考書』(筒井書房)
『リーダーのためのパーソンセンタードケア~認知症介護のチームづくり』(CLC)
『私の声が聞こえますか』(雲母書房)
『パーソンセンタードケアで考える認知症ケアの倫理』(クリエイツかもがわ)
『認知症を乗り越えて生きる』(クリエイツかもがわ)
『なにか、わたしにできることは?』(西村書店)
『虹色のコーラス』(西村書店)
『ありがとう 愛を!』(中央法規出版)

『うつの世界にさよならする100冊の本』(SBクリエイティブ)
『日日是幸日』(CLC)
『パーソンセンタードケア講座』(CLC)

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