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「大学」の役どころ

いぬ

通訳・翻訳者リレーブログ

大学の保護者会で、私がコーディネーターをしている通訳翻訳課程の話が出たそうです。通翻課程は、1年次から定員15名でスタートしましたが、2年次でもさらに15名を追加募集します。しかし・・・

・通翻課程はとにかく大変そうだ。オリエンテーション合宿でも、他のクラスはみんな遊んでいるのに、黙々と勉強していた
・履修したが最後、好きなことが全然出来ないのではないか。大学生活を謳歌できないのではないか

という噂が1年生の間に広がっていて、2年次からの追加募集に応募するのに二の足を踏んでいるという声が、保護者から挙がったんだそうです。そして、それを聞いた現在籍生の保護者からも、

・そこまでとは知らなかった。留学も義務付けられているし、ちゃんと就職活動が出来るかどうか心配

という声も挙がったとのことでした。私自身も日本語トレーニングを担当している先生方も、確かに学生たちが疲れた様子なのには気づいていましたが、今回の保護者会での声を受けて、ワークロードについて、再検討した方が良いのではないかというお話がありました。

まずは面談を実施し、時間簿を提出させて、本当に物理的に無理な量の宿題が出ているのかどうか、学生たちの悩みは(深刻なものがあるとしたら)どのあたりにあるのか、といった現状把握を行い、それに基づいて適宜対策を打って行きたいと思っております。

それはそれとして、大学の「就職予備校化」は、ここまで進んできているのかと思いました。全てが就職活動を前提に進んでいて、留学も「就職活動に差し支えるから」と早めに切り上げてしまうほどです。小さい頃から児童英語教室に通わせたりして一生懸命英語を学ばせてきたのに、最後の最後で「就職活動に差し支えるから、正規留学はほどほどに」と就職指導部に言われ、唯々諾々と(ではないかもしれませんが)従ってしまうという実態は、個人的には非常に違和感を覚えるのですが、それが一般的なこととして受け入れられているようです。

先日の講演でも少し触れたことなのですが、「就職活動」やら「コンカツ(結婚活動)」、果ては「リカツ(離婚活動!)」という言葉まであるご時世です。つまり、「就職」にも「結婚」にも「離婚」にすらも「正解」(正しいやり方)があって、自分もそれに則ってそつなくやらなくては、とみんながみんな考えている節があるんですね。

みんながやっているルールに則って、自分もやる。それが「正解」であり、あの恐ろしい「負け組み」(嫌な言葉ですねぇ)になることを避ける最善の方法である。そう信じて疑っていないわけです。もちろん、そういう考えも存在することは否定しません。しかしそれが唯一の考え方だと洗脳されているかのような状況には、どうしても首を傾げてしまいます。

大体、企業も何でリクルートを夏休みなどにやらせないんでしょうかねえ。有能な学生たちが「授業を欠席させられるのは困ります。それなら説明会には行きません」と団体で声を上げれば、事情は違ってくるのでしょうが、さすがにそれは理想論ですか……。我々教える側が十分魅力的な授業を提供できていないということもあるのかな……。

でも、そうやって企業側が用意したルールに則って、学生の本分である授業すら欠席して内定を掴んだところで、時には「内定取り消し」という仕打ちが待っていることもあるし、ようやく就職したところで、いまや「あの会社が……」と思うような会社が倒産するご時世です。数十年前ならば、会社に対して滅私奉公をして、その代わりに会社にあれこれ養ってもらうという関係が成り立っていたと思うのですが、そのような前提が消滅したのに、就職指導部も企業も、以前と変わらないことを学生に要求しているように感じます。

しかも、「言う通りにしないと、『負け組』だぞ、『フリーター』だぞ。生涯賃金はこんなに違ってくるぞ。まともには生きられなくなるぞ」と言うような、恐怖心をあおるような論理がまかり通っているように思うのです。それに煽り立てられて会社に飛び込んだまでは良かったものの、わずか数年で離職、という悲劇も珍しくないのだとか。

本来大学は、「まあ一般論としてはそうだろう。でも、こんな価値感もある。あんな生き方もある。君たちはどう社会と関わるんだ?どう生きて行くんだ?」という、すぐには答えが出ないような問いを投げかけられる場所なのではないでしょうか。

禅の「公案」のような、考えさせることそのものが課題のような、それによって自分の立ち位置を省みざるを得ないような、そんな「正解のない」問いかけに答えていく過程、プロセスが大切なのではないかと思うのです。

学生たちは健気にも「大学でどう学ぶのが『正解』なんだろう」、「自分の就職活動の『模範解答』はどこにあるんだろう」と悩んでいるわけですが、私は大学での教育や学びは、そういう「模範解答探し」とは真逆のところにあるのではと思うのです。

複雑な計算問題があったとします。その正解が「1」だったとします。でも、その正解「だけ」を追い求め、正解を暗記したところで、そこにどのような意味があるのでしょうか。就職活動中心にまわっていく大学生活は、どこかそのようなところがあるように感じます。

同僚の先生で、学生の論文指導をしていたら「要するに、何について調べたら良いんですか?私は忙しいんですから、調べ方ばかり教えられても困ります」と仰せになった学生さんがいたとか。もちろん例外中の例外だそうですが、1人でもそういう学生がいるという時点で、現在の大学教育全体が抱える問題点が見えて来る気がします。

さてさて、いろいろな次元で問題があるのは分かりました。あとはそれぞれの次元でどのような手を打っていくかですね。せっかくいい学生さんたちがそろっているし、設備にも環境にも恵まれているわけですから、腰をすえて取り組むとしましょう。

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記事を書いた人

いぬ

幼少期より日本で過ごす。大学留年、通訳学校進級失敗の後、イギリス逃亡。彼の地で仕事と伴侶を得て帰国。現在、放送通訳者兼映像翻訳者兼大学講師として稼動中。いろんな意味で規格外の2児の父。

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