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おだやかな顔でやさしい言葉を

いぬ

通訳・翻訳者リレーブログ

 「英語教育は結局道徳教育なのだ」と語っていたのは誰だったか、確か以前買ったDVDで、筑波大付属中学校の先生がおっしゃっていたような気がします。中嶋洋一先生だったでしょうか。調べれば分かるのですが、今はちょっと思い出せません。ただ、その言葉には大きく首肯したことは、実によく覚えています。
 言葉を身につけて何をするかといえば、コミュニケーションをするわけで、そうなると他人と自分の結びつきを意識せざるを得ません。そうなると、相手からの働きかけを自分の中でじっくり消化して、相手のことを考えたり、こちらから相手に働きかけていったりする必要が出てくると思うのです。そのあたりは道徳の授業の範疇とかなり重なってくると思います。
 4月からの大学の通訳・翻訳課程の授業展開を考えることになり、その一環として、通訳教育の英語教育的側面、さらに英語教育の道徳教育的側面にもかなり重きを置こうと思っていました。そんな中、先日アマゾンで注文していた品川利枝さんの「中学校・道徳授業の新機軸」という本が届いたので、早速読んでみました。まだ読み終わっていませんが、今まで読んだ分でもなるほどと思うことがいろいろありました。
 基本的な授業の展開は、以下の通りです。

 ・生徒に話を聞かせるor読ませるorビデオなどを見せる
 ・生徒に感想を書かせる(少なくとも200字程度)
 ・様々な意見を反映した感想文を8〜10点ほど選んで縮刷する
 ・選んだ感想文を生徒に読ませる
 ・緩やかな意見交換をさせる(コンセプトは「みんなちがって、みんないい」)

 非常に上手いなと思ったのは、なるべくバラエティーに富んだ(コントロバーシャルな意見も含んだ)感想文を選んで、生徒に読ませると言う点です。感想文を書かせるところまでは私も課題図書のリストを配った後にやったことがあるのですが、出来上がってくる感想文は、全体的にどうも考えが浅く、それをどう深めて行ったら良いのかが分からないままでした。
 指導しようにも、ややもすると、こちらから「教え込む」ような形になってしまい、そうなると価値観の相違を乗り越えられなかったり前提となる知識が共有できていなかったりということから、「意見の押し付け」のような形になってしまい、反発を招いてしまうこともあったのです。
 そんな中である程度成果を上げたのは、よく書けている感想文を「殿堂入り」と称してウェブ上の掲示板にアップし、クラス全員が閲覧できるようにしたことです。しかしこれも、いわゆる「模範的」なものばかりを選んだため、その後妙に教条的というか、「良い子」な感想文が増えてしまいました。
 それに対してこのやり方であれば自分と違う意見でも上手く受け入れ、しかも考えを進化させることが出来ます。友人の感想を読んだ後に、さらにもう一度感想文を書かせたり、中学生の感想に大学生が感想を付けたりという事例も報告されていますが、いずれも他人の意見を元に、自分の考えをさらに深めた内容になっていて、これは良いと思いました。
 さらに参考になったのは、生徒の様々な反応に対する教師側の応対方法でした。
 例えば、童話を読ませたとします。ねずみが木になっているりんごを取れず、アシカの助けを得てりんごを手にした、という内容を読んで、「でも、ねずみって、木に登れるじゃん」という反応が出たらどうするか。品川先生はこう書きます。

 「結論としては『そういうこともあるね』と軽く受けとめてやるくらいでいいのではないかと思う。(中略)『ここで考えることはそんなことではない』と強引に否定することも、『科学的な見方がよく出来る』と肯定することも適切ではないように思う。自然に虚構の世界に入っていくのを待つことだと思う。」(p.51)

 これを読んで、私は自分が今までいかに「教え込もう、教え込もう」として、「待つ」ということが出来ていなかったのかに気がつきました。学生や生徒に良かれと思ってしていたことが、実は考える機会を奪うことだったのです。
 また、中学生の感想文を「現実は厳しいのだ。甘えたことを言うな」「教師の期待するような内容を書いているのではないか」という具合に批判的に読んでしまう大学生が一部にいたのですが、これも私自身を振り返ってギクリとしました。品川先生はこう書かれます。

 「学生は生徒のこの感想文の内容だけで完結したものを期待しすぎているのだと思う。だから生徒の不十分なところに鋭く反応したのだと思う。」

 「道徳の授業は教科の授業のように時間ごとに完結しなければならない授業ではないのだ。(中略)その時間の目標は焦点化されているけれど、その達成度は個々の生徒によって異なることを認めねばならない授業なのである。」

 「道徳的価値に接近する段階や方法については評価は出来ないのだ」

 「ゆっくりではあるが確実に成長していく存在として見守り、その時々の反応に性急な習性を加えない方が発達を阻害しないのではないだろうか。」

 「大人に迎合する『良い子発言』が横行しているとしたら、そのような授業を仕組んだ教師に責任があるのであって、生徒には全く責任はない。」

 「生徒たちの純真無垢な心の方が教師である私たちより進んでいることもある。大人による極端なマイナス面の強調は、道徳的価値と人間との真実な関係を見失わせる恐れがある。教師は原則として生徒の全てを受け入れることが基本ではないだろうか」(以上pp.104-105)

 こうして列挙していても、全くその通りだと思います。しかし、先日読んだ溝上慎一氏の「大学生の学び・入門」にも書いてあったとおり、「納得することと行動することは別物」なので、今後はどうやって「その通りだ」と思ったことを自分の実際の行動に反映していくかが肝心な点だと思いました。
 そして、その具体的な指針も、品川先生は示して下さっています。実は以前にもどこかで聞いた「和顔愛語」というキーワードなのですが、その時は「何を奇麗事を。きちんと言うべき時は毅然として言うべきなんだ」ぐらいの感想しか抱きませんでした。しかし、やはり何事もTPOなのでしょうね、今回は言葉がストンと胸に落ちてきたのです。品川先生が生徒に対して語ったことを抜粋します。

「敬老の日を迎えるにあたって、中学一年生のあなたたちが、家族にしてあげることができることを一つ紹介しましょう。あなたたちは、経済的にも精神的にも家族の方々に守られて育てられています。そういうあなたたちは、自分でお金を稼ぐこともできない

し力もそれほど強くありません。『敬老の日』にプレゼントしたとしても、そのお金はやはり家族からいただいたものです。そういうあなたでも出来る贈り物のことです。それは、あなたがどのような境遇になろうとも、たとえ権力や地位を失ったとしても、あなたが病気であったとしても、あなたがどのように遠いところにいたとしても、贈ることが出来るものなのです。
 和顔愛語、おだやかな顔、やさしい言葉。
 遠くにいるおじいさんにも贈ることが出来ます。お母さんにも穏やかな顔でやさしい言葉で「おはよう」ということができます。疲れて帰ってくるおとうさんにも直接の「ありがとう」よりもっと深い喜びを与えることができるのではないでしょうか。『敬老の日』には、心に決め実行してみてください。」

 なるほどなるほど、と人形のように首をガクガク振りながら赤線を引っ張ってしまいました。あとは、それを実践することです。とは言っても、今は大学は春休み。授業はありません。
 しかし考えてみると、学生たちを大切に思い、教え導いてやりたいという気持ちは、子育てにも通ずるものがあることに気付きました。このところどうも、笛吹けど踊らずというか、一生懸命向き合おうとすればするほど空回りするような空しさを覚えていたのですが、ふと先ほどの中学生の感想文を批判的に読んだ大学生に対する記述が頭に浮かんだのです。
 あの抜粋部分の「学生」「教師」「大人」を「私」に、「生徒」を「子供たち」に置き換えたとき、そこに浮かび上がったのは、まさに私が問題だと思っている状況でした。
 本を読み始めたのが火曜日で、週末の土曜日・日曜日と一家4人でスキーに行く予定だったのですが、正直言って少々気が重い部分もあったのです。また「あれしなさい」「これしなさい」「それはしちゃダメ」と言いまくり、一家全員でいやな気分になる可能性もあるなあ、と。
 そこで自分なりに今回の家族旅行でテーマに掲げたのが「和顔愛語」でした。おだやかな顔で、やさしい言葉を。そう言えば、小さい頃旅行に行ったとき、両親はいつもそんな感じだったような気がします。そんな両親を見ていると、伸び伸びと楽しみにひたれたのでした。
 ならば、こんどはその気分を子供たちに子供たちに味わわせてあげたいものです。
 そう思って、2日間の間「和顔愛語」という言葉を心のどこかに常に引っ掛けて過ごしたところ、実に楽しい旅行となりました。
 娘と一緒に雪合戦(のようなもの)をやるのもとても楽しかったですし、息子がスキースクールを終えた後「お父さん、一緒に滑ろうよ!」と言ってくれたのも嬉しければ、いつの間にやらプルークボーゲンを使いこなしている息子に、後になり先になりしながら斜面を滑って行きつつ、「いやあ、たくましく育ったなあ」と幸せな気分にも浸れました。
 子供たちがスクールの授業を受けている間は妻と2人で滑りましたが、リフトに乗りながらいろんなことを話したり、コースの途中で写真を撮ってみたりと久しぶりに2人でのんびり過ごせました。
 何度か1人でも滑ったのですが、スキー板から伝わってくる雪の感触や肌をなでていく風や遠くの景色などを、五感で満喫できたと思います。ま、下手くそなので、何度も転びましたけれども。何と言ったら良いのか、心の「レンズ」についていた汚れを洗い落とせたような気分になりました。
 昨年来た時は「スキーは寒くてイヤ」と泣いていた娘も「おとうさん、ハの字で止まれるようになったんだよ!見てて!」とスキーを脱ぎたがりませんでしたし、何事にも慎重な息子に「どうかな、思い切って中級コース、滑ってみる?」と水を向けると「うん!滑ろう滑ろう!」と果敢にチャレンジして、しかも見事に滑りきったのも嬉しい驚きでした。
 旅行に行くと必ず1回は私か妻が大きな雷を子供たちに落とす羽目になるのですが、結局そんなこともなく、楽しく帰宅して楽しく就寝しました。個人的には満点の家族旅行です。
 これは別に子供だけではなく、生徒も学生も、そして私たち自身もそうだと思うのですが、人間誰もが向上心を持っているのだろうと思います。そっと見守っていれば、自分が思うようなペースではないにせよ伸びていくものを、無理矢理伸ばそうとしてつぶしてしまってはいけないのだなあとしみじみ思いました。
 もちろん、廊下を走る人がいるから「廊下を走るな」という張り紙が生まれるように、誰もがいつも「おだやかな顔で、やさしい言葉を」などと言っていられないからこそ「和顔愛語」という言葉が生まれるのでしょう。私も気を抜けば、すぐに「鬼軍曹モード」に逆戻りです。
 でも、なるべく「和顔愛語」が可能な余裕を確保しつつ家庭生活を送り、それを大学での授業でも反映させていきたいものだなと思いました。
 そんな「和顔愛語」の輪が、少しずつでも世の中に広がっていけば、と願っています。

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記事を書いた人

いぬ

幼少期より日本で過ごす。大学留年、通訳学校進級失敗の後、イギリス逃亡。彼の地で仕事と伴侶を得て帰国。現在、放送通訳者兼映像翻訳者兼大学講師として稼動中。いろんな意味で規格外の2児の父。

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