BLOG&NEWS

夢のあとに…

まめの木

通訳・翻訳者リレーブログ

フランスの作曲家、ガブリエル・フォーレの歌曲に『夢のあとに』という曲がある。ロマン・ビュシーヌの詩によるとても美しい作品だ。ドビュッシー、ラベルなどもそうだが、フランスの作曲家の作品は通訳する際、必ず原語で言わなければならないので、我々ドイツ語通訳者にとって発音は苦労の種である。しかし、フランス語の原題を知らなかった場合にドイツ語に訳してしまうと、途端に作品の香りが半減してしまうし、専門家が聞いたら一瞬「この通訳、何を言っているのだろう??」と疑われてしまうだろう。フォーレの『夢のあとに』もドイツ語で『ナッハ・アイネム・トラウム』などと発音したら、

夢の中にあなたの美しい姿があった。
おお夜よ、あの人の幻影をわたしに返して…

という、あのせつなく美しい歌詞とは程遠い、なんというか、悪夢でうなされた後に冷たい現実が物理的な威力をもって迫ってくるような感じがするのは、私だけだろうか…。その反面、ベートーベンの第九の最終楽章の有名な喜びの歌には、やっぱりドイツ語発音の『アン・ディー・フロイデ』が良く似合う。また、アメリカに留学していた友人がリヒャルト・ワーグナーの『さまよえるオランダ人』のことを『ザ・フライング・ダッチマン』と言った時には、あの崇高な楽曲のイメージが崩れるような気がして、非常にショックだった。

閑話休題、今回の夢の話はビュシーヌの詩のようなロマンチックな話ではない。小さい頃、「色つきの夢を見るとお迎えが近い」と周りからよく聞いたが、私が見る夢にはいつも、テクノカラー張りに立派な色が付いているし、手で触った感触や味覚などもはっきり覚えていることの方が多い。しかも、「夢の続きが見られる」というのが特技である。こんなこと、えらそうに自慢できる特技でもなんでもないが、ある夢がきっかけで、夢の続きが見られるようになった。それは、手塚治虫の漫画に出てくるような無機質なラボで、白衣を着たドイツ人研究者がぶくぶく泡の立つガラス管の前でなにやら真剣に説明をしてくれている、という夢だった。もちろんドイツ語で、聞いたこともない専門用語が沢山出てくるのである。なんだか訳がわからないし、疲れたから帰りたいな、と思ったら目が覚めたのだが、少なくとも自分がどこにいたのか知りたいと思って「もう一度行こう」と思った刹那に、また例の実験室にいて専門用語いっぱいの説明を聞いていた。また別の夢では、お寺で修行僧に混じって難しい仏教用語や四文字熟語のような日本語がオンパレードの講義を聞いていたこともあった。この時も続きを見ることができた。
私が興奮したのは、連続ドラマのように夢の続きを見られるということよりも、日本語でもドイツ語でも、何故自分の知らない用語が夢に出てくるのか、という点である。ここで一番残念に思うのは、自分の頭脳が夢の内容に追いつかず、夢自体ははっきりと覚えているのに、そこで教えてもらった内容をひとつも覚えていない、というか覚えられないことだ。夢だから覚えていない、というよりは、門外の専門書を読んでも内容が脳にまったく定着しない、といった感覚と似ている。特にお坊さんと一緒に講義を聞いていたときなどは恐ろしく古い日本語が使われていて、もちろん私は古文のエキスパートではないから、そこで使われていた言葉の真偽はさだかではないけれど、和紙を紐で閉じた書物もリアルだったし、これをすべて現実世界での能力に取り込めたらどんなに賢くなれるだろうか、と思うと残念至極である。
でも、英語ができないのに夢の中ではペラペラにしゃべっている、などの話もよく聞くし、こういった現象は多かれ少なかれ誰でも経験していることではないかと思う。これは心霊科学でいうところの幽体離脱なのか、自分の潜在意識にある願望がそのような夢にいざなうのか、どちらとも判断しがたいところである。

Written by

記事を書いた人

まめの木

ドイツ留学後、紆余曲折を経て通翻訳者に。仕事はエンターテインメント・芸術分野から自動車・機械系までと幅広い。色々なものになりたかった、という幼少期の夢を通訳者という仕事を通じてひそかに果たしている。取柄は元気と笑顔。

END