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クライストチャーチ地震

みなみ

通訳・翻訳者リレーブログ

 先週の土曜日早朝、ニュージーランド第二の都市、クライストチャーチでM7.1の大地震が起きました。オークランドに住む私が知ったのは、日本の夫の知り合いからの安否を気遣う電話。そんなことが起きているとはつゆ知らず、家族でのんびりブランチを食べていた時でした。
 このクライストチャーチの地震では、被害は甚大でしたが、死亡者は一人もいません。奇跡です。阪神大震災経験者としては、ほんとうに、ほんとうに、すごいことだと思います。
 ただ、家を失い、保険もかけておらず、途方にくれている人、店がつぶれ、再建のめどもたたないという経営者など、この地震で人生が変わってしまった人は大勢います。オークランドもそうですが、クライストチャーチでも、築70、80年といった建物を利用していることが多いので(特に雰囲気を出すためのレストランなど)、こういった建物の壁が崩れ落ちたりして、街は悲惨な状況。また、郊外の住宅地でも液化現象が起きて、地盤がめちゃくちゃになってしまい、もう住むことができない状態の通りがある、と報じられていました。
 阪神大震災当時、私が住んでいた実家は、神戸から車で30分ほどかかる地域なので、最大の悲惨な被害を受けた地域ではありません。家も修理は必要でしたが、そのまま住むことができました。
 当時、一番辛かったのは、銭湯に入るために夜、家族で寒空の中、行列したことでもなく(ガスはライフラインの中で復旧に一番時間がかかった)、夕食に携帯コンロでお湯をわかしてお茶漬けを食べたことでもありません。そんなものは、家や家族を失った人に比べたら、ただ不便というだけのことです。ただ、電車に乗って、いったん大阪まで出ると、街がごくごく通常どおりににぎわっていたことが苦しかったです。電車の中はリュックを背負った疲れ切った人でいっぱいで、いかにも被災、という重苦しい雰囲気が漂っているのに、大阪の駅は、そんなことがあったのか、というぐらい普通。会社に着くと、ごくごくいつもどおりの仕事をする日々。
 とにかく、被災地とそうでない地域の温度差がなんだかつらかったのです。そういえば、地震当日、電話がつながらず、心配しているかもと思って、一番近い近所の公衆電話に1時間以上並んで会社に無事を連絡した時のこと(当時は携帯電話がまだそれほど普及していなかった)。応対してくれた部署の男の子に「そうですか、で、明日は来れますか?」と明るく言われて、絶句してしまったことをはっきりと覚えています。電車は止まっているし、電気も水もまだだし、でも、そんなことを言う気も起きず、「分かりません。今はまだ電車が止まっているので」と返答するのがせいいっぱいでした。もちろん、避難所でつらい思いをしている人に比べたら、当時の私の状態は笑ってしまうぐらいなんてことがない状態であったのは確かです。様々な面倒は両親が見てくれるから、自分のことだけを心配していたら良かったし。それでも、余震がひんぱんに来て、激しく揺れるたびに緊張の時間を過ごしていた私には、その男の子の言葉があまりにもむとんちゃくに思われて、10年以上たった今でも、思い出されるのです。
 その反対に、人の思いやりのありがたさをしみじみと感じることもありました。会社で仕事をしていたら、同期の秘書室の女の子が席まで来て、「これ、お水のボトル、部署で余っていたから、おうちに持って帰って。いろいろ大変だよね。なんでも欲しいものがあったら言ってね」と声をかけてくれたことをはっきりと覚えています。確かに地元に帰ると、お店の中はからっぽだったとはいえ、大阪まで出ればなんでも買うことができたのですが、その言葉がすごくすごくうれしかったのを覚えています。それまで、会社はなんともないのだから、自分もなんともないようにしなくちゃ、とちょっとはりつめていたのが、その一言で、ああ、私のことを気遣ってくれる人がいるんだ、とすごくうれしかったのです。私も、そういった心遣いができる人間になりたい、とその時は思いましたが、なかなか難しいものです。でも、この経験のお陰で、ちょっとは被災地の人の苦しさに思いをはせることができるようにはなったかもしれません。
 クライストチャーチの地震の様子を新聞で毎日、見ているうちに、そういった情景の一つひとつが浮かんできます。被災した人々が精神的、肉体的にどれほど辛い思いをしているのかを考えるだけで、胸が痛みます。あちこちで募金活動が始まっているので、たいしたことはできませんが、寄付をしようと思います。

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記事を書いた人

みなみ

英日をメインとする翻訳者。2001年からニュージーランドで生活。家族は、夫(会社員)、娘(小学生)、ウサギ(ロップイヤー)。

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