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思い入れがてんこもりの私の文章…

パンの笛

通訳・翻訳者リレーブログ

 週末に読んだ記事に、作家の丸谷才一氏が朝日新聞の新人記者に向かって話した言葉が載っていました。「いい文章は、一升マスに八合入っているものです。残りの二合はどうするか。名文というものは、読者が二合を補うように書いてあるものです。新聞記者がよくないのは、一升マスに一升五合も二升も入れることです」…私は新聞記者ではありませんが、耳が痛いです。文章と言うのは、取りも直さず書き手の人格が浮き彫りになるもの。意識していなくても、人となりが出てしまうのです。このコーナーのように、自分の思いを綴っている文章は尚のこと。私はと言えば、ハッキリ言ってクドい。自覚たっぷりです。元々子供時代を外国で過ごしたせいか、自分の言いたいことははっきり言わなくては誰も汲み取ってくれることなどあり得ない、という感覚が身についてしまっているのです。その分逆に、相手が口にしなかった事柄は、本当は色々あるのかもしれないけれども、聞かなかった分にはお互いなかったことにしていてもいい、という考えがどこかにあるのも事実。そんな考え方が人間関係にもたらす問題は吐いて捨てるほどありますが、まぁ、人間関係については私の精進の問題、ということにしておくとしても、その考えが文章に表れているのも、紛れもない事実です。言いたいことは、手を変え品を変え、これでもかこれでもかと書き連ねてしまいます。これでは、読み手は誤解こそしないものの、食傷気味になってしまうだろうなぁ、とは思うのですが、なかなかこの性分が変えられないのです。文章を翻訳する場合、原文のトーンをなるべく忠実に訳したいともちろん考えているのですが、文章のトーンというのは、出てくる単語を逐一別の単語に置き換えるだけではどうにも作り出せないものなのです。そこで、懸命に描写されている事柄の表も裏も側面も行間もすべて読もうと考えるわけですが、それを訳したときについ、その「表も裏も側面も行間も」訳出した文章に書いてしまいがち。少し時間がたってから読み返して、慌てて言葉を削ることになるのです。八合分の文章を書く修行は、まだまだ続きそうです。せめて、自分がクドいという自覚だけは明確に持って、少しでも見直しの時間を多く取って、簡潔で的を射た文章を書けるようになりたいと思います。

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記事を書いた人

パンの笛

幼少時に英国に滞在。数年の会社勤めを経て、出産後の仕事復帰を機に翻訳を本格的に学習。現在はフリーランスの在宅翻訳者。お酒好きで人好き、おしゃべり好きの一児の母。

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