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岩手県立高田高校を訪問しました

いぬ

通訳・翻訳者リレーブログ

申し訳ございませんが、今回も指導している大学のブログからの転載です。一人でも多くの方に被災地の状況をお伝えできればと思います。

元記事には写真や動画なども多数ありますが、こちらにアップし直している時間的余裕がないので、ご覧になりたい方は恐縮ですが元記事をご参照いただけますか?
http://tsuhon.blog.so-net.ne.jp/2012-02-29

なお、すでにバレバレかと思いますが、元記事の「柴原」=「いぬ」です。

本投稿の<>は、写真のキャプションです。本来は写真だけでも張り込みたかったのですが、不完全な投稿になりますこと、お許しください。

いぬ

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この度、東日本大震災で甚大な被害を受けた、岩手県、陸前高田市にある高田高校を訪問し、英語学習に関する講演を行って参りました。

高田高校は震災のため、昨年5月から授業スタート(岩手県の中で再開が一番遅かったということです)ということで、授業進度が例年並みには進まない中、お忙しいスケジュールを調整していただいての講演となりました。

講演開催のためご尽力いただきました奥村先生、行事の合間を縫って私たちを受け入れて下さった工藤校長先生、本当にありがとうございます。

講演には本学の通訳・翻訳課程から、3年生の小野尾光平君、2年生の九嶋亨君が参加し、それぞれの立場から「学び」というものについて高校生に語り掛けてくれました。身近な立場からの言葉ということで、生徒さんたちの心にも届きやすかったのではないかと思います。

高田高校を訪問し、うかつにも気づかないでいた様々なことに気づきました。被災地「支援」と一口に言いますが、ともするとそれは支援する側の自己満足に終わってしまうこともあること、だからこそ被災地からの声に耳を澄まして、いつでも動ける態勢を取りつつも、見守るべきところは見守らないといけないこと、そんなことを感じた2日間でした。

以下、今回の訪問について時系列順に記録しておきたいと思います。冗長になります点、またあちこちで脱線する点、あらかじめお詫びしておきます。

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2月27日

10時半からアルク本社でインタビュー。日本人の英語学習などについていろいろとお話しました。いつもの通り、インタビュアーが聞き上手なのを良いことに暴走気味にあれこれ話してしまいます。気が付くと12時過ぎ。反省。

その後、チャリティーセミナーでお世話になった高校営業部の矢部さんから、セミナーで使ったリストバンドをご提供いただきました。東北への応援メッセージが書かれたバンドをはめて明日の講演に臨もうと思って、学生たちの分をいただけないかお願いしていたのです。

矢部さんからは、学生たちだけではなく、私の2人の子供たちの分まで、4本の提供をいただきました。本来は義援金と引き換えに手にするものだったので、「2本で2千円お出ししたい」と申し上げたところ、「先生方が東北にいらっしゃるということだけで十分です」というお話で、無償でご提供いただきました。

その後、ヒアリングマラソンの受講生を対象に「英語ブートキャンプ」を企画されている菅原さんをはじめ、7〜8人の方々とアルク本社近くの中華料理店でお食事をしながら打ち合わせを行いました。何でも、パンフレット用に、迷彩服を着た「鬼軍曹・柴原」の写真を撮るのだとか。(笑)

29日に予定されている戸田奈津子・鳥飼久美子両先生の対談で、司会進行を仰せつかっているのですが、それ関連のお問い合わせメールに電車の中で返信しつつNHKへ。今日は「攻略英語リスニング」の6月後半分の収録です。

高田高校に一緒に行く、通翻の小野尾君・九嶋君にも収録の様子を見せてあげようとNHK側にお願いし、快諾していただいたので、西口玄関で2人と合流して、録音スタジオに入りました。

<収録が終わって、許可をもらってスタジオで撮影しました>

その後、私が普段放送通訳として勤務している部署に向かい、通訳の準備をするコーナーで話をして、高田高校の生徒さんにお渡しする資料の最終的な打ち合わせも行いました。

その後、空いていた(というか、空いている時間を狙って行ったのですが)通訳ブースで記念撮影。

<2人とも、いい笑顔してますね。撮影を許可して下さったプロデューサーに感謝です>

その後、渋谷で高田高校にお渡しするお土産を買い込み、池袋に移動。コンビニを見つけて資料のコピーを行ないます。しかしB4で2枚の資料を200人分、計400枚ですから、かかる時間も半端ではありません。なんだかんだで(トナーを交換したり、用紙を何度も補充したり)1時間近くかかったのではないでしょうか。

その間、私は翌日の新幹線の予約にみどりの窓口に行っていました。これからは強行軍になるので、ちょっとしたサプライズも仕込んでからコンビニに戻ります。ほどなくコピーも終了したので、念のため使い捨てカイロなどを買い込んでから、夕食を取りました。

2人とも普段は1人暮らしなので、3人でワイワイと飲み食いするのが楽しいようです。食べ終わった後に、「デザートが食べたい」と小野尾君が言い出したので、喫茶店に入ってケーキセットを頼み、明日の講演について話を進めます。

その後、「東日本大震災 津波詳細地図」を取り出して3人で見ました。特に高田高校のあるページは、津波の被害を示すピンク色で埋め尽くされているような印象でした。さらに九嶋君が、事前準備の一環で読んでいた本を見せてくれましたが、その中には高田高校水泳部の顧問だった女性の先生が、いまだに行方不明になっていることが書かれていました。

生徒さんたちの状況が、改めて気になりますが、とにかくできることを精一杯やろうということで、手順の見直しなどを行なっているうちに、バス停に向かう時間になります。

22時50分。岩手交通の夜行バスに無事乗り込んで、車掌さんの「おばんです」という挨拶を聞いているうちに、まぶたがくっつき始めました。NHKの原稿などがなかなか書けず、今日は2時間弱しか寝ていなかったので、ボチボチ限界です。

<一方、元気いっぱいな九嶋君と小野尾君でした>

小野尾君が話しかけてきて、小声で返事をしていたのですが次第に意識が途切れはじめ、そのままぐっすりと寝込んでしまいました。大学2年の春休み、イギリス各地を夜行バスで旅行していた時の夢を見ました。

2月28日

5時半ごろ、窓ガラスとカーテンを突き破ってくるような寒気で目を覚まし

した。久々にたっぷり眠れたので、頭はすっきりしています。カーテンの隙間をのぞいてみると、一面の雪景色でした。

ほどなく明るくなってきて、周りの様子が見え始めます。橋を渡っているときにふと見ると、河の護岸工事のコンクリートがバリバリと割れていて、土嚢がつみあげてありました。今回の岩手行きで最初に目にした震災の被害でした。

津波に関しては、私はあまりよくわかっていなかったのですが、単に波の高さが高いということが問題なのではなく、波の波長と言いますか、横から見た際の幅が大きいことが非常に大きな問題になるのだそうです。

昨年、NHKの高校講座の2010年度のライブラリーを見ていて、その点が初めて分かりました。
http://www.nhk.or.jp/kokokoza/library/2011/tv/chigaku/archive/chapter016.html

時間がない方は、「内容を見る」をクリックすると、ページの真ん中あたりにまとめてあります。つまり自分のいる場所が一瞬にして、川底に沈んで濁流にさらされているような状況になり、それが長時間続くということです。「津波」というと、瞬間的な衝撃さえしのげれば何とかなると思っていたのですが、そうではないわけですね。巨大な質量をもつ奔流に抗うのは、相当に困難だと思いました。

さて、窓から外を眺めていると、さらに津波の爪痕が目に入って来ました。

橋を渡るときも、良く見ると欄干の部分が津波の衝撃で折れ曲がっています。また、道路わきに小さな山があって雪をかぶっていたので何だろうと思っていたところ、そばを通り過ぎる時にそれは瓦礫の山であることが分かりました。夜行バスの窓を越えるぐらいの高さがあります。

降りる予定のバス停のひとつ前のバス停が、陸前高田市市役所前でしたが、プレハブの建物が建っていました。道々、太陽光発電の広告を目にしましたが、これは震災前からあったものでしょうか。それとも震災後に必要に迫られて作られたものでしょうか。

バスは陸前高田市に入りますが、見渡す限り広がる畑か田んぼ(雪が積もっているので正確には分かりません)の中に、重機がポツリポツリと点在していて、あちこちに瓦礫の山が白く盛り上がっていました。

ところどころに車の残骸が転がり、タイヤの山(おそらく瓦礫は選別して山を作っているのでしょう)があります。

何の施設の一部か分かりませんが、巨大なコンクリートの塊が、鉄筋を触角のように生やしながら道路わきに転がっていて、前衛芸術のオブジェのような、異様な存在感を放っていました。

3階建てぐらいのマンションは、津波が通り抜けてしまい、向こう側が見えます。何かで見た光景だと思っていたのですが、このブログを書いている時点で思い出しました。

空襲後の東京の空撮写真です。

ほとんど真っ平らな地面になっている場所に、ポツリポツリとコンクリの建物が建っていて、その建物ももちろん破壊されています。

途中、5階建ての団地のような建物が2棟建っていたのですが、4階部分まで津波が通り抜けていて、がらんどうになっていました。窓からぶら下がっている布団なども、いまだそのままになっています。5階部分は一応波が押し寄せたような跡はあるものの、窓などは無事でした。

少し離れてから見たところ、団地全体が少し傾いて見えました。

昨年5月26日に、仙台東高校で講演をしたのですが、
http://tsuhon.blog.so-net.ne.jp/2011-05-27
その時は被災した民家の屋根に青いビニールシートがかぶせてあったのが印象的で、今回も無意識にビニールシートを探していました。しかし、一枚も見当たりません。

見当たらないはずです。家ごと押し流されているんですから。

それに気づいた時、窓の外を眺めながら、深いため息をついてしまいました。認識のギャップは、かなり深いものがあるなと思い知ります。

途中、山を背にして立つマリンブルーの屋根の建物が目に入りました。たしか、あれが高田高校です。

それにしても、被災当時の状況を想像してみるに、一般の人はもちろんですが、お年寄りと子供たちが何とも気の毒だと思いました。どれほど怖かったでしょう。辛かったでしょう。

バスは坂道を登りはじめ、海も見えてきました。何かの養殖でしょうか、湾に浮きが点々と浮かんでいるのが見えます。大変な状況の中、地元の方々は必死に生活を立て直そうとしているのでしょう。

途中、ガソリンスタンドの屋根の部分に「津波到達地点」という表示が書きこんであります。バスの車高よりも高い地点です。しかも、大分高台に登ったと思われる場所でした。

津波が襲ってきたときにここにいたとして、一体、どうやったら生き延びられるのか。

想像すると、絶望的な気分になります。

目を覚ました小野尾君や九嶋君も、窓外に広がる状況に息を飲んでいました。

やがてバスは目的地に到着し、3人で下車。寒さは思ったほどではありません。ほどなく奥村先生が車でお迎えに来て下さり、近くの旅館に移動し、朝食を取って温泉に入りました。なんだか申し訳なくなるほどきめ細やかなご対応をしていただきます。

旅館に向かう道々、奥村先生が被災当時の様子を話してくださいました。ただ、奥村先生ご自身は、津波が来たときはたまたま現地にいなかったとのことです。

被災当日の高田高校は、午前中が授業で午後からは授業はなくて部活があるという日で、学校にいた生徒さんは、ほぼ無事だったそうですが、部活がなくて帰宅した生徒さんが犠牲になったそうです。

高田高校は海岸線を正面に(とは言っても、普段は海はほとんど見えないほど距離があるそうです)、背後は山、という立地条件で、津波の避難場所に指定されていました。

地震の直後、いったんは校庭に避難したのですが、「ここも危ない」という校長先生の判断で、山の上にある第2グラウンドに避難しました。学校に避難してきた街の人たちも、生徒さんたちが両脇を支えながら急な坂を上ったのだそうです。

そして津波が襲来し、3階建ての校舎を飲みこみました。

その直前、水泳部の顧問をしていた先生(昨日、九嶋君が見せてくれた本に載っていた先生です)が、高校よりずっと海に近い位置にある温水プールで練習していた生徒さんたちを気遣ってプールに向かい、そのまま、いまだに行方不明になっているとのことでした。

運転をしながら、奥村先生が

「ここ、国道なんですよ。両脇にはお店や家などが建ってたんですけれどもね」

とおっしゃいます。

道路の両側

は、真っ平らな雪景色が広がっていました。

「今、いくつか建物がありますけれど、全部震災後に立て直したものです。直後は何もありませんでした」

という言葉に、どう反応していいのか分かりません。確かに、たまに国道のわきにお店はあるのですが、良く見てみるとプレハブの店舗でした。

これは大変な状況だ、と深刻になる私たち3人に、奥村先生は

「でも、生徒たちも元気に勉強していますから、ごく普通にお話してください。普通に、普通に」

とおっしゃいます。確かに私たちが必要以上に暗くなったところで、良い講演ができるわけでもありません。ありがたく朝食をいただき、お風呂に入ることにしました。

<実においしい朝食でした>

旅館は、ここを含めて数件しか営業しておらず、震災直後は報道関係者などでビッシリ予約が入っていて、一般の人はまったく泊まれなかったそうですが、最近は数週間前に予約を入れれば何とかなるとのことでした。

泊まっているのは復旧作業に従事されている土木作業関連の方々が多いようで、私たちが朝食を取っている反対側の席でも、頭にタオルを巻いた方々が黙々と食事をとっていらっしゃいました。

その後お風呂に入るため、2階に上がりました。階段を上がり切ったところで、こんな案内がありました。この旅館はかなり大きくて、いろいろな式典にも使われるらしいのですが、恐らくは震災で被災した家を建て直した記念なのではないでしょうか。

<撮影した私が映りこんでいます。脚はありますので、念のため>

お風呂からあがって体を拭いていると、一足先にあがった小野尾君がやって来て言いました。

「先生、この旅館、一見どこも被災してないように見えますよね。でも、ちょっと目につかないところは、かなりダメージを受けていて、その上から補修の化粧版みたいなものが貼ってありました」

結局、この辺り一帯で被害を免れた場所は(当然の話ですが)どこにもない、ということです。

<旅館からの眺め>

旅館を後にし、被災した高田高校に向かうことにしました。例の瓦礫の山ですが、奥村先生のお話だと、高さはあんなものではなかったそうです。もっとずっと高い、巨大な瓦礫の山がいくつも出来ていた、とのこと。

また、陸前高田市は被害が深刻だった分、重点的に復旧作業が行われており、これでも急速に復旧が進んでいるのだそうです。確かに「復旧作業中」というプレートを付けたダンプや重機と何度もすれ違いました。

<野球場のライトが見えますが、あのライトだけが水面に首を出している状況だった、とのことです。左の隅にはグシャグシャになった車が見えます>

車が大きなショッピングセンターのわきを通りますが、建っているのが不思議なほどボロボロになっていました。

3階建ての市役所も、廃墟のようになっています。最後まで頑張って、そのまま犠牲になった職員も多数いらっしゃるそうです。

また、バスの中から見て水田か畑だと思っていた場所は、何と住宅地だったとのことです。家々やお店が立ち並んでいたそうですが、今では何もありません。本当に、街一つが丸ごと消え去っているのです。

車はいよいよ高田高校に向かいます。

<到着直前の映像>

<遠目には、それほど被害がないように見えますが……>

<車を降りて近づいて行きます>

<間近で見ると、この通りです>

学校の、耐震補強のかすがいを見ていて、とても悲しい気分になりました。せっかく地震には見事に耐えきったのに、と。

奥村先生の先導で、校舎に入ります。

<ご遺体の捜索、ということでしょう。自衛隊の方が貼って行かれたと思うのですが、こういった作業を丁寧に行ってくださった自衛隊の皆さんにも頭が下がります>

職員用の下駄箱が並んでおり、奥村先生のお名前もありました。そして、水泳部の顧問だった先生の下駄箱には、お花が飾ってありました。3人で手を合わせて中に入ります。

なお、この先生はいまだに高田高校に在籍している扱いになっており、机もちゃんとあるのだそうです。いつでも戻ってこられるように。

<廊下。天井から優勝カップか何かがぶら下がっています。見上げている女性が、今回お世話になった高田高校の奥村先生です>

<階段の踊り場にあった、高校の同窓会報>

<図書室。とてもいい司書さんがいらっしゃることを思わせる、高校生が読みたいなと思うであろう本をそろえた、居心地の良さそうな場所でした。再利用できる本は、すでに新たな図書室に移動したそうです>

<教室の様子。おそらく捜索の際、本や資料などが片隅にまとめられたのでしょう>

<音楽室。中央の黒板の前に、コントラバスが置いてあります。使える金管楽器などは、掘り出して修理して再利用しているとのこと>

その後、体育館に移動しました。奥村先生も、震災以来、ここまで来たことはなかったそうです。しばらくは高校に来ること自体、辛かったということですが、無理もないですね。

そんな中、「あっ、車がある!」という声があがります。

慌てて駆け寄ると、高級車らしき車が、無残に転がっていました。

体育館の天井の構造物には、タオルや毛布などが引っかかったままになっています。高校は山を背にしているので、街の様々な瓦礫が押し寄せているのだそうです。廊下にも、特売セールのポップ広告が落ちていました。

体育館からの帰り道、九嶋君が「うわっ!ここにも車が……」と声をあげました。車が車体裏面をさらしながら、廊下のドアに引っかかっていたのですが、完全に周りの瓦礫と同化していて、来るときには気づきませんでした。

<玄関わきの事務室。昨年3月の予定が書かれたホワイトボードがありました。>

<津波の衝撃を、校舎が正面から受け止めたことが、ハッキリ分かります>

<玄関わきに、校門が並べて置いてありました>

<赤いクラブハウスは、本来は2階建てで、もっと校門に近い位置にあったそうです。それが建物ごと流されてこの位置に移動していました。1階部分は完全につぶれています>

<ポツンと屋外に置かれた机が、寂しげでした>

その後、奥村先生の車に乗って移転先の高田高校に向かいます。廃校になっていた高校を間借りする

とになったのだそうです。昨年7月ごろまでは、自衛隊の車両が校庭にびっしりだったとのこと。

坂道を登りながら、生徒さんの様子について伺いました。

現在問題になっているのは、保護者の方々の仕事がないということのようです。生徒さんへの奨学金の種類もいろいろあるのですが、数としては保護者を亡くした生徒さんが受けられるものが一番多く、次は親を失った生徒と家を失った生徒が受けられるもの、という順になり、せっかく家も流されず、家族も無事でも、保護者の方は収入の道を断たれて、一方生徒さんが奨学金に応募しようにもなかなか条件に当てはまらず、大変な思いをしているご家庭も多いとのことです。また、奨学金を募集していた時期は大丈夫でも、今は大丈夫ではなくなったという状況のご家庭もあります。

また、仮設住宅に入れても、2〜3年で出て行かねばなりません。

援助の網目をすり抜けてしまう、そのような事例を、これからどうやってケアして行くのかが、今後の行政の課題になるのだろうな、と思いました。その一方、そういうことに対して、一般の人々からの支援だって、いろいろやりようがあるのではないか、とも思います。

まずはそのような状況があることを広く周知していくことが大事だと思いました。そんなわけで、こうしてブログに書いております。高校側でも、そろそろまたアンケートをとって、状況を把握する予定とのことです。

また、教材の不足も深刻なようです。奥村先生によると、教科書は何とか岩手県が無償で提供してくれたそうですが、副教材が買えない。生徒さんたちの状況を考えると、とても買わせられない、ということでした。

教材会社の中には、「無料で教材を配布することはできませんが、いいです、どんどんコピーしちゃってください!」とおっしゃって下さったところもあるとのこと。ビジネスということを抜きにした英断だと思います。

ほどなく高田高校に到着。一見、ごく普通の田舎の高校でした。先ほどの衝撃が残っていたので、その「普通」さに救われる気がします。

<廊下にはあちこちからの激励メッセージがありました>

その後、工藤校長先生にご挨拶をして、しばらくお話を伺いました。第2グラウンドに避難するという判断についてお伺いすると「いやあ、みんな、自然にあがって行かれたんですよ」と謙遜されていましたが、避難する人々を生徒さんがサポートしたことといい、教育者としての影響が、校内に行きわたっているのだなと思います。「体育館では、ご遺体も収容されましてね」と穏やかに語っていらっしゃいました。奥村先生曰く、「あの校長先生だから、今まで頑張れた」という声があるそうです。そうだろうなと思いました。

校長先生のお話を伺っていて、いくつかハッとすることがありましたので、箇条書きにします。

・普通の生活を、淡々と続けることが、今は一番大切
→「支援」という名のイベント続きで、そのたびに授業を中断して生徒さんたちを集めて話を聞かせて……ということがあまりに多いのも、考えものということですね。その意味では、私たちの講演もご迷惑になっていないと良いなと思います。

・あるスポーツ新聞が、野球部を1年間取材したいと依頼してきたので、2つの条件を課して許可した
1 あるストーリーをあらかじめ作り、それに当てはめるような取材はしないこと
2 美談にしないこと
ちなみに野球部の部長をしていらっしゃるのが、奥村先生です。

・先生方には、「教材などに制限がある今こそ、授業だけで勝負するチャンスだ」と言っている
→教員は、学者ではなく「教えること」のプロであるべき、とのお考え。

講演の準備に入ろうとした時に、小野尾君が「一つお伺いしたいんですが、指導者としてどんな点が大事だとお考えですか?」と質問しました。にっこり笑った工藤校長先生は、丁寧に答えて下さいました。

・教員も生徒も同じ。ダメだと叱ったからと言って、良くはならない。自分の悪い点は、本人も自覚しているはず。それを指摘するのは、一緒に仕事をしていくうえで、必ずしも良いこととは限らない。

・教師は教えることのプロ。
→授業が終わったら、「ああ、終わった」ではなく、「この点がうまく行かなかった。次はこうしたらいいのではないか」と考えてほしい。そういう姿勢を、一生持ち続けてほしい。

・生徒には、一週間に1回で良いから、解けない問題を考え続ける機会を持ってほしい。

・考えて、そして提案することが大切。
→後になって「実は……」が一番いけない。

もっとお伺いしたかったのですが、時間が迫っています。控室に移って、最終的な手順の確認に入りました。

<1年生用の大教室。複数のクラスが集まります>

<窓から校庭を臨みます。この広い校庭を、自衛隊の車両などが埋め尽くしていたそうです>

講演会ですが、生徒さんたちの元気いっぱいな様子に本当に救われました。肝心の講演について詳しく語りたいのですが、無我夢中で、午前中の1年生2コマに関しては、写真も撮り忘れておりました。

<豪華なお弁当に、お茶菓子までお気遣いいただきました>

午後は2年生です。

九嶋君が「学びとは、インプットだけではなく、それを考えて発信(アウトプット)すること、そしてディスカッションをすること」と訴え、小野尾君が「目的を忘れて目標ばかりを考えていると、目標を達成した時点で失速してしまう」と語り掛けます。

私は冗談も交えつつ発音指導をして、「大学受験や資格試験を『目的』にしてはいけない。その先を目指していくこと。自分の人生の目的は、大変でも自分自身で見つけ出していくしかない。他人に自分の人生を決めさせちゃいけない」というようなことを話しました。

<講演の様子>

講演終了後、奥村先生が謝礼をお持ちくださいました。交通費だけでも十分だと思っていたのに、講演料も入っているようでした。お金が目的ではないので、交通費だけいただこうかとも思ったのですが、事務の方の仕事を増やしてしまうと思いましたのでありがたく頂戴しました。このお金は丸ごと取っておいて、教材を買って高田高校にお送りしたり、(また機会があれば)高田高校に行く際の交通費にあてようと思います。

その後、バス停まで奥村先生に送っていただくことになりました。階段の途中に貼ってあった、奨学金のポスターを見て、3人でしばし考え込みます。
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校長先生もわざわざお見送りして下さり、高田高校を後にしました。
<ほんとうにありがとうございました>

奥村先生とお別れして、15時20分のバスに乗り込み、17時50分ぐらいに一ノ関駅に到着。この間、3人ともあっという間に眠りに落ちてしまい、ほとんど何も覚えていません。ただ、一ノ関駅前がとても賑やかで、温泉などもあるということで、「通翻のみんなと、のんびり来られたら楽しいねえ」などと話したのは覚えています。まあ、来たとしても、きっとハードな勉強合宿になってしまうのでしょうが。

さて、新幹線に乗り遅れそうになるなど、それなりのドタバタはあったものの、ギリギリで飛び乗り、切符に書いてある車両を目指します。見えてきたのは緑の四葉マーク。

今回は学生2人に強行軍を課してしまったので、お礼の意味も兼ねて思い切って予約してみました。2人とも喜んでくれたようで、良かったです。

ビールを飲みつつ、被災地をまわって思ったことを、あれこれと話し合いました。この3人で記憶をシェアできることは、本当に心強いと思います。

<おちゃらけた写真ですが、極度の緊張が解けた後のことですので、お許しください>

以上、2日間のレポートでした。

本当にいろいろな方のお世話になった2日間でした。この場を借りて心からお礼申し上げます。

個人的には、校長先生のお話が印象に残っています。

支援する側があまりにも「あれもこれも」と動くことは、ようやく離陸した飛行機をわざわざ呼び戻して、「この燃料タンクも」「ロケットブースターもいるでしょう」「これ機内食にどうぞ」などとやることと同じなのでしょう。

「普通の生活を淡々と続けることが大切」と校長先生がおっしゃっていた通り、飛行機で言えば、早いところ水平飛行ができることをこそ手助けすべきなのだと思いますから、自力で飛行しているのであれば、まずは見守りつつ、困っていることがないかを知ろうとするべきなのでしょう。

一時の危機的状況は脱している今、援助する側はstay alertでありつつも、被災地のニーズに静かに、そしてしっかりと耳を傾けて寄り添って行くという、stand byの精神で行くことが肝要であると思います。

様々な善意が、うまく被災地のニーズとかみ合って動いて行けるよう、より一層考えて行こうと思いました。

柴原 智幸

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奥村先生からは、夜に丁寧なメールがありました。一部を抜粋します。

<引用ここから>
学校に戻りまして、会議直前、単語テストのペナルティに来た1年生が(間違った単語をテストの裏面に練習し、提出する際、口頭試験に合格しないと提出できないというペナルティです)、意識しながら単語の発音をしていてびっくりしました。

また、2年生は廊下でone two three・・・と発音して歩いていたと数学の教員から聞きました。

また、目的と目標の話も生徒の中に残ったようです。まったく別の話題で会話をしている際、「そういえば今日の授業で目的の話がありましたよね」と話していました。英語だけでなく別の話題でも目標と目的の話が当てはまる点があったようです。

今日の講義がきっかけに英語に対して今まで抱いていた概念などが変わってくれたらいいなと思っています。
<引用ここまで>

「3人の力を合わせて、生徒さんに何らかのプラスの変化を起こす」というのが、今回の訪問の目的でしたが、どうやら少しは達成できたようで、本当に嬉しいです。

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小野尾君からも、その日のうちに通翻のMLにメールが流れました。

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小野尾です。

昨日は先生のNHKの収録現場に行き、今日は岩手の陸前高田と大船渡に行ってきました。

今度しっかりとした感想を書きます。今日はへとへとで書けません。

とにかくさまざまなことを思いました。

普段は「こんな壁をクリアできないようじゃ俺はなんの意味ないわ」と自分を追い詰めている僕ですが、そんなことを考えていた僕がダメでした。

生きる場所、十分に生活できる家、お金などがあるからこそ、そのように考えてしまうのかもしれませんし、そのように考えることができるんですね。

しかしそのようなことができない人もたくさんいます。学校の授業すらしっかり受けられない状況の人もたくさんいます。職ない人もたくさんいるようでした。

自分たちがいかに良い状況下にいるのか(直下型地震が来たらわかりませんが・・・)を再認識する良いきっかけになりました。

NHK、東北プロジェクトとありがとうございました先生。

とにかく眠いです。

明日は戸田先生と鳥飼先生の講演があるので、寝る前に軽く質問を考えて寝ます。

小野尾

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月曜日にお昼をご一緒したアルクの白川さんから、以下のようなメールが来ていました。
震災と援助に関して考えさせられる内容だったので、引用いたします。(白川さん、勝手に引用してしまいまして申し訳ございません。でも、学生たちをはじめ、広く知ってもらいたい情報だと思ったもので……)

白川さんは、私が「オバマの英語」を共著者の一人として書いた時に、編集者として大活躍して下さった方です。

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先日はNHKの収録、そして、東北行の前に、打ち合わせのために弊社までご足労いただきありがとうございました。ランチ時にうかがった、被災地、とくに子どもたちのことを想う先生の気持ちに打たれるとともに、強く共鳴いたしました。

帰り際にすこしお話しさせていただいた本についてお知らせいたします。ほんとうは永福町の駅ビル内の書店で購入して先生にお渡ししたかったのですが・・・

【書名】『人を助けるすんごい仕組み』
(アマゾンへ飛びます→) http://amzn.to/ywhuZi

この本の著者は「ふんばろう東日本支援プロジェクト」の代表で西條剛央(さいじょうたけお)さんという早稲田大学のMBA講師の方です。
http://fumbaro.org/

「ふんばろう東日本支援プロジェクト」は、さまざまな「プロジェクト」を統括する集合体で、そのプロジェクトのひとつに「物資支援プロジェクト」があります。被災地の子どもたちがCDプレイヤーを持っていない、というお話でしたので、こういったプロジェクトを利用されるとよ

のではないかと思った次第です。

この本の校正にかかわり、刊行前にゲラで読みました。

ショックでした。あれだけの被害をもたらした、大惨事が自分のなかで風化しかかっていたことが。

この本がふたたび人々を東日本の支援に向かわせる契機になればと願っています。

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メールは私と妻に宛てられておりまして、さっそく妻が返信しました。その内容も(身びいきも入っているとは思いますが)重要だと思ったので転載します。無断転載ですが、きっと肩もみぐらいで許してくれることでしょう!

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過日は主人が色々とお世話になりましてありがとうございました。昨日主人は帰宅しましたが、現地での様子を色々と聞くにつれ、まだまだ「震災後」は続いていると感じました。ご紹介いただいた本、ぜひ入手してみますね。私たち一人一人、何ができるかを今こそ考えるべきだと思っています。

著者の西條さんはWBSの方なのですね。NHKラジオ第一放送の「ラジオあさいちばん」で定期的に出演なさっている遠藤功さんもWBSの方です。遠藤さんは日本の技術力や、現場レベルで頑張っている組織などを積極的に取材し、番組や著作で述べていらっしゃいます。

震災から1年がたちますが、たとえ被災地へ向かうことができなくても、今、目の前にある自分の仕事を丁寧かつしっかりと行っていくことが、巡り巡って大きな支援になると私は信じています。白川さんからのメールで改めてその気持ちを抱くことができました。ありがとうございます。

最近読んだ本で印象的だったものがいくつかあります。

震災関連では「救命」(海堂尊監修、新潮社)が、また、コソボ紛争関連の「戦場のタクト」(&#32983;澤寿男著、実業之日本社)もいろいろと考えさせられました。

日本の震災だけでなく、世界にはたくさんの紛争が起きています。そうしたことにも思いを寄せていきたいと考えています。

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白川さんからも、すぐに返信がありました

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行ってみないと、そして、直接話を聞かないと、とは「ふんばろう」の西條さんも言っていました。

彼の場合は、実家が仙台で、慕っていたおじさんを今回の震災でなくすなど、個人的な想いも「きっかけ」のひとつだと思います。

> 日本の震災だけでなく、世界にはたくさんの紛争が起きています。
> そうしたことにも思いを寄せていきたいと考えています。

早苗先生のそうした構えの大きさ、見習いたいです。「共感」が人を動かす大きな要因になりますね。

たとえば、「ふんばろう」のプロジェクトに「冬物家電プロジェクト」があります。

東北では秋からストーブが必要なくらいに冷え込みますが、このプロジェクトを本格的にはじめたのは11月になってから。それは西の人たちが寒さを実感できないため、と本に書いてありました。いろいろな点で「考える」ということを考えさせられる本でした。

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「秋田君」こと九嶋君からも感想が届きました
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報告遅れて申し訳ありません。
秋田です。 

今回は高田高校に行ってきた感想を綴ります。

 ある日突然全てを失って、それでも懸命に生き続けようとしている生徒達のことも考えると、正直自分が今回の講演をしていいものか迷いました。でも、伝えられるだけのことは伝えよう、と思い参加させて頂きました。

 元の高田高校は、ブログの記事を見て分かるように、校舎自体も無残に破壊されて、かける言葉もないくらいでした。その中でも若い先生が何を考えて、命を落としたのか。そうした犠牲の中で懸命に生きる生徒の皆さんのことを思うと、今まで自分が取ってきた行動の幼稚さに気づかされ、自然と涙が出てきました。

それに自分が散っていった人達の手向けとして何ができるか、といったら、自分達が極めようとしていることを「とことん極める」。そして発進するしかないんじゃないでしょうか。

今までの自分を変える貴重な機会になりました。柴原先生、小野尾先輩、本当にありがとうございました。

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こんにちは。
2年の岩井です。

柴原先生・こうへい・秋田君、高田高校での講演お疲れ様でした。ブログでやメーリスで今東北がどのような状況にあるかを知りました。写真を見る限り自分の想像をはるかに超えていました。

そこで自分でも何か被災地の人たちにできることはないかと考えていたところ、東日本大震災への義援金を集めるボランティアをモントレーで募集していました。

モントレーでは、毎週火曜日にファーマーズ・マーケットというものが開かれます。地元の人が、いろいろなお店を出し合う日本でいうお祭りみたいなものです。来週の火曜日にも開かれ、その中で義援金を集めようとのことです。

ブログの中で「支援という言葉だけで支援する側の自己満足になってしまっていないか」という言葉が頭に残っていました。確かに義援金を集めるボランティアをしたとこで、自分の自己満足に終わってしまうかもしれないと考えました。本当に必要なものは何かということを、自分自身理解しきっていません。

しかし今自分にできることは、義援金を集めることしか思いつきませんでした。ですので今回のボランティアに参加しようと思います。そして少しでもお役に立てればと思います。今回の義援金は仙台の近くにある七ヶ浜という地域に送られるようです。

参加申し込みをしたのですが、少なくてももう一人は必要であるということで、実際に参加できるかはわかりませんが、参加できるのであれば今東北がどのような状況にあるのかを伝えられるように、もう一度ブログを読んだり、七ヶ浜について調べ、少しでも多くの義援金を集められるように努力したいと思います。

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記事を書いた人

いぬ

幼少期より日本で過ごす。大学留年、通訳学校進級失敗の後、イギリス逃亡。彼の地で仕事と伴侶を得て帰国。現在、放送通訳者兼映像翻訳者兼大学講師として稼動中。いろんな意味で規格外の2児の父。

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