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賞味期限にこだわらず……

いぬ

通訳・翻訳者リレーブログ

5月29日の日経新聞文化欄に、佐々木幸綱氏の「詩歌の賞味期限」というお話が載っていました。

高校の研究授業で、齋藤茂吉の「しんしんと雪ふるなかにたたずめる馬の眼はまたたきにけり」という短歌が扱われていたのですが、生徒たちは「馬」というと「サラブレッド」を思い浮かべ、先生は「脚がどーんと太い農耕馬」を思い浮かべていたそうです。

「馬といえばサラブレッドを思い浮かべる社会では、この歌は理解してもらえない。もう賞味期限が切れたのだろうか」

佐々木さんはそう語ります。また、俳句でも中村草田男の「降る雪や明治は遠くなりにけり」という句を取り上げ、この句が高校の教科書から外されて久しいことにも触れていらっしゃいます。その理由は「明治が遠いのは当たり前すぎる」というものだとか。

この句が作られたのは昭和6年で、ちょうど今昭和を振り返るような感覚で作られた句なのだそうですね。

「教科書は博物館ではない。教科書としてはたしかに賞味期限が切れたと言えるだろう。が、一方、生々しさが消えて、古典としての味わいを持ちはじめた、と見ることもできるのではないか。」

と語っていらっしゃいます。これに関しては私の考えは若干違っている、というか佐々木さんの考えをさらに発展させたもので、「だからこそ、教科書に載せておくべきなのではないか」と思うのです。

このような「賞味期限」にこだわりすぎると、かえって私たちが感じ取ることができるものを狭めてしまうのではないでしょうか。その考え方を推し進めると、三大和歌集も、論語も、「古典」と言われるものは軒並み「賞味期限切れ」ということになってしまいます。

しかし、人間が「実感」として感じることができるものはごく一部であって、「こうなのだろうなあ」と想像することによって感じ取ることの方がずっと多いはずです。だとすれば、その糧となる短歌や俳句を教科書から排していくのは、私たちの感受性がやせ細っていくことにつながるのではないだろうか、と思います。

食べやすいもの、お手軽なもの、と追及していった結果生まれたファーストフードが全盛を極めた後、「やはり本来の和食が良い」などと揺り戻しがあったのも、世の中の食事がファーストフード一色に塗りつぶされなかったからこそではないでしょうか。

私事で恐縮ですが、先日子供たちの授業参観に行ってきました。音楽の授業では「かえるのうた」を合唱していたのですけれども、その伴奏がえらく現代的なのに驚きました。教科書を見ても、いわゆる「唱歌」的なものはかなり姿を消しています。

たしかに、古臭い歌では子供たちの心に響かないという現実もあるでしょう。しかし、だからと言って極端に走るのも考え物ではないかと思います。「一汁一菜では箸がすすまないから、三食フライドポテトとから揚げ」というようなものです。

教科書だからこそ、「賞味期限切れ」の曲も載せてほしいと思います。売り上げを考えなくていいのですから。また、目先の利益を追わなくていい教育の現場だからこそ「賞味期限切れ」の曲も、和歌も、俳句も、教えてあげてほしいと思うのです。

教育は受験対策ではないですからね。タネをまくようなもので、5年10年経ってから「ああ、あの歌はこういう気持ちを表現したものだったのか……」と実感できれば大成功だと思います。

うんと教科書を分厚くして、そのすべてをカバーしなくても良いことにしてしまえば良いのではないでしょうか。「賞味期限切れ」の知識もたくさん盛り込んであげて、学ぶ側の興味と境遇に応じてページをめくらせてあげれば良いのではないかなと思います。

賞味期限切れというと、5年ほど前に出席した「イスラエル翻訳学会」の会合で「翻訳に賞味期限があるか」という話を興味深く聞きました。サリンジャーのThe Catcher in the Ryeは、有名な野崎孝訳、最近出た村上訳を含めて3種類翻訳が出ているよとか、シェイクスピアの翻訳も何バージョンもあるよ、というようなことを言おうと思って何度も挙手したのですが、あいにく発言の機会がありませんでした。

「オリジナルのメッセージを正確にくみ取り、それを別の言語で、効果的に再表現する」ことを通訳・翻訳の定義としている私としては、やはり翻訳には賞味期限はあるだろうという考えです。ただ、古くなった翻訳に価値がなくなるというのではなく、それはその翻訳が発表された時代のターゲットランゲージの読者(上記の例で言えば日本人)の言語世界を映す資料として、非常に貴重なのではないかと思うのです。

そして、新たに翻訳するにしても、先行する翻訳は実に様々なものを示唆してくれる存在であり、「読んでわからない(ピンとこない)から不必要」と断じられる性格のものではないのではないかと思います。むしろ、それを読んで意味を取ろう、何とか味わおうと努力するところに、自分の感受性や知識の地平を押し広げていく、非常に大切な要素が集まっていると思うのですよね。

一昨日、本田直之さんの「リーディング3.0」を読んで非常に面白いと感じたのですけれども、この本に書かれているような「本の内容で必要なところだけを抽出して、それ以外は捨て、抽出したことを発信していく」という読み方は、情報の鮮度が命であるビジネス書に当てはまる読み方だと思います。

文学や、いわゆる「古典」に関しては、ある時点で「これが大事」と感じたことも、年を取るごとにどんどん変わっていったりしますから、「捨てる」という作業は本来はそう簡単にできないはずです。要は、「情報の賞味期限がない」のですね。そういう情報を「賞味期限付き」のものと同じように扱うと、非常にまずいことになるのではないかな、と思います。そして、どうも最近世の中がそういう方向に進んでいるような気もするのです。

ま、それに対して「それはどうなんだろう?」という声を挙げる、いわば「浮世離れ担当」が我々大学教員の仕事の一部なんじゃないかな、と思っておりますが。

そうそう、賞味期限がらみの余談をひとつ。

大学時代にコンビニの夜勤をしていた時、せっかく賞味期限順に並べた牛乳を、棚の奥から(つまり賞味期限が長いものを)取り出すおばさんが来ていました。一緒にシフトに入っていた相棒と「おい、また来てるぜ」と言って、「あ、牛乳ですよね。どうぞー」と手前の牛乳を差し出しても、「自分で取るから」と棚の奥に手を突っ込みます。

そこで一計を案じて、おばさんが来る時間の20分ほど前に、新しいものを手前に、

いものを奥に並べ替えておいたのです。作戦は見事成功し、おばさんは一番古い牛乳(それでも賞味期限は1週間ぐらい先だったはずですが)をレジ袋に入れて、意気揚々と去って行ったのでした。

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記事を書いた人

いぬ

幼少期より日本で過ごす。大学留年、通訳学校進級失敗の後、イギリス逃亡。彼の地で仕事と伴侶を得て帰国。現在、放送通訳者兼映像翻訳者兼大学講師として稼動中。いろんな意味で規格外の2児の父。

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