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そこにはただ風が吹いてるだけ

いぬ

通訳・翻訳者リレーブログ

高校の同級生から、実に20年ぶりに連絡があった。ネットで妻と僕のインタビューを見て、そのインタビューを掲載していた通訳エージェントにコンタクトを取ったのだそうだ。

単語をやりつつ新聞を読み倒しつつ、ポッドキャストを聞いてシャドウイングしつつ、出勤。授業。昼休みに暗唱の指導。授業。空き時間に事務処理と教務課との打ち合わせ。そうこうしているうちに、ドアをノックしてTが入ってきた。変わっていない。ガシッと握手をして再会を祝した。5限の授業を見学してもらう。

その後、大学の最寄り駅近くの食べ放題飲み放題のレストランで痛飲しながら思い出話にふけった。

ショックだったのは、担任の先生が10年近く前に亡くなっていたことだ。僕にとって高校時代の3年間は、その後の大学時代の6年間が鬱屈していただけに、特別な時代だった。いつか一人前になって、「錦を飾る」べき故郷だった、とも言えるかもしれない。もう少し、もうちょっと「ちゃんとしたら」ご報告にと思っているうちに、いつしか母校は「遠くにありて思う」ものになり、完全に足が遠のいていた。

「何だ、いぬ、また数学は赤点ギリギリか。頑張れよ」「いぬ、図書委員が本を延滞しちゃダメだろう。図書館から催促来てるぞ」そんなことを言っている姿が今でも目に浮かぶ。

グラスを傾けながらTが、
「字がきれいだったよなあ。日本史の授業の板書、日直のとき消すのがもったいなかったもん」
とつぶやく。

一人前になって、一言お礼が言いたかった。でも、ようやくお礼を言える状態になったときに、担任のH先生は、言葉の届かない世界に旅立ってしまわれていたのだ。しかも何年も後にそれを知る体たらく。Tに訃報を聞いたとき、世界貿易センタービルが崩れ落ちるのを見たときと同じような気分になる。自分の過去の一部分が突然消去されてしまったような、寒々しい虚無感だった。

ショックな報告は続き、Tのお母さんはTが27のときにまだ50代で、Tのお父さんはそのさらに数年後に亡くなったとのこと。お二人ともガンだったそうだ。

僕も高校3年生のときに父方の一番上の伯父を、留学する半年前には祖母を、さらに一昨年には仲人をしてくれた母方の伯父をガンで亡くしたことを話す。

僕もTも、上手くいえないが、まだまだ、お世話になった人に「もうご安心ください」と胸を張れるような状態にない。

早く、結果を、出さなければ。

僕はまだましだ。両親ともに健在で、直接お礼を言うことも出来る。でも、悲しいことだが、それはいつまでも続く状態ではないのだと、Tの話を聞いて思う。考えてみれば、我々の担任だったときのH先生のお歳を、Tも僕も、いつの間にか過ぎていたのだった。学校の同窓会サイトを見ていると、当時散々あだ名をつけてからかった先生の引退の挨拶が載っている。

すべてのものは、刻々と変化していくのだなあ。でも、それだからこそ、「変わらずそこにある」ことも大事なのだと思う。「H先生、やっぱり教師は死んじゃあダメですよ。僕ら不肖の教え子が行くまで、待っててくれなきゃ」。そんなことを思った。

しかし、数十年の時間を軽々飛び越えて、高校時代の感覚に簡単に戻れるものだなあ。ビールのジョッキやワインのグラスを傾けるTの姿に、カラーのホックをきちんとかけた学生服姿が重なる。変わらない。

「なあ、T、俺思うんだけど、人間の本質っていうか精神的なものって、高校生か、遅くとも大学1〜2年生ぐらいで確定して、その後は良くも悪くも「年を取らないし、成長もしない」のかもしれないんじゃないかな。だって今こうやって話してても、高校の頃、放課後の教室であれこれ話した感覚、そのまんまだもん」
「んー、そうだよなあ。そうだねえ」
「結婚した時は、これで精神的に何かものすごい成長が、と思ったけど、結局バカなところはそのまんまだしさ。子供が生まれた時も、これでひと皮むけて、とか思ったけど変わんない。2人目が生まれた時も期待したけど、結局そういう外発的な要因じゃ変わらんし、かと言って内発的な動機なんて、ホント生まれないしさ」
「うんうんうんうん」

などと話す。そして、ご両親の死を経験した君も、やっぱり昔と変わらないぞ、という言葉は飲み込んだ。

その一方で、料理を取りに行くTの後姿を見つつ、「何だよ白髪なんて生やしやがって」と思う。その後トイレに行くと、鏡の中で中年のおっさんがハンカチで手を拭いていた。中味はともかく、器はどんどん変化しているわけだよなあ。

お互いに「おい、まだ死ぬなよ。まだやるべきことやってないぞ。このまんまじゃ終われないもんな」などと言いつつ、レストランが閉店になって追い出されるまで飲み続けて帰宅。

今の学生たちが、今の僕の歳になるころまで、ギリギリで大学にいることが出来るだろう。最後のオチコボレが「いやあ、僕もようやく……」と挨拶に来るまで、(へんな言い方だが)死んでも死ぬもんか。「先生、相変わらずですねえ」と呆れられてやろう。

授業備忘録。

通訳法

息、声、英語のウォーミングアップ。300選の英文暗唱チェック。一つ一つが長めなので、9分ほどかかる。レポートを机の上に置かせ、筆記用具とメモ用紙を持って他の人のレポートを読ませ、気づいた点をメモらせる。その後、CALL教室の機能をちょっとは使おうと思い、機械に2人ずつのペアを作らせて、USBカメラとヘッドフォンとマイクを使って、他人のレポートを見て気付いた点を数分話し合わせる。

その後、教材をシャドウor同通(練習)させた後、録音。さらに、さっきのカメラを使って、ペアの同通(教材前半)を聞かせてコメントさせ、その後役割をスイッチ。教材の後半をもう1人が同通して、コメント。総括として、みんなとても上手くなったこと。この繰り返しで総合的な英語力も通訳力も伸びていくことなどを語った。

また、復習しすぎて覚えてしまったのだが、良いのか?という質問が出たので、全く問題ないと答える。コンビネーションというか、「勝ちパターン」というか、そういうものを自分なりに作り上げていくのが良い。何度も何度も、「こう訳したらいいのかな?それともこうかな?」と練り上げていき、僕からの修正も入った訳、つまり「自分なりの正解」を作り上げていくプロセスが大事だし、そうして作り上げた「訳出のパターン」は、応用が利く。

最終的に練り上げた訳というものが最初から分かっているなら、それを最初から覚えた方が良さそうに思うかもしれないが、

れだと応用が利かない。そんなことを話した。まあ、最初から「答え『だけ』を『効率的に』覚えちゃおう」なんて根性だと、長い目で見れば逆に非効率になるということ。

続いて合宿の日程発表。11月7日と8日。場所は八王子セミナーハウス。2限と5限あわせて6〜7人ぐらいはいただろうか。全滅を覚悟していたので、まあ思ったよりは良い。でも、やはり乗って来ないなあ。

「通訳コンテストの代表O君を鍛えるついでに、自分たちも勉強しちゃおう」というコンセプトである。12個ほどトピックがあるので、それぞれをこれから1人1人に割り振って(合宿参加、不参加関わらず)、そのトピックについて日本語と英語で調べ、

1 内容をA4最長3枚までに日本語でまとめる。
2 キーワード(日本語は英語訳、英語は日本語訳つける)を、最低20個
3 ものすごくかいつまんで、5分ぐらいで日本語でプレゼンできるようにしておく

という課題を課す。7日は、基本的にプレゼン。担当部分以外は、残りの人たちも聞く。8日はそれに基づいた通訳練習を予定している。

メディア・イングリッシュ

今日は、「引きこもり」についての英文記事。いつもどおりグループで不明点を話し合わせた後に、読解面や背景知識面などの質問を受ける。思ったより時間がかかった。その後、ペアを組んでプレゼンをさせる。続いて5〜6人のグループを作る。僕自身、今振り返れば大学時代は引きこもりだったようなものだな、という話をして、もし気にならなければ、引きこもりのような経験がある人はカミングアウトしてくれるように頼むと、数人が手を挙げてくれた。

グループを「引きこもり組」と「引きこもりをやめるよう説得する家族組」の2つに分け、先ほどカミングアウトした人を「引きこもり組」に重点的に配置。その後「引きこもり組」を廊下に連れ出して作戦会議。各グループ2人から3人いるので、「なぜ引きこもっているか」のシナリオを作り、共有しておくように言う。

作戦会議の時間を数分とった後、いつもの英語ディベートもどきとは違い、自由に発言してよしということにして英語で話し合わせた。笑い声も上がる一方、白熱したやり取りもあって、机間巡視していて興味深かった。

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記事を書いた人

いぬ

幼少期より日本で過ごす。大学留年、通訳学校進級失敗の後、イギリス逃亡。彼の地で仕事と伴侶を得て帰国。現在、放送通訳者兼映像翻訳者兼大学講師として稼動中。いろんな意味で規格外の2児の父。

END