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全力で現実逃避?

いぬ

通訳・翻訳者リレーブログ

極めて散文的に過ぎた1週間でした。いつものことながら、要領が悪いので事務処理やら授業の予習やら何やらに追いまくられてしまい、ドタバタと騒々しい割にはあまり生産的でないという、毎度のパターンです。根っこの部分で変えようという気が無いんでしょうねえ、これは。

そんな中でもというよりは、そんな中だからこそなのか、仕事と直接関係ないことに首を突っ込んで、あれこれ考えていました。

まず、読みたくてたまらなかったのに、背表紙が見えない形で「積ん読」になっていた、谷口ジローの「遥かな町へ」を読みました。帯の宣伝文句によると、「48歳のサラリーマンの『私』は、出張の帰路、二日酔いのもうろうとした気分のまま、何者かに操られるかの様に、故郷・倉吉へ向かう列車に乗った。菩提寺の母の墓前で『私』は突然、激しいめまいに襲われる。気がつくと『私』は、記憶にある34年前の故郷に、中学生の姿で立っていた!!」という内容です。

私は埼玉育ちですが、母が里帰り出産をした関係で、生まれたのは鳥取市内です。それ以来、ほぼ毎年夏に鳥取に「里帰り」しているので、鳥取は心の中で特別な位置を占めています。谷口ジローのマンガの舞台は倉吉で、厳密に言うと私の知っている鳥取弁とは違うのだと思いますが、活字をなぞっていると遠い日の亡き祖母の語り口などがよみがえってきて、本筋とは関係ないところでジーンとしていました。

また、谷口ジローというと、高校の時に1作目読んで衝撃を受けた「坊ちゃんの時代」シリーズを描いた人という印象が強く、そういう意味でも懐かしさを感じました。

内容的には、過去に戻った主人公が、未来を変えるべく奮闘するけれども・・・という筋書きで、重松清の「流星ワゴン」とも重なる部分があります。また、運命に必死にあらがう男の姿という意味では、同じく谷口ジローの「晴れゆく空」のモチーフとも重なる部分があるでしょう。以前「流星ワゴン」の感想として書いた文が、本作にもそのまま当てはまるような気がするので、セルフ引用で恐縮ですが書き添えておきます。

「自分なりに道を自力で切り開いて歩き出し、その歩みがしっかりしだしたら、もう少し深い読み方が出来るのではないか。
 分かりあえてもあえなくても、運命を変えてやろうとあがいてもあがかなくても、結局何も変わらないのかもしれない。
 でも、結末は変わらなくて良い。大切なのは、自分自身が納得できるかどうかなのだ。納得して結末に向かう過程こそが、大切なのだから。」

青臭い感想で重ねて恐縮ですが、ここまで読み込むのが当時の私にとっては精一杯でした。今も対して変わっていませんが・・・。

続いて、授業でつかうLetter to Danielの予習をしているうちにBBCのサイト内にある第二次世界大戦の体験談を集めたページに行き着き、そこに出ていた話に興味を持って検索しているうちに、Chivalry in the Air(空の騎士道)というサイトに行き着きました。実話だそうです。

http://aviationartstore.com/chivalry_in_the_air.htm

舞台となるのは、第二次世界大戦中のヨーロッパ大陸。登場人物(?)は、ドイツ空爆に参加したアメリカ軍のB-17重爆撃機(イギリスを基地にしていました)と、その迎撃に舞い上がったドイツ空軍のBf-109戦闘機です。

対空砲火で損傷し、ドイツ軍戦闘機との交戦で酸素ボンベを撃ち抜かれたB-17、Ye Old Pub(ニックネーム)は、パイロットも意識を失ったために急降下し、奇跡的に地表近くで水平飛行に入りました。

意識を取り戻し、負傷者の手当てを部下に命じつつ、ボロボロの機体を必死に操って基地に帰投しようとするB-17の機長、チャールズ・ブラウン。一方、その撃墜を命じられたBf-109の搭乗員、フランツ・スティグラー(正確な読みが分からないので適当です)。

その日、すでに2機のB-17を撃墜していた腕利きのパイロットであるスティグラーは、まず後部銃座を黙らせようとB-17に接近したところで異常に気付きます。すでに空戦で後部銃座は破壊されており、機銃員の遺体も見えました。機体は穴だらけで、飛んでいるのがやっと。「この機を攻撃するのは、パラシュートを撃つようなものだ」と判断したスティグラーは、B-17と平行して飛び、イギリスに帰るのは無理だから不時着せよと手信号を送りますが、ブラウンはこれを断固拒否しました。

結局スティグラーは北海上空までYe Old Pubをエスコートし、ブラウンに敬礼をして翼を翻すと、基地に戻って「B-17は北海上空で撃墜した」と報告したのでした。真相が判明すれば処刑に値する重罪です。

一方、かろうじてイギリスに戻ったブラウンたちB-17の乗組員は何が起きたかを詳細に報告したのですが、上官から厳重な緘口令がしかれてしまいました。ブラウンは以後数十年間、沈黙を守り続けます。

20世紀も残り少なくなった頃、ブラウンたちYe Old Pubの元乗組員たちは、あの謎のパイロットを探し始めました。そして見つかったのが、フランツ・スティグラーだったのです。しかも、スティグラーはカナダに移住しており、ブラウンとはわずか300キロほどしか離れていないところに、数十年間も住んでいたのでした。2人は戦友会で無事再開を果たしています。

・・・とまあ、そんな話なのですが、「早く寝なくちゃ・・・」と思いながら、結局一気読みしてしまいました。残念ながら、スティグラーさんは、今年はじめに亡くなったそうです。

人間と人間が殺し合いをする「戦争」という状況下では、どんなひどい事が起きてもおかしくないと思います。その状況下で、こういうことが出来る人がいるというのは、しみじみ「人間も捨てたものではないなあ」と感じます。ただ、スティグラーさんもブラウンさんも、あの一件の後も戦い続け、スティグラーさんは最終的に重爆撃機多数を含む28機撃墜の戦果を挙げ(5機撃墜で「エース(撃墜王)」と呼ばれます)、ブラウンさんも25回の規定出撃回数をきちんと満了しました。ハリウッド映画ではありませんから、奇麗事では済まないのは、当然のことですね・・・。

思わず、D大の英作文の授業では予定を変更してこの話をした後、「自分がスティグラー氏なら、どうするか。そしてそれはなぜか」という題で英作文を書いてくるようにという課題を出してしまいました。授業中に隣の席の人とちょっと話し合わせたのを小耳にはさんだ限りでは、「撃墜する」「しない」の両方の意見が出ていましたが、課題の方はどうでしょう。楽しみにしています。

奇麗事で済まないといえば、先週図書館で借りてきた森田友幸氏の「25

の艦長海戦記」も考えさせられました。異例の若さで駆逐艦「天津風」艦長に任じられた森田氏の体験記なのですが、ヨーロッパ戦線で起きたのと同じようなことと、正反対のことが起きてしまいました。

「弾は吸い込まれるように命中し、敵機は直ぐに火炎を上げ、右舷一千メートルの海面に墜落(中略)、三名の搭乗員が海面に脱出。ライフジャケットをつけてあおむけになって浮いている。ときどき片眼を開けてこちらを見る。死んだふりをしているのである。(中略)今までに死んでいった味方の仇を討ってやりたいと思う反面、憎い敵なれど、撃墜されて死んだふりしてまで助かりたいともがいているものを見逃してやるのも武士道と思う心が、爆雷を入れることを躊躇させる。

思わず『見逃してやろう』という言葉が出てしまった。しかし、この決断が正しかったのだろうかと、後々まで悩むことにもなった。

というのは、これから八日後の四月六日の昼、海防艦一号がB-25二十数機と交戦、沈没することになるが、同艦が右舷に傾き沈没に瀕した際、生存乗員約八十名は左舷船腹にしがみ着いたり、海に跳び込んで泳いだ。だが、米軍機は爆撃と機銃掃射を繰り返し、全員を射殺したことを戦後知ったからである」(pp.96-97)

正反対のこと、という言い方をしたものの、その差は紙一重とも言えるでしょう。自分がその立場にいたら、どちらの行動に出ていても不思議はないと思います。

また、爆薬を積んだモーターボートを使った「震洋」という特攻兵器(たしか今年に入ってからの日経新聞の「私の履歴書」で、その部隊にいたという方の話がありました)の記述があるのですが、読んでいて目を疑いました。

「震洋艇がベニヤ板でできているため強度が不十分で、全力を出すと水漏れや接着部の剥離を起こすものがあり、粗製品に唖然たるものがあった」(p.170)

こんな兵器を使って特攻作戦を組んでいたのですね。名前は聞いた事がありますが、ここまでお粗末な代物だったとは。これで特攻を命じられた方の胸中はいかばかりだったかと思います。

理不尽なのは特攻兵器を巡る話だけではありません。そもそも「天津風」は敵の攻撃で大きな被害を受けており、制海権を完全に失っていた当時、この艦をシンガポールから内地まで回航して修理すること自体が、無茶な話でした。事実、手負いの「天津風」を含む船団は、護衛していた輸送船はもちろんのこと、護衛する側の駆逐艦・海防艦すら「天津風」を除いて全滅し、「天津風」も最終的にはエンジンが故障して沈没を避けるために海岸に乗り上げてその運命を終えます。ついに一隻も生き残らなかったわけです。

最初から無理だと分かっていた命令でした。それでも軍上層部は、現場の意見を無視して命令をごり押しします。これをうけて、森田氏はあとがきに、次のように記しています。

「政治に従属すべき軍事が、いつの間にか政治のうえに立ち、勝算のない本土決戦を計画し、最後の決戦を戦おうとする大本営の指導を、誰も止めることができなかった。莫大な人命が失われることが予測され、国土は焦土と化するのが分かりながら・・・。(中略)原爆投下の是非については、今なお論議されるが、米側の『早く戦争を終わらせるためのやむを得ぬ手段であった』というのは、前線、銃後を問わず毎日数千数万の国民が殺傷されていく敗北の戦いをつづけねばならなかった戦局からすれば、一面では納得のゆく陳述ともとれる」(p.190)

私がイギリスに留学している頃、ワシントンのスミソニアン博物館におけるB-29「エノラ・ゲイ」号展示を巡って、論議が巻き起こりました。原爆を投下した「エノラ・ゲイ」の機体とともに、被爆者の様子も展示しようという博物館側の方針に、退役軍人会から「待った」がかかったのです。曰く、「原爆投下は正しかった」と。その理由が、正に前述のもので、その急先鋒が「エノラ・ゲイ」のポール・ティベッツ元機長でした。ティベッツ氏は最後まで主張を変えず、昨年11月に亡くなっています。

個人的には原爆投下を正当化する意見には納得していなかったのですが、今回森田氏の言葉を読んで、考え込んでしまいました。意見そのものの正しさはともかく、実際に当時に生きていらっしゃった方があのように語っていらっしゃる以上、そうでもしないと止められない状況があったという見方も成り立つわけです。何とも重い一言でした。

さて、そんな本を読みつつ、土曜日には久々に伝統系の空手道場にも稽古に行きました。やはりフルコンタクトとは違った面白さがありますね。一つ一つの動作の意味が深い深い。先生の解説を聞きながら、思う通りに動かない手足をヒョコヒョコ動かしていました。それが楽しいんですから、我ながらよく分からないですね。

日曜日には、久々に渋谷の伯母宅を一家で訪問。私の結婚式で仲人をして下さった伯父がいないのが寂しかったですが、美味しい食事に伯母と従姉妹と話も弾み、楽しいひと時でした(伯母から「論文は書かないの?」と直球の質問を受けて心拍数が急上昇したりもしましたが)。飼い猫のUちゃんは、知らない4人組の来襲にかなり怯えていたものの、最後の方では手を出すと臭いをかいでくれる程度には慣れてくれました。

伯母から伯父が使っていたネクタイを3本頂きました。おしゃれなものばかりで、締めるのが楽しみです。思えば、大学生の頃から、亡くなった伯父にはいろんなことを話しては、励まされてきましたね。お酒を注ぎながら「まあ、おやんなさいよ」とか、「Tちゃんは、露悪趣味があるからなあ。どっちだって構わないんだよ」といって微笑んでいた伯父の表情を今でもありありと思い出します。ダイニングに飾ってあった小さな写真を見ながら、Letter to Danielの最後の方の一節を思い出しました。

・・・foolish though it may seem, hoped that in some way he could hear, across the infinity between the living and the dead(そんなことはあり得ないのは分かりきっているんだけれど、生きている人間と亡くなった人間の間に横たわる絶対的な壁を越えて、何とか声が届かないものかと思った)・・・

写真の中の伯父は、妙なことを考えている甥っ子を見ながら、ちょっと困ったように微笑んでいるようにも見えました。

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記事を書いた人

いぬ

幼少期より日本で過ごす。大学留年、通訳学校進級失敗の後、イギリス逃亡。彼の地で仕事と伴侶を得て帰国。現在、放送通訳者兼映像翻訳者兼大学講師として稼動中。いろんな意味で規格外の2児の父。

END