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「車輪を発明しなおさないためには」

いぬ

通訳・翻訳者リレーブログ

 今年の夏にProject Based Learning(プロジェクトベース学習、PBL)という教授法のセミナーで、通訳を行いました。生徒が自分の興味に従って、特定の分野のリサーチを行ない、それを中学校や高校での学習に代えるというものです。例えば、1920年代のアメリカのファッションについてリサーチを行なうと、それを「美術」「アメリカ史」などの単位として認定するというものです。
 
自分の興味のあることをリサーチするだけあって、学習者の積極的な取り組みとその成果には目覚ましいものがありました。特に学習障害があり、通常の教育では対応が難しかった生徒に対して大きな成果があるようです。

 ただ、それを日本の中学校や高等学校で、今までの教授法の代わりとして導入するにはちょっと難しいのではないかという印象も持ったのです。

 まず、PBLを導入してじっくり取り組むには、時間がかなり不足していると思います。PBLの第一歩として、生徒が興味を持っている分野を教師とじっくりと検討して(この際に、リサーチを何の単位として換算するかも考えるそうです)、リサーチの方法論なども絞り込み(単に資料の引き写しだけではなく、関係者へのインタビューなどが義務付けられているのも秀逸だと思います)、計画を立てて実施し、日報で何をどれだけやったかを報告することになっています。

 何校か導入している学校もあり、その先生からの質問もあったのですが、通訳をしながら感じたのは「前提条件が満たせていないのではないか」ということでした。具体的には、最大の前提条件である、「生徒が興味を持っている分野をリサーチする」ということが十分に出来てないようで、「生徒の動機づけをどうしたら良いのか」という質問が相次いでいました。質疑応答を通訳していると、どうも「見切り発車」的にリサーチをスタートさせてしまう場合が多いようです。PBLは部分的に導入している学校がほとんどなので、そうなると通常の積み上げ型の授業に加えて、大学の「卒論」的なリサーチが入るわけで、本当に調べたいことを絞り込めない限り、これはかなり大変でしょうね。

 それ以外にも、どこかに引っかかるものを感じていたのですが、それが何かをハッキリさせられないままに通訳が終わりました。

 そのしばらく後に「ブートキャンプ」のために京都に赴く機会がありまして、そこでこのモヤモヤが晴れることになります。

 京都は空襲の被害をほとんど受けていないので、築百年ぐらいの建物がゴロゴロ残っています。建物が残っていると文化も残っていますし、文化が残っているということは、長らく培ってきた価値観も残っています。

 茶室でお茶を点てていただいたり、狂言を見た後にワークショップに参加したりという経験が出来たのですが、そういう「伝統」が、きっちり「生活」に根差しているのですね。私も大学時代は筝曲部に所属して尺八を吹いていたのですが、自分のやっていたことが、何というか「観賞用」に思えてくるほど、お茶も狂言も京都の日常の一部でした。

 何というか、ゆるぎない価値観がある。東京がアメリカだとしたら、京都はイギリスというような趣があります。いや、これは物のたとえで、別に東京やアメリカを批判しているわけではないですけれども。

 アメリカがどんなに物質的に成功しようと、イギリスは「うん、まあ、そういう『成功』の定義もありますね」と言いつつお茶を飲んでいるようなところがありまして、京都にもそんなブレのなさがあるなと、京都の街を歩いているときに感じたのです(一方、東京には進取の気性と圧倒的な物量があります。繰り返しになりますが、どちらが良いという話をしているのではありません)。

 学びの質を高めることは確かに大事なのですが、伝統というものを完全に切り離してしまうのは、もったいないと思います。その点、PBLというのは、すべてを自前で賄おう、自力で切り開こうという、アメリカ的な性格が色濃い教授法なのではないかと思います。それにはメリットもデメリットもあるでしょう。

 reinventing the wheelという言葉がありますが、これは「車輪を発明しなおすこと」、つまりすでに完成品があるのを知らず、同じものをわざわざ一から作り出すことを指します。通訳をしていた時に感じた疑問は、これでした。
PBLは、気を付けないとこの罠にはまってしまうのではないでしょうか。もちろん、PBL以外の教授法を一切受け付けなかった生徒にとっては、「車輪の再発明」であっても十分意味のある学びですが、一般的に考えると、車輪を再発明するようなリサーチは、少々時間がもったいないように思うのです。

 それに、指導する教師の力量がかなりないと、reinventing the square wheel(すでに完成品があることを知らず、それよりも質の悪いものをわざわざ一から作り出す)ということにすらなりかねません。

 そんなことを思いながら、いろいろな先生のお知恵を拝借しつつ、日々授業の準備をしております。気づかずに四角い車輪を再発明していないと良いのですが、まあそれも避けて通れないステップかな、と腹をくくりつつあります。

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記事を書いた人

いぬ

幼少期より日本で過ごす。大学留年、通訳学校進級失敗の後、イギリス逃亡。彼の地で仕事と伴侶を得て帰国。現在、放送通訳者兼映像翻訳者兼大学講師として稼動中。いろんな意味で規格外の2児の父。

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