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尺度としての音読と、訓練としての音読

いぬ

通訳・翻訳者リレーブログ

通訳翻訳課程の最後の授業で、山形浩生さんの「新教養主義宣言」を扱った。プロローグのうち数ページをコピーして音読させたのだが、ちゃきちゃきと進むかと思ったら、みんなビックリするぐらい音読がたどたどしい。日本語なんだから、全員にとって母語のはずなのに。正直に言って、うちの小学生の息子の方が、よっぽどうまかった。

これは恐らく、二重経路モデルで言うところの「文字→音」の回路が弱すぎるからなのだろう。そして、それは文字から情報をくみ取る能力や、くみ取った情報を頭の中で処理する能力にも直結しているはずで、そういう意味では学生の知的レベルを計る尺度の1つとして、日本語の音読をさせてみることは非常に有効かもしれない。

その一方、訓練として音読をやれば、知的レベルは上がるのか。これは少々微妙だと思う。

僕は伯父が2人、指圧や鍼治療を教えていた関係で、小さい頃からそういうものに興味があるし、実際ロンドンに住んでいたころはイギリス人が教える指圧学校に通ってもいた。治療を受けるのも好きだ。指圧や鍼治療の理屈は、非常に大雑把に言うと、こういうことだ。

足裏マッサージを考えてもらうと分かり易いと思うが、何か体の不調が出ると、体の特定の箇所(いわゆるツボ)に、硬くなったり、色が変化したりといった、いろいろなサインが出てくる。だから指圧なり鍼なりでその特定の箇所の状況を緩めてやれば、別の場所にある本来調子の悪い部分の状態が改善され、体調が良くなる。こういう考え方が基本になっている。

話がやたら遠まわしになったが、要は、同じことが音読にも言えるかどうか、ということだ。

ある程度は効果があるだろう。だけれども、「音読やってりゃOK。何が何でも音読」というわけでもないと思う。音読の功徳は、運動で言えば基礎体力がキッチリ練成できるということで、その先はやはり個別のスキルトレーニングをする必要があるだろうな。

でも、その基礎体力も出来ていない学生に対しては、かなり有効なトレーニングと見た。これも取り入れてみよう。だれか音読と知的能力の関連性について、研究してくれないかなー。

……いや、「なぜ他人に振るんだ!お前がやれ!」って突っ込みがあろうことは、重々承知しておりますが。

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記事を書いた人

いぬ

幼少期より日本で過ごす。大学留年、通訳学校進級失敗の後、イギリス逃亡。彼の地で仕事と伴侶を得て帰国。現在、放送通訳者兼映像翻訳者兼大学講師として稼動中。いろんな意味で規格外の2児の父。

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