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かつていた場所、今いる場所

いぬ

通訳・翻訳者リレーブログ

大学の推薦入試業務のため、数日間ホテル暮らし。朝、身支度をしながらテレビをつけると、BBCワールドがやっていた。千葉テレビが6時前の時間帯に流しているらしい。かつて足掛け5年、この番組の放送通訳者としてロンドンで働いていた。思わず画面に釘付けになる。

……この通訳者、ひょっとして一緒に働いていたトーマスさん?イギリスの方と結婚した日本人女性で、カジュアル(パートタイム)で来ていらした方だが、とても上手な方だった。時差か?いや、同通だ、これ。うわーっ!すんごく上手い!

クルクルと切り替わる画面を見ながら、「ああ、俺も『こっち側』の人間だったんだよな」と思った。たまに日本に一時帰国すると、BBCワールドを見て「ああ、この声は○○さん、こっちは××さん」などと言っていたものだ。自分は日本に帰っていても、変わらず続いている。そして、そこが自分が帰る場所。そんな意識があった。

でももう、「こっち側」は「あっち側」なのだなあ。BBC日本語部も解散して久しい。基本的に日本で同時通訳で通訳をつけることになったのだ。日本語のクオリティーを重視して、性別も極力あわせ、出来る限りの準備が出来る時差通訳を中心に対応していた、あの日本語部はもうない。今は以前の同僚のごく一部が、細々とごく短いスロットで、ロンドンのテレビジョンセンターから通訳をつけているらしい。

それにしても、上手い通訳だ。俺、何やってんだろう。ちょっと自己嫌悪に陥りつつベッドに座って朝の単語暗記をやる。同時通訳も、いまだにまともに出来ないくせに、通訳の看板は上げ続けているわ、大学で教えちゃうわ、これで良いのだろうか。大学の業務を優先するために、最近はNHKの放送通訳の業務もずいぶん減らしているし、このままでは通訳としても大学の教員としても中途半端になるのではないだろうか。

そんなことを思いながら、ホテルの近所の松屋で朝定食を詰め込みつつ、単語。店員は昨日と同じお兄さんだ。どんなことを考えながら仕事をしているのかなあと思う。

思うに、通訳向きの人と翻訳向きの人がいて、僕は後者なのではないだろうか。しかも、前者が機関銃、後者が狙撃銃だとすると、僕は機関銃ほどの発射速度はなく、さりとて狙撃銃ほど命中精度があるわけでもない。

つらつら考えながらバスに乗り、運転手さんに大学に行くにはどこのバス停で降りたら良いか尋ねる。とても丁寧に教えてくださった。席に座り、単語の例文暗唱を小声でやっていると、小鳥の鳴く声がする。駅前のロータリーにスズメでもいるのだろう。かわいい声だ。

鳥の声に耳を傾けながら、なぜ小鳥の声が心地よく聞こえるのかなと考えてみた。なぜ運転手さんがきちんと仕事をしてくれると気持ちが良いのだろう。なぜ店員さんがきびきび応対してくれると、安心したひと時をすごせるのだろう。

鳥も運転手さんも店員さんも、そしてトーマスさん(?)も、それぞれいろんな事情は抱えているのだと思う。僕と同じように。でも、それぞれが淡々と精一杯生きているのだと思う。そんな人や動物や、いろんなものが集まって、僕が住むこの世界を形成していて、そういう細部がきちんと積み重なって行くことに、やはり細部の一要素である僕は安心と心地よさを感じるんだろう。

ならば僕も、この世界を構成するパズルのピースのひとかけらとして、精一杯、しかも不必要に気負わずにいい意味で淡々と黙々と、仕事をしていこうじゃないか。

そんなことを思いながら、朝日を浴びつつ校舎に入った。廊下でU先生とネイティブのS先生が談笑していらっしゃる。英語でしばらく雑談した後、研究室に急いだ。

これが今の僕の「こっち側」なんだ。今日も一日頑張ろう!

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記事を書いた人

いぬ

幼少期より日本で過ごす。大学留年、通訳学校進級失敗の後、イギリス逃亡。彼の地で仕事と伴侶を得て帰国。現在、放送通訳者兼映像翻訳者兼大学講師として稼動中。いろんな意味で規格外の2児の父。

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