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音と色彩と光と風と薫りに溢れた創作物

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通訳・翻訳者リレーブログ

小説や絵画や写真などに触れるたび、その中にある“音の気配”に、いつも耳傾けてしまいます。とにかく、“音のあるアート”に、強く魅かれるのです。
そこに更に、色彩や光や風や薫りが舞っていると、もう決定的。その作品&それを生み出した表現者に、とことん惚れ込んでしまいます。

振り返れば、10代の頃に読んでいた音楽雑誌。毎月楽しみにしていたのは、好きなバンドを取り上げていたから。それは言うまでもありませんが、と同時に、その文章に、強く魅かれていたから…。
時間の経つのも忘れ、最初から最後まで、夢中で、あっという間に読んでいたものです。

数年後、その記事を書いていた編集部員たちと、取材し原稿を書き、ひとつの雑誌を作るという、信じられないような幸運に恵まれます。
そんな日々の中、彼らの文章が、なぜあれほどまでに、ひとを惹きつけるものだったのか、その“秘密”に気づくことになります。

それは、彼らの文章の中に息づく——“音の気配”。
静だったり動だったり、踊っていたり佇んでいたり。とてもリズミカルで。

そうして彼らの傍らにいながら、その音を奏でる“秘訣”を、わたしなりに少しばかり…ですが、理解するようになるのです。

懐かしいあの編集部……

みんな、とにかく、書くのが早い。
頭の中で構想を練り、書く内容・展開・文体が見えたら、あとはもう、それを一気に文字化するのみ。その勢いこそが、魅力的な文章を書くコツなのだと、納得したものです。
つまり、机に向かっても、言葉が滑らかに出てこない場合、それは、まだ機が熟していない、生み時ではない…ということ。“その時”が来るまで、忍耐強く待つしかないわけです。

それから、もうひとつ……
“難しい内容を簡単に。分かり易い文章をより分かり易く!”
上がった文章を、編集長に見せるたび、そんなことを、幾度言われたことか。そうして原稿を、真っ赤っ赤っ赤っ赤にされ、返されたものです。
“よく書けている”と自負していた時には、“なんだよ、この赤の洪水は!”…と一瞬、反発することもありましたが、でもよくよく読み返し、実際に書き直してみると、“なるほど”と唸ってしまったもの。

そうしてそれは、その後の文字校正時にも、続くのであります。
編集部内を、ゲラが飛び交う段階になってからも、みんな赤入れに熱中。その赤の上に、更に赤を入れる輩も(赤の上塗り)。そばで見守っている(いや、睨んでいる)印刷所担当者の視線など気にせず(目に入らず)、互いの文章を、いじるわ、いじるわ…。

でも、不思議なものです。
こうして第三者の目(…手)が入り、余計なものが、どんどん削ぎ落とされ、磨かれていく内に、その文章はみるみる、よくなっていく。そうして、シンプルで分かり易い記事に仕上がる。

そうして、そこに、“音”が舞い始めるのです。

どんなに立派な丸太でも、どんどん掘り出し、新たなる命を吹き込み、自分の声や想いを体現したものを、その中に見出さない限り、丸太は生かされず、ひとのこころに響く彫刻作品は、誕生しない。それと同じ。

編集部を離れ、フリーになってからは、目の前で文章をいじって貰う機会は、残念ながらなくなりました。
その代わり、いったん完成された原稿を、少なくともひと晩は、寝かせるようにしています(ただし、あまりに離れ過ぎてしまうと、想いが途切れてしまうこともあり。その辺のところは要注意…)。
スケジュールの都合上、その時間が取れない場合には、せめて1時間だけでも、近くをフラフラしたり、横になって読書したり、風呂に入ったりしながら、いったんパソコン前から離れます。しばらくの間、別の原稿に取り組む時もあり。
そうやってその文章を、いったん冷ませます。そうした後に、再び向かい合うのです。
そうすると、完璧だと思っていたものでも、驚くほど、アラがどんどん見えてくる。だからまた削ぎ落とし、削ぎ落とし、書き直す。細部にまだ、神経のいき届いた文章は、それだけ立ってくる。

そうして…
音色が、どんどんはっきりしてくるのです。

それはちょうど、ワインのよう。
時間をかけ、大事に育てていくと、熟成し味に深みが増します。“このくらいでいいか”と、ある時点で妥協し、手放してしまうと、それはまるでボジョレー・ヌーボー。
あれも確かに美味だけれど。若々しく勢いがあって元気で。でもそこに流れている、音や色彩や光や風や薫りは、浅く平べったく単純で荒削り。心もとなく、物足りない。
だから惹き込まれる前に、興味を失ってしまう…と思う。

さて……
この音と、それから色彩と光と風と薫り。それが強く感じられる、芸術作品といったら——

小説なら、村上春樹氏。その文字上を、さまざまな音符が踊っている。具体的に言うと、ジャズが聴こえてくることが多い。
対極にある(と言ってもいい)のは、村上龍氏。氏の作品は、非常にラディカルでパンキッシュ。
伊集院静氏の小説には、その舞台が何処であれ、静かなクラシックが流れている。こころ落ち着く。
小池真理子さんも。高尚なクラシック。それも動だったり静だったり、甘かったり辛かったり。こちらが強くなければ、受け止めきれない場合も。

写真なら、抒情的な作風で知られる、吉村和敏氏。
注目するようになったのは、氏がカナダ(私の第二の故郷)の風景を数多く切り取っており、その作品たちが、彼の国に対する温かな想いに、満ち溢れていたから。
でも、それよりも何よりも、その作品中を舞う、あの音と色彩と光と風と薫り。それはもう、溜息が出るばかり。ものすごく透明感があって、美しくて…。
それまで目にしてきた写真は、わたしにとり、“目の前のモノを写した過去の記録”…でしかなく。小説や絵画などの表現物と同じ空気感、深い芸術性をもつ、氏の作品との出会いは、本当に衝撃的なものでした。

たぶんそれは(これはわたしの想像でしかないのですが)、五感を研ぎ澄ませ、欲するもの(…獲物)を探し求め、全神経を集中させ、その被写体と真摯に向かい合い、そうしてその瞬間を、永遠のものにしているから。
ある種の焦りや飢餓感。無の境地。その結晶…。数々の経験を積んだ者にしか、捉えることのできない、音や色彩や光や風や薫り。

そうしてそれは、氏の綴る文章の中にも、同じように流れている。とても音的で詩的で、色とりどりの音符に溢れていて…。

そう……
音や色彩や光に溢れた写真を撮る写真家

、音や色彩や光に溢れた文章を書く。
同様に、才能に恵まれた音楽家は、音的な文章を書くし、音に溢れた文章を書く小説家は、音楽の才能も抜きん出ているもの。
視覚と聴覚、美的感覚、感性は、確実に繋がっている…のだと感じます。

つまり芸術家は、その表現手段を変えても、各々の感性は、その中に必ず投影される。そこには共通の、音や色彩や光や風や薫りが、必ず流れている。

だから例えば、モディリアーニ、マティス、シャガール、クリムト。色の魔術師。音が舞い、光が差し込み、風が吹き、薫り漂う作品たちを、数多く世に送り出している、大好きな画家たち。
その詩や文が現存するのなら、読んでみたい。あるいは、彼らの撮った写真(そう言えば、モディリアーニの彫刻も、その絵画と同じ風吹く、非常に魅力的なものですし)。
彼らのあの感性、あの色感をもってすれば、文章でも写真でも、きっと、間違いなく、素敵。

それにしても、この気配たち。なかなかに気紛れで、気難しい。
表現者がその想いに背き、諦めや打算を胸に、作品と向かい合っていると、まるで立たない。そこにウソがあると、なにも漂わない。
苦し紛れに、無理に搾り出した創作物は(もちろん、そういう作品は存在するし、アリだとは思うけれど…)、ひとのこころに響くような音色を、奏でてはくれない。
また、情報が詰まり過ぎているアート、理屈っぽく主張ばかりの作品からも、溢れてはこない。たとえ感じられたとしても、それは濁っていたり、ひとつどころに停滞していたりと、魅力的なものとはほど遠く。

“余白”のある作品でなければ、多くは感じられない。

そうして、
作品に解説など加えず、受け手の想像力にすべて委ねてくれる、どころか、その反応を、密かに楽しんでいるような、そんな送り手、そういうアーティストに、わたしは強く魅かれる。

この音や色彩や光や風や薫り、その気配は、あるいはもしかして、芸術作品に限らず、我々の生活を支える、ありとあらゆるものの根底に流れる、もっとも原始的なもの。我々の生活の中に溶け込んでいて、だから、特別意識することはなく。でもひとにとり、それこそは、もっとも大切なもの…だったりするのでは…。

…と、これは、芸術や芸術家を愛してやまない人間の、突飛で勝手な発想…か……(・_・;)

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記事を書いた人

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高校までをカナダと南米で過ごす。現在は、言葉を使いながら音楽や芸術家の魅力を世に広める作業に従事。好物:旅、瞑想、東野圭吾、Jデップ、メインクーン、チェリー・パイ+バニラ・アイス。

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