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食に目覚める

まめの木

通訳・翻訳者リレーブログ

子供の頃から食べることが嫌いだった。食べる、という行為に割かれる時間がもったいないと思うのである。食事中に『私の代わりに食べてくれて、それが私の栄養になるロボットないかなぁ〜』と言ったら、父親に黙って襟首をつかまれ、玄関の外に放り出された。今から思えば『父よ、ブラボー!』というべき当然のお仕置きで、こんな罰当たりな発言、よくできたもんだと思うが、私にとって食事とは、楽しみよりも生命維持としてのウェイトの方が今でも大きい。よく、人生最後の日には何が食べたいか、という質問があるが、本当にその日が人生最後の日なら、食べる間を好きな音楽を聞きながら好きな本を読む時間に充てたい。また、ボロボロに疲れたときに食べるのと寝るのと、どちらをとるかと聞かれたら、迷わず“寝る”方を選ぶ。決して、美味しいものが嫌いなわけではないのだが、衣食住の中でどうしても “食”を軽んじる傾向があった。
しかし、その“食”にも多大な影響力があることを先日学んだ。ドイツ人シェフとのお仕事で、毎日、食文化や料理哲学について聞いているうちに、食事とは、ただ単に空腹を満たすだけではない、と今さらながら目から鱗が落ちる思いがした。美味しい料理には人生を変える力がある、というシェフの言葉は、その後の料理実演で見事に再現され、実演に居合わせたスタッフ、記者は、私も含め、まるで芸術家の創作活動さながらの迫力に、皆、仕事を忘れて熱狂した。黙々と作業を続けるシェフの一挙一動を興奮しながらメモに取っていく。試食後、涙まで流す人もいた。私も少し頂いたが、細胞一つ一つに染み渡る味だった。インタビューで『中毒になる味を生み出すのが使命』と言っていたシェフだが、彼の料理を食べてみるとまさに百聞は一見にしかず、である。
『レシピはないのですか?』という記者の質問に、
『あるよ、でも、僕の料理のスパイスは“愛”だから、いくらちゃんとした分量でレシピ通りに作っても、僕の料理は再現できないよ。』とシェフ。例えば『塩・胡椒少々』というところが愛のかけどころなんだそうだ。うちに帰って、実演の時に教わったとおりにこっそり作ってみたけれど、やっぱりシェフの味とは何かが違う。当たり前だが…。
今まで、一瞬で食べ終わってしまう食事に時間と頭脳を割くのが嫌で嫌でたまらなかったのだが(年末恒例の栗きんとんと黒豆は別ですが…)、シェフのお陰で少し料理が楽しくなった。あれとあれを合わせたら美味しいかな、あのハーブを使ってソースを作ったらこの魚に合うかも…等、考えるのはとても楽しい。シェフのお料理は、食を軽んじていた私にも少なからず影響を与えたのだ。
とはいえ、よく考えてみると、ハードな仕事が続いた後や、籠城翻訳でおにぎりしか食べなかった後には、思いっきりおしゃれして美味しいレストランに繰り出したくなる。体は頭よりも正直なんだろう。
最後にシェフの言葉をもう一つ。
『絵画や音楽と違って、料理は胃に入る芸術だから、即効性があるんだよ。』
まさに、納得、である。

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記事を書いた人

まめの木

ドイツ留学後、紆余曲折を経て通翻訳者に。仕事はエンターテインメント・芸術分野から自動車・機械系までと幅広い。色々なものになりたかった、という幼少期の夢を通訳者という仕事を通じてひそかに果たしている。取柄は元気と笑顔。

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