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容姿の問題

まめの木

通訳・翻訳者リレーブログ

小さい頃から、人に見られるのが、人前でしゃべるのが、いやでいやでたまらなかった。
幼稚園の頃のおゆうぎ会は恥ずかしくて地獄のようだったし、小学校で国語の教科書を音読させられるに至っては、まさしく拷問だった。
私はきっと醜いから、人様にこの姿をさらすのは公害である、とかたく信じ込んでいた。
いわゆる“容姿コンプレックス”というヤツである。
小学生の子供がここまで意識するのは、ほとんど病気といってもいいかもしれない。

そんな私が現在何故、通訳という声・姿ともかなり露出度の高い職業に就いているのか?

ドイツに留学したばかりの頃、講義には何とかついて行けたものの、ゼミは本当に苦しかった。
ドイツ語で自分の意見を言うことがほとんどできなかったのもあるが、何よりも、ドイツ人学生の持っている、理不尽であろうと背景的な根拠が取れていなかろうと、言いたい事があればそれが偏見であれ、無知をさらけ出す行為であれ、相手がギャフンというまでどうどうと早口でまくし立てる、あの迫力に圧倒され、そこに“容姿コンプレックス”も追い討ちをかけ、いつもわけのわからない微笑みをたたえて教室の隅の席で黙っていたのである。
そんなある日、ゼミの先生が私に向かってやさしく言ってくれた。
『あなたは意見がないのですか、それともドイツ語ができないのですか?グーテン・ターク以外のドイツ語を少しでも知っているのであれば、“あー”でも“うー”でも何か発言しなさい。』
これがきっかけとなり、少しずつだが、過敏に恥ずかしがる必要はないんだ、ということを学び始めた。この時、19歳。

第二のきっかけは、友達がバレエ教室に誘ってくれたことである。
大学でアレクサンダーテクニックという、簡単にいえば姿勢や動きの習慣を改善する身体トレーニングの講座があった。受講生は皆の前で歩いたり座ったりして、一人ずつコーチに矯正してもらうのだ。東洋人の受講生は私だけで、西洋人の、しかも年頃の美しい女の子の前で歩くなんて、当時の私にしてはとんでもないことだった。当然、姿勢もうつむき加減になり、順番が私に回ってくるとスムーズに進まず、先生も少々閉口気味だったのを覚えている。
講座の後、その友達曰く、
『人に見られるのがそんなにいやで、姿勢や態度に影響していると自分で思うのなら、いっそバレエ教室に一緒に通いましょうよ!』
さすが分析好きのドイツ人。なんたるショック療法!
大きな鏡を前にして、自他共に自身のレオタード姿をさらすことを強要されるのが、バレエである。
ここまでくると、自分は醜いの、コンプレックスがあるの、などと言っていられない。
おまけに先生はロシア・ワガノワアカデミー仕込みで、入門者のクラスであるにもかかわらず、まったく妥協してくれない。
『醜い、と思うんだったら、美しく見える顔の角度、腕の上げ方、足の運び方を家で研究してらっしゃい!!!』
怒鳴られ、ののしられ練習しているうちに、だんだんポーズもきまってくるようになってきた。
それを自分で観察しているうちに、私の中で眠っていた“ディーバ気質”が目覚めてきた。
手を優雅に動かせるようになったところを、足がまっすぐ出せるようになったところを、みんなに見て欲しくてたまらなくなってしまったのである。
かくして、“容姿コンプレックス”は強制的に矯正されることとなった。
この時、22歳。

こんな歴史がありながら、今ではすっかり人に見られるのを快感と感じられるようにまで回復している。
これも一種の病気か???

容姿は大事だ、と思う。
なぜなら、容姿には内面が反映されるばかりでなく、大げさかもしれないが、その人の生き方も現れるからである。
ここでいう“容姿”とは、生まれ持った顔の造りや姿かたちのことではない。
内面の輝いている人は美しい。
そんな人を街で見かけたり、知り合ったりすると、こちらもエネルギーをもらえる気がしてしまう。
自分もかくありたし、と思う。

最後に通訳者の友達との笑い話。
『私ずっと、容姿コンプレックスがあったんですよ〜』
『えっ?ヨウシって、“adopted”のヨウシ?!』
『いえ、姿かたちのヨウシです…』

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記事を書いた人

まめの木

ドイツ留学後、紆余曲折を経て通翻訳者に。仕事はエンターテインメント・芸術分野から自動車・機械系までと幅広い。色々なものになりたかった、という幼少期の夢を通訳者という仕事を通じてひそかに果たしている。取柄は元気と笑顔。

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