INTERPRETATION

第410回 キャンセルの勇気

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

私はメールやこのブログを書く際、「メモ帳」という機能を使っています。そのまま書き込んでも良いのですが、以前、フリーメールソフトでそのまま執筆していたところ、突然フリーズするという苦い経験があります。以来、いったんメモ帳で書いてからコピー&ペーストをしているのですね。手間はかかりますが、フリーズしてそれまで書いたものがすべて無駄になるぐらいなら、手間をかけた方が良いと考えています。

メモ帳機能では、右上の「X」マークを押すと、「保存する」「保存しない」「キャンセル」という文言が出てきます。キャンセルという言葉は英語でcancelと書き、元はラテン語のcancellareから来ています。「線を引いて消す」という意味です。以来、「作業を取りやめる」「埋め合わせる」「無効にする」などの意味を有するようになりました。

さて、今日はその「キャンセル」に関するお話です。

イギリスに暮らしていたころから私はスコーンが大好きで、日本でもおいしいスコーンを探すことがよくあります。アフタヌーン・ティーのセットは一流ホテルや高級カフェで頂くことができます。よって、そう頻繁にというわけにはいきませんが、それでも無性にあの3段重ねのプレートを味わいたくなることがあります。今年の夏休み直前も、まさにそのような気持ちが高まったのでした。

「そう言えば信州のとある庭園はイギリス式だったはず。そこでアフタヌーン・ティーは味わえるかしら?」と調べたところ、併設のカフェで提供されていることを知りました。

早速「日帰り旅行計画」に着手です。手帳を見ると、平日で空いている日がありました。早朝に自宅を出て電車を乗り継いで行けば余裕で夕方には帰宅できそうです。幸い、鉄道会社が入場券付きの特急券を販売していたため、迷わず購入しました。

ちなみに私は翻訳原稿を担当しています。毎週木曜日深夜に英文が届き、翌日午後が締め切りです。今回の日帰り旅行日もその日に該当します。ただ、うんと早くに起きてその作業をして原稿を先方へ送ってしまえば旅行には行けます。切符を購入する時点ではこのように考えていたのです。

ところが旅行日が近づくにつれて、何となく気乗りしなくなってきました。確かに庭園は見たいですし、念願のスコーンにありつけるチャンスでもあります。けれども猛暑の疲れが出ていたこともあり、「わざわざ夜中に早起きして執筆をして、早朝の電車を乗り継いでいくのは意外と辛いかも」と思い始めてしまったのです。

「うーん、残念だけれど、やはり今回はとりやめよう」

そう思ったのは、なんと旅行の前日でした。

旅行約款を読むと、前日に中止した場合、キャンセル料は40%です。もったいなあとは思いました。けれどもそこまで自分の体力を押して出かけたところで、本当に楽しめるだろうかと考えたのです。痛い出費ではありますが、私は旅行前日の夕方に最寄り駅まで行き、キャンセルの申し出をして手続きを進めたのでした。

本来であれば旅行日の当日。キャンセルをした安心感もあったのでしょう。いつもよりも遅い時間まで寝ていました。疲れがたまっていたのかもしれません。なおのこと、勇気をもってキャンセルして良かったと思いました。

この件から学んだこと。

それは、たとえ金銭的に痛手を被るとしても、あるいは場合によっては周囲からひんしゅくを買いそうであったとしても、自分の直感や体力・気力などは大切にした方が良いということです。もちろん、最初から自分のスタミナとスケジュールを冷静に見た上で、そもそも慎重に行動をとることが大事なのは言うまでもありません。

今回はキャンセルをしたことで、金銭は失いましたが、心身の充実は図れたように思います。そして何よりも、心から好きな連載執筆に集中できました。キャンセルをするのも勇気なのだと感じています。

(2019年9月3日)

【今週の一冊】

「地図マニア空想の旅」今尾恵介著、集英社インターナショナル、2016年

私はたまに衝動的に「片付け」をすることがあります。今年1月もまさにそのような時期でした。片付けや断捨離関連の本やサイト、動画に触れたのがきっかけです。そのときの私はロンドンに10日ほど滞在中。ステイ先のホテルで「帰国したらあの部屋はこうして片付けよう」「クロゼットのあれとあれは処分しよう」という具合に、シミュレーションしたほどでした。

そして帰国後。

大量に入っていた書棚の本も断捨離しました。「ここ数年間一度も手に取っていないもの」をメインに、ポンポンと棚から引き出しては、古書店行きボックスへ。その中に含まれていたのが「地図帳」でした。

私は子どもの頃から地図が大好きです。書棚には、地図帳や一枚刷りのマップなどが所狭しと並べられていました。通訳という仕事柄、他の本も色々とあります。片付けブームに陥ったときの私は、「地図は新しいものを買えばよいのだし、ネットでも見られるし」と考えていました。そこで深く考えずに処分したのです。

そのことを大いに後悔したのは最近になってからです。もともと自分は地図をこよなく愛していたにも関わらず、なぜ捨ててしまったのだろう?出版年の古い地図ほど、そこに描かれている情報はかけがえのないものなのに、どうして処分してしまったのか。そう考えると心が痛みます。

なぜ古い地図は貴重なのか。そのことに気づかされるのが今回ご紹介する一冊です。著者の今尾恵介氏は地図研究家。本書では古地図をもとにタイムスリップしながら、今ある場所を紹介するという構成になっています。

たとえば私が仕事でよく通る赤坂アークヒルズ界隈。このあたりは昔、湿地や小川があり、畑がありました。明治16年の地図を読み解くと、六本木通りなどは兆しすらありません。今でこそ「溜池山王」という駅はありますが、ここはかつて「赤坂溜池町」でした。昔からある地名があっさりと葬り去られてしまった事実を著者は「まさに記念すべき負の遺産の地」と表しています。私も同感です。

ただ、地名に関してせめてもの救いは、旧地名がその地域のビルやマンション名に残されていることだそうです。一例として今尾氏が挙げているのが都立日比谷高校隣の「星稜会館」と「星が岡会館」です。江戸時代にこの辺りは「星ノ山」、明治時代は「星ヶ岡」という地名だったそうです。

本書は日本国内だけでなく、海外もたくさん紹介されています。時代と空間を越えて味わうバーチャルな旅。ネット動画で何でもあっさりと視覚的満足を得られる今だからこそ、著者ならではの楽しい文章で旅を空想しつつ味わうのも、また格別です。

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柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

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