INTERPRETATION

第237回 心を寄せるということ

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

パリでのテロ事件から1週間以上が経ちました。AFNラジオで毎時中継されるAP Network Newsでもほかのニュースが増えつつあります。大きな事件が起きるとしばらくはその話題が続きますが、時間と共に少しずつ少しずつ日常生活に戻ろうとしていくのが感じられます。

私は幼少期、父の仕事でイギリスに暮らしていましたが、その頃から「武装組織による攻撃」を身近に感じていました。当時のイギリスはIRAによる無差別襲撃事件があったのです。当時の国鉄や地下鉄に乗ると、車内の目立つところに不審物への対処方法が掲示されていました。「不審物を見つけたら触らず、すぐに職員へ通報するように」という文字が書かれていたのです。確か英文はDON’T TOUCH ITと大文字の太字だったと記憶しています。禁止行為を呼びかける場合、英文が命令調であることもその時知りました。ちなみに日本の駅ホームに書かれている注意事項はどれもPleaseから始まります。本当に禁止したいのであれば、命令文の方が良いのではと個人的には思います。

大学院に留学した1990年代もそうした爆発物への警戒が盛んに呼びかけられていました。誰かがちょっと荷物を置いてその場を離れただけでも警報が鳴り響くことも頻繁にあったのです。そのたびに電車から降り、ホームから離れて安全な場所に避難ということもありました。たとえ安全が確認されてもなかなか電車に戻れず、地下鉄の入口には人だかりということもしょっちゅうでした。イギリス人は慣れっこなのか、不満を言う人もいません。「ま、待てばそのうち何とかなる」というスタンスでした。

私は今までの人生で2度、テロに巻き込まれずに済んだことがあります。一つ目は地下鉄サリン事件です。当時私は翻訳の仕事で霞が関近辺の事務所で働いていました。事件の数日前のこと。スポーツクラブのスタジオレッスンでけがをし、足首にひびが入ってしまったのです。そのため、あえて朝早い電車に乗り、座って通勤していたのでした。いつもの電車であれば、霞が関で巻き込まれていたかもしれなかったのです。

もう一つはロンドンでBBCに勤めていたときです。本社の正面玄関前に止められた不審車が爆発し、全面ガラス張りの玄関が吹き飛びました。いつも出社・退社時に使っていた玄関です。当時のBBC日本語部は夜シフトもあったのですが、たまたま私はその日非番でした。朝、家で寝ていると、日本の友人たちから電話がかかってきて、そこで初めて事件のことを知ったのでした。ちなみに余談ですが、当時の私は産休に入る直前で、「うーん、イギリスのことだからこのガラス玄関が修理されるのは産休明けかもねえ」と冗談で言っていたのですね。半年後に復帰した時も、やはり割れたガラスの上はべニア板のままだったのでした!

自分がこうした事件を身近に感じたり、あるいは今回のパリ事件のように報道でたくさん目にしたりすると、なぜ今自分はここでこうして元気に生きているのだろうと感じます。自分の意思で生きているというよりは、何百何千という偶然の積み重ねで生かされているとしか思えません。生きる恩恵を与えられている者の義務は何なのかと感じます。

すぐに答えが出るものではありません。もしかしたら一生その「正解」は手に入らないのかもしれません。けれども、目の前の事実をしっかりと見つめ、相手の立場になり、心を寄せることが答えに向かう第一歩のように感じています。

(2015年11月23日)

【今週の一冊】

「ウーマン・オブ・ビジョン ナショナルジオグラフィックの女性写真家」ナショナルジオグラフィック編 日経ナショナルジオグラフィック社、2014年

最近はスマートフォンやiPadの性能が上がったこともあり、誰もが手軽に写真や動画を撮影する時代になりましたね。私はどちらも持っておらず、いまだにデジタルカメラを使っていますが、個人的には「肉眼でしっかり見ておき記憶したいタイプ」なので、撮影よりもついつい見入ってしまう方です。子どもたちが小さいころはいろいろなイベントを写真に収めたのですが、年々写真そのものの数が増えてしまい、管理が追い付かなくなったのも「撮るよりも見る派」になった理由です。

一方、新聞の写真やテレビニュースに映し出される動画などはじっくりと分析するのが好きですね。写真であれば背景に映し出されている情報から何かを読み取りたいと思いますし、動画の場合、日本と海外ニュースの違いなどに注目します。たとえばニュースキャスターがインタビューをする際、ミニスカートで足を組むなどは欧米でよく見られる光景です。日本ではありえませんよね。

今回ご紹介する写真集はナショナルジオグラフィックに写真を提供している女性写真家たちの作品を集めたものです。本書を読むきっかけとなったのが、リンジー・アダリオさんのインタビューをCNNで通訳したことでした。

アダリオさんは戦場カメラマンで、アフガニスタンやリビア、ソマリアなどの紛争地で撮影をしてきています。特に焦点を当てているのが声なき人々の声、つまりなかなかニュースなどでは取り上げられない弱い立場にいる女性や子供たちの姿です。アダリオさん自身、リビアのカダフィ政権兵士らに誘拐された経験もあります。

「CNNトゥデイ」のインタビューで映し出された一枚は非常に衝撃的でした。アフガニスタンで撮影したもので、荒野の中に全身青いベールに身を包んだ女性二人が立っています。一人は母親、もう一人は身重の娘で、出産間近です。産気づいて夫の車に乗り込んだものの、車が故障してしまったのです。戒律が厳しい現地では女性が運転することはできず、夫が車を修理しようとしてその場を離れた際、アダリオさん取材陣の車が通りかかったのでした。

本書をめくってみると、少数民族や病、差別されている者など、女性写真家たちが様々なテーマで人生を切り取り、カメラに収めていることがわかります。日本に暮らす私たちはふだん見慣れた風景の中でしか生きていませんが、この本の写真一枚一枚をじっくりと見てみると、世界の広さ、不条理、恩恵、人の運不運といったことばが頭の中に浮かんできます。

「持てる立場」にいる私たち一人一人が何かを感じ取ること。それがこの写真集のメッセージだと私は解釈しています。

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柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

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