INTERPRETATION

第690回 「慣れ」に尽きる

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

通訳デビューして間もない頃。とある技術案件を頂きました。まだ仕事依頼が少ない時期でしたので、「これはチャンス!」と速攻でお受けすることに。ところが日程が近づくにつれて、言いようのない不安感に襲われたのです。続々と届く資料、想像以上の難易度。「やはり私には無理!コーディネーターが私の通訳力を過大評価したのでは?」との思いに苛まれました。そしてとうとう業務前日の真夜中。「やっぱり私には無理です。お引き受けできません」と伝えるべく、エージェントに電話をしたのでした。

当時はまだ携帯もメールも普及していない時代。乾いた呼び出し音が固定電話の受話器から聞こえてくるだけで、ハイ、誰も会社にはいらっしゃいません。仕方なく私は翌日、指定場所へ向かい、通訳に臨んだのでした。幸い私が想像していたよりも訳しやすく、何とかその日を終えられたのでした。

もしあの日、業務を断っていたら、しかもドタキャンをしていたら、私はこの業界で続けることはできなかったでしょう。無責任すぎるとのレッテルが貼られていたはずです。そのとき私が得た教訓。それは、「お受けした以上、最善を尽くして準備する。後は自分を信じて当日は全力で臨む」というものでした。日産自動車・ゴーン元CEO専属通訳者の森本由紀さんも、同様のことを動画の中で語っておられます:

https://youtu.be/fdMaIErxbG4?si=G5HIwZUtsK5QAgha

長年この仕事を続けてきて思うのは、「慣れこそが最大の解決策」ということ。数をこなせば効率的な通訳準備もわかってきます。かつての私は人前で話すなどもってのほかで大学時代もプレゼンから逃げていましたが、今はお客様の前に立つ仕事をしています。慣れるまではもちろん緊張します。うまくいかない日も数知れず。でも、こと、仕事としてお受けした以上、やるしかありません。試行錯誤するのも勇気。失敗するのも勇気。そこから教訓を得て、次につなげていければ良いのです。

最近私は何か新しい習慣を導入する際、以下を取り入れています:

1 タイマーで測ってみる

2 記録する

3 改善点を考える

たとえば日常生活の例で挙げると、「自家製野菜キットづくり」があります。料理研究家・村上祥子さんが唱えたもので、「野菜とタンパク質素材(肉や魚など)をカットしてジッパー付き保存袋に入れて冷凍する」というもの。一気に数袋作って冷凍しておけば、食べる都度解凍するだけで済みます。煮物・炒め物など簡単にできるのですね。

私はこの仕組みを初めて取り入れた際、作業のスタートから完成までの時間をタイマーで測りました。「包丁・まな板を出す→野菜を洗ってカットしてバランスよく袋に詰める→冷凍庫に入れる」という一連の作業を計測したのです。結果、かかった時間は合計30分でした。これをノートに記録し、次回同様の作業をするならどこを改善できるのか考えたのです。この日の問題点は、「カットした食材ごとにそれぞれお皿に載せた→1種類ずつ順番に取り、袋に入れたこと」が手間となりました。そこで「次回は大きなボウルに食材をどんどん入れる→最後に両手でざっくり混ぜる→袋詰め」と考えました。そして次回、その通りに実施したところ、完成時間が大幅に減ったのです。

何事も最初から正解や完璧を求めてしまうと、二の足を踏みたくなります。大前提を、「慣れていないのだから失敗はOK!そこから改善しよう」と思えれば良いのです。

とにかく「慣れ」に尽きるのですね。

そういえば昔、暮らしていた私の家は線路沿いにありました。引っ越し当初は電車の音で眠れませんでしたが、やがて慣れて何とも思わなくなりました。これも「慣れ」なのですよね。もっとも、通訳業務の場合、慣れてダレてしまってはいけませんが。

(2025年7月15日)

【今週の一冊】

「動物と自然に感動する地図帖 地球も生物もすごい!と驚く100テーマ」マイク・ヒギンズ編著、藤井留美訳、日経ナショナルジオグラフィック、2024年

子どものころから地図を見るのが大好きで、留学中はアンティーク店を覗いては古地図に見入ったことがありました。一方、旅先の観光マップやフリーペーパーに掲載されている地図にも興味があります。この夏休みには都内にある地図カフェなる場所も訪ねたいと思うほど、地図に魅了されています。

今回ご紹介する一冊は、イギリスのジャーナリストが編纂した地図あれこれ。テーマ別に地図を掲載しており、思わぬトピックに「おお!そんな視点で世界をとらえるとは!!」と驚くことしきりです。

たとえば26ページに掲載の「海が見えない国」というテーマ。内陸国が世界地図上で色分けされています。実はこの内陸国という区分、世界情勢を知る上で地政学的にも重要なのですよね。アジアであればモンゴル、ラオス、ブータンやネパールなどが海なし国です。一方50ページに出ているダイヤモンド主要生産地。アフリカ大陸に多いのは知っていましたが、実はカナダもダイヤモンド生産国というのは初耳でした。

私にとっての最大ヒットは「地球を一直線に横断する」というテーマ(p78)。アフリカの「リベリア西部を出発し、北東からやや東寄りにまっすぐ歩けば、1万3500km離れた中国東岸に到着する(理論的には)」と書かれていました。定規で引いたようなまっすぐな線が地図上に記されています。

にしても、もし本当にこの1万キロ強を歩いた場合、どれぐらいかかるのでしょう?気が遠くなりそうです。経由地が平和であれば、物理的には可能なのかもしれませんよね。

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記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者、獨協大学および通訳スクール講師。上智大学卒業。ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2024年米大統領選では大統領討論会、トランプ氏勝利宣言、ハリス氏敗北宣言、トランプ大統領就任式などの同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラム執筆にも従事。

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