INTERPRETATION

第290回 今年のキーワード

柴原早苗

通訳者のひよこたちへ

2017年が始まり早や10日ほどが経ちました。いつも本コラムをお読みくださりありがとうございます。今年もみなさまにとって幸多き一年となりますようお祈り申し上げます。

さて、みなさんは2017年の目標は立てましたか?私は今年、自分へのキーワードとして「待つ」を掲げました。スピードを良しとする今の時代になぜこのことばを選んだか、今回はその背景からご説明しましょう。

通訳の仕事を始めてずいぶん年月が経ちましたが、私はこの業務を通じてたくさんの恩恵を得ることができました。未知の分野を知ることで自分の関心領域が広がったのが一点。ことばの面白さに目覚めて、目の前のものすべてが学びの対象になったのも私にとっては喜びでした。同時通訳という、コンマ何秒の速い世界に身を置く分、「一粒で二度おいしい」ような、そんな人生だと感じています。楽しみが2倍になったように感じでいるのです。

けれども速いペースがゆえに見失ってきたものもありました。あまりのスピードに自分自身が「大切なものを見落としてきた」と自覚すらしていないのかもしれません。とにかく「結論ファースト」「最短の時間で最大の生産性」をあらゆることに見出すような体質になってしまったのも事実です。

その一例として挙げられるのが、子どもたちから悩みを相談されたときです。私の頭の中では「こうしたらああなる。だからその対策にはあれをやってこれをして・・・」という具合に、急速度で即時回答を出したくなってしまうのですね。子どもたちに対して良かれと思って、ついつい結論を口にしてしまったのです。

けれども本人たちにしてみれば、単に愚痴を聞いてもらいたかっただけということもあります。のんびりとお茶でも一緒に飲みながら本人の語りに耳を傾ける。それだけのことを親に期待していたのかもしれません。それなのに「速く解決法を提示すること=良し」というせっかちな図式が私の中には無意識に出来上がっていたのでしょう。あるいは、早く解決策を述べることで愚痴タイムを切り上げ、私は私で自分の勉強をしたいと内心思っていたのかもしれません。

今の時代、英語学習やダイエットを始めあらゆることが「数値化」される時代です。資格試験の点数や目標体重などがすべてゼロから9までの数字で表され、私たちは即時提示された数に一喜一憂しがちです。巷には目標達成のための自己啓発本がベストセラーとなっています。大きな夢を抱くことは大切ですが、人間というのは過去でも未来でもなく、今この瞬間しか生きられないのです。先のことを憂えたり、過ぎ去った負の出来事に心を支配されたりしても、生きることができるのは「今」だけなのです。

だからこそ私は物事に対して「待つ」ことも大切だと感じるようになりました。最短の時間で最大の効果を狙うのでもなく、最小限の努力で最大の生産性を求めるのでもなく、じっと待つこと。それは現状を受け入れることであり、相手の存在を認めることであり、自分の中に沸き起こるあらゆる感情をありのまま受け止めることになります。待つことにより、「今」そのものが充実してくると私は感じているのです。

世の中はデジタル化が進み、本当に便利になりました。けれども私たちはコンピュータの処理速度並の速さをすべてに求めすぎてはいないでしょうか?本来の技術革新というのは、私たちができないことをやってくれることを意味し、私たち自身がその技術と同じ速度を求める必要性はないと私は考えます。産業革命期に人が機械の速度と同じスピードで作業しようなどと思わなかったのと同じです。

「時」は二度とやってきません。それなのに人生そのものに即時効果を求めがちになるから辛くなるのだと思います。ゆえに私は今年「待つ」ということばを意識しながら一年を大切に過ごしたいと考えています。

(2017年1月10日)

【今週の一冊】

「世界の文豪の家」 阿部公彦他編、エクスナレッジ、2016年

2017年の第一冊目を飾るのは「世界の文豪の家」。本書を手に取ると、真っ赤なインテリアが輝くサロンのカラー写真が目に飛び込んできます。この部屋の主はヴィクトル・ユゴー。言わずと知れた19世紀のフランスの文豪です。ユゴーは数々の名作を残していますが、生前は妻との不仲、50年にもわたる女優との愛人関係、長女夫妻の事故死などに直面しました。政権側と対立し、亡命生活を送ったこともあるそうです。

本書は世界の文豪がどのような家に住み、当時を生きたかが写真と文章で説明されています。マーク・トウェイン、モンゴメリ、マーガレット・ミッチェル、ワーズワース、ディケンズ、ゲーテ、ヘッセなどの著名作家は日本でもおなじみです。一方、日頃あまり目にしない北欧のラーゲルレーヴやブリクセンなども登場します。

写真を眺めていると当時の流行や人々のモノへのとらえ方がわかるような気がします。居住空間は比較的ゆったりしており、庭は美しく手入れされ、家具調度品も立派です。日常生活そのものはたとえ質素でも、一生に及ぶ「暮らし」自体を大切にする時代だったのでしょう。即物的とは対極にある人びとの生き方が感じられます。

中でも私の目に留まったのはヘミングウェイとゲーテ。両者とも立ち机で執筆していたそうです。私も自宅ではしばらく立って仕事をしていたのですが、その後やめてしまいました。けれどもまた肩こりが酷くなったこと、何時間も座り通しになりがちであることなどをふまえ、再び立ち机に魅了されていたところです。

今年も仕事環境を改善しながら、生産性を目指して一つ一つの仕事に丁寧に取り組みたい。そのような読後感を抱いた一冊でした。

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記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

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