INTERPRETATION

Vol.42 「自分の足で立ちたかった」

ハイキャリア編集部

通訳者インタビュー

今回ご登場の十河やよいさんは、フリーランス通訳者としてご活躍している傍ら、NPO団体の一員としても社会に大きく貢献されるなど、すばらしい行動力の持ち主。
そのハードスケジュールの中、全く疲れを感じさせる事なく通訳者になるまでの道のり、エピソードなど貴重なお話をたくさん聞かせて下さいました。十河さんパワーは常に全開です。

<プロフィール>
十河 やよいさん Yayoi Sogo

慶應義塾大学を卒業後、外務省に専門職員として就職。在職中に米ジョンズ・ホプキンズ大学国際関係大学院に留学し修士号を取得する。外務省を退職後、フリーランス通訳者となり現在もご活躍中。通訳のかたわら、財団法人に所属し日米交流活動等に従事。今年からはNPO団体の一員として更に活躍のフィールドを広げていく。

Q.語学に興味を持たれたきっかけは??

私は小さい時からアメリカかぶれで(笑)、とにかくアメリカに行きたいという気持ちが強かったんです。幼少期から「大草原の小さな家」が大好きで一緒に育ったような感覚があることなど、アメリカに憧れる理由はいろいろあったと思うのですが、一番鮮烈に覚えているのは、小学生の時にロサンゼルス・オリンピックをテレビで観ていて、体操競技の個人総合でアメリカのレットンが金メダルを取った時のシーンですね。彼女は最終種目を残した段階で、ルーマニアの選手に負けており、満点を出さないと逆転できないという状況だったのですが、最後の跳馬で完璧な跳躍をし、奇跡的な逆転優勝を飾りました。その時のシーンは今でも目に焼きついています。当時はただひたすら感動していたのですが、今思うと、信じられないほどのプレッシャーと緊張の中で、若干16歳の女の子が見事な集中力で完璧な演技をしたことが、とにかく衝撃的だったんですね。その感動した気持ちをどうしても伝えたくて、彼女にファンレターを書こうとしたのですが、小学生ですから、ウンウンうなっても英語など一文字も書けるわけもなく、父がほとんど書いたようなもので(笑)、私は封筒の宛先だけ書きました。その宛先も住所がわからなかったので、彼女のことが載っている新聞や雑誌の記事を調べて、自宅のあるらしい州と郡だけを突き止め、手紙を出したんです。
日本でいうと県までくらいしか書いていないほど住所は不完全なわけですし、広いアメリカでは届かないだろうな、と半ばあきらめていました。ところが、投函して一カ月たたない頃、彼女から思いがけず、返事が届いたんです。何枚もの紙に丁寧にサインしてくれていた上に写真も同封してくれていて、それを手にした時になかなか信じられず、呆然としていたことを覚えています。レットンから返事をもらえたという感激もさることながら、日本から来た一通の意味不明のファンレターを放り出さずに、彼女の所まできちんと届けてくれたアメリカ人の優しさが心にしみて、アメリカというのはつくづく懐の深い国だと思いました。それで、ますますアメリカが好きになったんですね。
実際に戻ってきた手紙と写真実際に戻ってきた手紙と写真

Q.それで大学でも英米文学科を専攻され、外務省に就職されたのですね。

はい。英文科といっても、原書でなく翻訳を読んで卒論を書いていましたし、模範的とはいいがたい学生でした。大学卒業後は、国際的な仕事に関わりたいと思い、専門職員として外務省に入りました。外務省の専門職は、本省や在外公館で語学や国・地域、文化、歴史等の専門家として業務を行う職種で、いわゆるキャリア職とは異なり、特定の分野で能力を発揮することが期待されているので、本来は一般的に流通している英語より、スワヒリ語とかベトナム語などの特殊語を希望した方がよかったのかもしれません。でも、私はとにかくアメリカに行きたかったので、アメリカに行けないなら辞めるくらいの勢いでしたね(笑)。結局、運良く外務省でいう米語研修生になり、海外研修ではワシントンD.C.の大学院に留学しました。その時が生まれて初めての渡米であり、20代半ば近くになっての海外体験でした。

Q.初めて憧れのアメリカに行かれた時のお気持ちはどうでしたか?

正直、アメリカに憧れていただけで、英語ができたわけではなかったので、大学院の授業についていけず、本当に苦労しました。また、私が通った学校は政治的な大学院で、各国の政府機関でキャリアを積み現役で活躍されている方が多く在籍しており、平均年齢も高かったので、社会人に毛が生えた程度の私にはハードルが高かったと思います。最初の1年は全く授業についていけず、英語くらい何とかしないと!という気持ちになりましたね。当時は湾岸戦争が終わって「日本は金は出すけど、血は流さない」という見方が定着していた頃で、授業の中でも日本が批判されている空気は感じつつも、うまく反論することができず、歯がゆい思いでした。
日常生活においても、スーパーのレジで、「紙袋にする?ビニール袋にする?」(Paper or Plastic?) と言われて分からず、「もう一度言ってください」と言った英語も分かってもらえず、逆に”Speak up!”と言い返されるなど、へこむ毎日でした。その程度の英語力に毎日めげながらも、アメリカでの生活は楽しいものでした。大学院の友人たちは、勉強会に誘ってくれて膨大な参考文献を読む分担を平等に私に任せてくれたり、クラスの前でレポートを発表する時も(中身も英語もひどかったと思うのですが)、プレゼンが終わった後に私の緊張や努力を察してか、皆がスタンディングオべーションしてくれたり、と励まされる日々でした。授業の中で激しい議論の衝突があっても、教授は少数派の意見に必ず丁寧に耳を傾けることを徹底しており、時々極端に方向がぶれることはありながらも、時間と共に中から自浄作用を発揮していくアメリカという国の底力に感心した2年でもありました。

Q.フリーランス通訳者になろうと思ったきっかけは?

大学院卒業後、米国の総領事館に勤務したのですが、日々の仕事に追われるだけで、何も身についている実感がなく、このまま流されて取り得もないままでいいのだろうかという不安が大きくなっていました。「自分にはこれがある」という自分が依って立てるような何かがほしいと強く思っていた頃に、日本から来ていたプロの通訳者の方にお会いする機会があり、通訳という仕事にもともと関心があったこともあって、通訳者になりたいという気持ちが自分の中でふくらんでいきました。
外務省では沢山の貴重な経験をさせて頂きましたが、今思うと若気の至りですけれど、組織の一員としてではなく自分の足で立って個人として認められたいという気持ちが強かったので、フリーランスの通訳者としてスタートした時はとても開放感がありました。ただ会社に関する基本的な知識もないまま、最初に企業の世界に飛び込んでしまい、日々戸惑うことも多く、今思い出すと冷や汗が出そうなほど内容が分からないまま、いい加減な通訳をしていたと思います。
どうにかこうにか仕事をしているうちに、企業においては「グローバル化」ということが他国の市場で事業を展開するという単なる海外進出のレベルを超えて、アメリカ本社を代表してメキシコ人が発言したり、日本市場をトルコ人が説明するといった現象にまで進んでいることを目の当たりにするようになり、新鮮な驚きを覚えました。国際化やグローバル化が、これまでの国から国への移動という定義を超えて、個人レベルにまで融合が進み、より深いレベルにまで浸透しているのを見て、民の方が進んでいておもしろいな、と思ったんですね。単なる例ですが、イギリス国籍ではあるけれど、南アフリカで生まれてオーストラリアで育ち、東欧で長いこと働いて、今は日本にいます、といった人たちがどんどん増えて、国籍を特に意識せずに、いろいろな国に移動し、たまたま縁のあった国で自分の能力を発揮するようになっていて、世界は国という単位で構成されているという見方しかなかった私には、国も一つの環境にすぎないという考え方に、目からウロコの感がありました。英語はそのような流動性を加速する大事なツールになっているのだということを肌で感じ、英語を介して世界の融合が進む現場を目撃できる通訳の仕事を一層おもしろいと思うようになりました。

Q.それではズバリ御伺いいたします!特に印象に残っている失敗談はありますか?

山ほどあります(笑)。小さな失敗を含めれば毎回、薄氷を踏む思いです。一番印象に残っている思い出は、アメリカの連邦準備制度理事会のグリーンスパン前議長が、とある大学でスピーチをすることになっていて、その時に米国経済に関して何か意味のある発言をするかもしれないとのことで注目が集まり、スピーチに通訳を入れて放送することになった時の仕事です。実際の放送にのせる前に少し準備時間があったのですが、ご存知の通り、前議長はもともとモゴモゴ話す癖がある上に高齢もあいまって非常にわかりにくく、しかも職務の性質上わざと煙に巻く言い方をするので、何度聞いても訳どころかサッパリ意味がとれず、「分からない、ああどうしよう」と焦っているうちに時間は勝手に過ぎて、録音時間が近づき・・正直どうやって自分が乗りきって、家に帰ったのかも覚えていないくらいです(笑)。今思い出すだけでも恐怖心が蘇ってきますね。

Q.フリーランス通訳者としての魅力、又は大変さは何ですか?

自分の知らなかったいろいろな社会の側面に足を踏み入れることができ、様々な分野の人に出会えるということは、やはりこの仕事の醍醐味だと思います。また、コミュニケーションの橋渡しをする上で、通訳の存在を忘れてもらえるくらいスムーズに意思疎通が行えれば、通訳冥利に尽きますよね。
でも私にとっての通訳の一番の魅力とは、没頭すればするほど無になれるところですね。同時通訳の方が逐次より好きなのも、その境地に入りやすいからだと思います。ただ、雑念が入った途端にうまく訳せなくなるので、一番難しい部分でもあるのですが・・・。無の状態になると、スピーカーと自分を隔てる壁がなくなり、通訳をしている感覚がなくなって、一番よいパフォーマンスをすることができると思います。そういう意味では、毎回の仕事が私にとっては禅修行の場ですね(笑)。「無」という状態に至るのは実はとても難しくて、自分が通訳をしていることを忘れるくらい無心になれたことは、今までの経験上、数えるほどしかありません。「ああ、おなかがすいた」とか「今の発言は、こういう意味でよかったのかしら」とか、ついつい考えてしまうんですよね(笑)。ただ、無になって通訳ができて、その快感を一度味わうと忘れられませんよ(笑)。一仕事したのに、仕事をする前より元気になっていたりしますね。大変なのは、そのような状態で通訳をするためには、事前の準備をしっかりとして、あれだけ準備をしたのだから大丈夫!という気持ちにならないといけないわけで、少しでも不安が残っていると、だめですね。そのためには、準備をしなければいけないと反省する毎日です。

また、通訳という仕事は本当に水物だと日々感じます。今回の内容は分かりやすいだろうと高を括っていたら大苦戦したり、今日は難解な内容で準備し切れなかったと不安に駆られていたら意外にサクッと終わったり・・・なかなかフタをあけてみないとわからないところが大変ですね。本番での状況を読みづらいということでいえば、現場に行ってみたら、スピーカーのマイクはあるのに通訳のマイクはないとか、同時と言われて行ったら急に3,000人の前で逐次でと言われたとか、電話会議で先方の音が技術的な問題でよく聞こえないといった物理的な困難も頻繁に発生します。こうした突発的事項にどう対処するかの力量も求められますね。通訳に集中したいのに、気が散る要素はこのようにたくさんありますが、だからこそ精神修行なのだと思っています(笑)。その点、私はまだまだ未熟で、先は果てしなく長いですね(笑)。
更に、テクニカルな内容や社内の込み入った話など、専門性や特殊性が高くなればなるほど、自分だけが部外者で一番内容が分からないにもかかわらず、内容に精通していて言葉だけ分からない人が違和感を覚えないよう訳さなければいけないわけで、神経を使う仕事でもあります。また、英語は他の外国語と異なり、コミュニケーションの手段として最も浸透しているので、英語が母国語でない外国人が話す英語を聞く機会も必然的に増えており、それも全て理解しなければならないことも大変さの一つです。スピーカーの母国語に起因するいろいろな訛りにも対応しなければならない時は、通訳というより暗号を解読しているような気になることもありますね。あと、いつも泣きそうになるのは、日本語の「だじゃれ」ですね。あればっかりは、同通ではとっさに訳せず、いつも終わった後にゲッソリしています(笑)。

Q.NPO団体との出会いは何だったんですか?

実は、最近まで、現在所属しているフードバンク(正式名称:セカンドハーベストジャパン)の存在はほとんど知りませんでした。以前から社会的起業や社会的弱者をサポートするNPOに関心があり、必要なものが困っている人の手元に届き、それによって「希望」や「生きる力」も届けられる仕事に関わっていきたいという思いがありました。今年初めにNYにNPOの視察に行ったりして関わり方を模索していたのですが、通訳業はどうしても続けたいと思っていたので、両立するための時間や働き方の点で折り合いがつかずに迷っていたところ、友人がフードバンクのことをテレビで知り、教えてくれました。
フードバンクでは、食品メーカーや外食産業などで、品質には問題がないものの、包装不備などで市場での流通が困難になり商品価値を失った食品を廃棄せずに無償で受け、生活困窮者に供給する活動を行っています。それぞれの人が人生を切り開いていく上で、まずは最低限の生活を確保して、少なくとも全ての人が同じスタートラインに立てるようにしないといけないという思いが昔からあったので、その基本的な部分である「食べる」ということに焦点をおいたフードバンクの活動は、私にとって共感できる部分が大きいものでした。また、フードバンクの活動は貧困のみならず、廃棄されるはずだった食品を消費期限が来る前に活用するという意味で環境にも配慮した活動ですし、食品提供を行う企業にとっては、廃棄にかかる費用を抑制でき、福祉活動にも参加するなど企業の社会貢献に対する方向性も示唆していて、様々な社会的課題に対する解決策を有機的に含んでいるところが面白いと思います。
フードバンクは米国発祥の組織であることもあり、外国人のボランティアが非常に多く、またCSRの取り組みの一環として派遣される企業からのボランティアが多いことも特徴です。いろいろな国籍や背景のボランティアの方とワイワイおしゃべりしながら、一緒に働くことは無条件に楽しいですし、大勢のボランティアの方が短時間に膨大な量の炊き出しなどをいっせいに行う様子は、みんなで協力して作り上げる喜びと達成感があって、高校の時の文化祭みたいですよ(笑)。
同時通訳は、ブースにこもり、ひたすら自分と向き合う孤独な作業が求められ、いろいろな人と協調して何かを生み出すフードバンクの仕事とは全く異なるものの、2つの仕事のバランスが私には丁度よく、逆に1つが欠けてしまうと物足りなさを感じるかもしれません。

Q.通訳者になっていなかったら何になっていたと思いますか?
実は何をやっても長続きしない性格なのですが、フリーランスの仕事はそんな自分の性格に合っていると思いますので、一生続けて行きたいと思っています。もし通訳者になっていなくても、やはり組織をバックにするよりは個人として働きたいという気持ちがあるので、フリーランスとして何らかの仕事をしていたと思います。

Q.最後に、通訳者を目指している方々へのアドバイスをお願いします。

私は帰国子女ではなく、英語が外国語であるという事実は変わらないので、英語そして通訳という仕事は今でも大きなチャレンジです。ハードルが高く大変だからこそ、通訳の仕事を続けているという部分もあると思います。でも、英語が子供の時に身近でなかったということで発音や聴解力などで不利な面はあるかもしれませんが、海外に一度も住んだことがないのに活躍していらっしゃる通訳の方は大勢います。逆にネイティブ以外の英語に強かったり、専門分野では右に出る人がいなかったり、それぞれ強みがあるんですね。また通訳は、語学力はもちろんのことですが、情報処理能力と度胸による部分が多いので、海外体験のあるなしは全くといっていいほど関係がないと思います。要は、他の仕事もそうだと思いますが、通訳という仕事も学ぶことに終わりがないので、努力を続けられるほど好きかどうかが一番大事なのかもしれませんね。
また、フリーランスとしての通訳の仕事は、特に自己管理能力が求められます。私も駆け出しの頃は、仕事を入れすぎて体調を崩したりして、自分に合ったスケジュールのペースを見つけるまでに時間がかかってしまいました。また、フリーランスの仕事は単発の仕事も多いので、一回の仕事で判断されてしまうことも多く、遅刻しないといった基本的なマナーも重要です。簡単なことではありますが、毎回違うクライアントに行くような場合は、毎日一度も行ったことのない場所に行くわけで、時間に遅れないようにする細心の注意が必要になり、これが結構気を遣うんですよ。
通訳そのものに関しては、自分のスタイルをつくることが大事だと思います。同時通訳といっても、クライアントによっては、スピーカーと同じ速さで全て落とさず訳すことを求められたり、少し遅れてもいいから噛み砕いて大意を訳してほしいというところもあったり、様々です。クライアントとの相性にも左右されますし、通訳に正解はないので、いろいろなニーズがあり、それに対応していろいろなタイプの通訳があっていいのではないかと個人的には思っています。私もいまだに試行錯誤中なのですが、徒らに自分と違うタイプを最初から追い求めず、自分はどの部分が強いのかを見極め、その部分を伸ばしながら、周囲からも吸収する方がよいのではないかと思っています。私の周囲にも、学校や現場での経験から向いていないと思って辞めてしまったりする人も多いのですが、場数をこなしながら根気よく続けていったら、必ず自分に合うスタイルとそれを求めている仕事が見つかるのではないかと思うので、好きであれば是非あきらめずに、続けていってみてはいかがでしょうか。

<編集後記>
とても明るく気さくな方で、逆にインタビューする側(私)の緊張を吹き飛ばしてくれました。ハードスケジュールでお疲れのはずなのに、次々に新しい事にチャレンジされている姿を見ると、自分ももっと積極的にチャレンジしなければ!と考えさせられました。十河さんおススメのカフェでのインタビューでしたが、ついつい話に花が咲き、閉店時間となり店を追い出される形でインタビューが終了となりました(笑)

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記事を書いた人

ハイキャリア編集部

テンナイン・コミュニケーション編集部です。
通訳、翻訳、英語教育に関する記事を幅広く発信していきます。

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