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本を読む日々

いぬ

通訳・翻訳者リレーブログ

久々に日経とDaily Yomiuriを読みつつ出勤。日経は、あまり興味をそそる記事がなかった。ただ、カンディンスキーが「共感覚」(数字を見て色を感じたり、食べ物を食べて何かの形を感じたりする感覚)の持ち主だったという記事があって、昨年立教大学の新座キャンパスで非常勤講師をしているときに買った「数字が風景に見える」とかいう題名の本を思い出した。研究室のどこかにあったはずだ。

Daily Yomiuriを開きながら、ちょっと英語の勉強にも疲れたなあという弱気が顔を出す。いろいろあがいているけれど、相変わらず読めないものは読めないし、聴けないものは聴けない。なのに「先生」と祭り上げられていることへの焦燥感がある。などと思いつつ読んでいると、アメリカ空軍にまつわる記事があった。

プレデターなどの無人偵察機は、最近はヘルファイア対戦車ミサイルなどを積んで攻撃にも使われているが、今後空軍の主流は、そういう方向に流れるのではという話だ。興味深く読む。

アメリカ空軍は第2次世界大戦直後は重爆撃機が主役だったが、究極的な攻撃手段が核ミサイルに移り、ベトナム戦争が本格化する中で、戦闘機のりが空軍の頂点として君臨するようになって現在に至る。

しかしアフガニスタンなどのゲリラ戦では、現時点では世界最強の制空戦闘機であるF-15も、戦闘爆撃機として(いや、厳密には「戦闘機」なのだが)高い完成度を誇るF-16も、速度が速すぎて、敵に効果的な打撃を与えられない。

速度が遅ければ良いのかと言うとそうでもなく、例えば攻撃ヘリなどを投入すると、今度は撃墜される危険性も出てくる。そこで登場するのが、プレデターなどの無人偵察機に武器を搭載したものだ。

現在、正規のパイロット養成コースとは別に、無人機操縦の専門要員の養成が始まっているという。現在の非対称戦に適しているだけでなく、人的損失の恐れもないし、肉体的に操縦に耐えられない(背骨に損傷を負った、元戦闘機パイロットなど)も、要員として養成できる。

すでにその専門養成課程の1期生が実戦に参加しており、正式なウィングマーク(航空機搭乗員であることを示すバッジ)も授与されたそうだ(もっとも、正規のパイロットたちからは猛反発があり、無人機操縦員のウィングマークには、それを示すマークも付け加えられたという)。

将来的には、複数の機体を1人で制御することも検討されているそうだ。これはもちろん1人で複数の機体を操ってドッグファイトするという意味ではない(エルメスか!)。そうではなくて、例えば偵察飛行などの場合、敵に動きがあったときだけ注意を払えば良いのであれば、複数の機体からの情報を1人の操縦員がモニターしていれば済む。また、輸送機ならば、A地点からB地点への単純な移動であれば、やはり1人が複数の機体を操縦することも、基本的には問題がない。

なるほどなあ、と思う。基本的にアメリカ軍は自軍の兵士が死なないように、死なないようにと技術を開発してきている。それは各国の軍(及び軍事組織)にも確実に伝播している動きなのだ。ちなみに、イラク戦争での米軍の戦死者は現時点で4千3百人あまりだが、第一次世界大戦で一日の戦死者が一番多かった、ソンムの戦いでは、「一日で」1万9千人余りが死亡している。

基本的には、無人化は悪い話ではないのかもしれない。少なくとも攻撃を加える側の人的損失は減るだろう。パイロットたちに課している厳しい肉体的制限もなくなるわけで、肉体的には虚弱だけれど、操縦に必要な判断力や反射神経などが優れた人材を掬い上げることも可能になるわけだ。

F-22の配備で日米ともに大揺れになっているが、これからどうなるのかな?高価なF-15と安価なF-16を平行装備する「ハイ・ロー・ミックス」で運用してきたアメリカ空軍だが、今後は「ステルス・無人機・ミックス」ということになるのだろうか。

詳しくは忘れたが、中学生ぐらいの時、「ゲームセンターでシューティング・ゲームの最高得点をたたき出した子供が、宇宙戦士としてスカウトされる」といいう筋の映画があった。子供ながらにその荒唐無稽さに苦笑したものだが、今後はそんなこともあり得るのだろうか。ゲームオタク出身の、正真正銘の撃墜王、とか。

無人機が全面的に使われるとなると、その操縦センターは敵の重要攻撃目標になるだろう。無人機の操縦センターを守るために有人機がCAP(戦闘空中哨戒)をするなんてことになったら、皮肉だな。

でも、そうなると、操縦に使われる無線やらレーザー通信やらをかく乱する技術が大事になってくるだろうか。

そこまで考えて電車を降りて、大学まで歩きつつ通訳者も、「自動通訳機」との共存を考えないといけない時期に来ているのかなと思った。日経新聞に出ていたiPhoneのアプリの1つに、そういうのがあったのだ。

人間、本当にテクニカルな、もしくは微妙なニュアンスのやり取りをする機会は、それほど多いものではない。とりあえず、無料翻訳ソフト並みの「通訳」が出来れば十分だというシチュエーションも多いだろう。となると、今までは会議が終わったあとの雑談も、その後の食事会のおしゃべりもずっと「通訳者」に任されていたわけだが、そういう部分で「じゃ、あとは機械を使いますんで。ご苦労様でした」ということになったりする展開もあるかもしれない。雑談の中で重要な話が出たときには、後日、通訳者に「通訳機のメモリを見といてください」と言うとか。

うーむ、通訳者と通訳機の主従逆転もあるかもしれないかと思うと、ちょっと怖いな。

などと思いつつ、研究室へ。「よくわかる逐次通訳」のDVDを見る。「これ、CDでも良いのでは?」と思う箇所もあったが、2人の通訳者がスピーチを聞きながらメモを取って通訳する様子、さらには自分のメモをその通訳者が解説するという内容があったのは、実に画期的だ。

大体において、「通訳メモ」というのは、通訳学校でもあまり先生は見せてくれなかったりする。通訳者個々人の様々な工夫の結晶なので、そのまま真似しようにもやりようがないというのがひとつ、自分の日記帳を開陳するような恥ずかしさがあるのがひとつだろう。

それを、全てやってしまっている。これはすごい。ノートの取り方についてクダクダ説明するよりも、このDVDを学生に見せた方がよほど良いなあと思う。ただ、彼らなりにノートの取り方を試行錯誤してから見せた方が良い。何も考えがない時点で見せても、内容を吸収できないだろう。

テキストの内容について、印象に残った点を列挙する。

・(19

70年代Ledererによる研究)スピーチを聞き始めるときに耳に入る言語音は、それが短期記憶にある間に語句として認識され、意味ユニットを校正します。これらの語は関連知識と結びつき、解釈され、非言語された一つのアイデアとなって認知記憶に入ります。(26ページ)

・通訳者の脳裏には意味ユニットが次々と重なり合いながらひらめき、統合されてスピーチの意味となり、それがより大きなユニット、より高度なアイデアを構成するにつれて非言語化された知識に変化する。(26ページ)

・良く知っている言語でスピーチを聞くときには、一つ一つの語の認識、すなわち言語音声に語義を当てるといったプロセスは意識されません。意味ユニットは心的表象(representation mentale)であり、心理面では語句短時間の意識状況であるとLedererは定義しました。(26-27ページ)
→確かにそうだ。だから、リスニングでは、初級者の間こそ個々の語の認識に力を注ぐべきだけれども、その段階以降はむしろそこからの離陸が必要になる。そのタイミングはいつが効果的?自動的に決まるもの?多分そうだという印象はあるけれど。

・スピーチ聴取とともに徐々に理解されるアイデアが認知的文脈を構成する(27ページ)

・(通訳者のノート取りについての実験。2種類のノートがあることがわかる)

1 理解した意味を思い出す手がかりとなるキーワード、または訳出のスピーチを準備するキーワード。これは各人思い思いのノートをしている。このようなノートに対応する訳出スピーチでは、原語スピーチとの間に語句の一対一対応は見られない。

2 被験者全員がノートしている情報。数字、年月日、地名・歴史的人物・国際機関名等の固有名詞、リスト、専門用語。これらの数字・語については、原語スピーチ・ノート・訳出スピーチに対応語が見出される。

Seleskovitchは、1を「考えのノート」と名づけ、意味記憶を想起するときの踏み台となるノートだと説明し、2を聞いた通りに書くノートという意味で、「ノート・ヴェルバル」と名づけました。(33ページ)

・(すべて1のノートでまかなわれるわけではない。2の要素も常に入ってくる)
これをSeleskovitchは「葡萄パンの葡萄」に喩えました。葡萄パンを作るときには、小麦粉・塩・水・イースト等の材料を混ぜ、干し葡萄も加えます。これを捏ねて焼き上げたパンは、小麦粉などの材料は原型をまったく留めませんが、干し葡萄だけは同じ形で残ります。(34ページ)
→非常に見事な比喩だ。初心者の場合、葡萄ばかりの葡萄パンになってしまいがち。葡萄も大事だが、パンを食わせねば!

・Ledererの同時通訳研究では、話し手が新しいテーマに話題を移すとき、同時通訳者は新しい文脈がつかめない間は、かなり直訳的な訳し方をすると指摘されています。文脈がはっきりしなければ、通訳者は関連知識を結びつけることが出来ないので、意味を明確につかめないからです。しかし、文脈が十分につかめるところまでくると、話し手が使う語句に囚われない自然な表現で、聞き手に分かりやすくメッセージを伝えるようになることをLedererは指摘しました。(35ページ)
→まさにそう……なのだけれど、これって日常会話でも体感できることだよなあ。友人たちの話の輪に加わった直後に「あ、それってさあ……」などと鋭いツッコミをかますことが出来ないのと同じだ。

・直訳的な訳文は、違和感を与える表現になりがちですが、翻訳では読み手が何度も読み返して、前後の文脈から意味を理解する可能性が残されること、しかし通訳ではそうはいかないこと(35ページ)
→結局、昔の学術書などの翻訳は、今見てみれば「原文以上、翻訳以下」の、半完成品のようなものが多かったのではないだろうか。「翻訳通信」で以前にあった論争を見ていて、しみじみそう思った。原語がそこそこ分かる人が、「解釈のツールとして使う『材料』のようなものを提示してくれれば良い。『意訳』なんて、もってのほかだ。『原文に忠実な』『直訳』で良い。解釈はこっちでやるから」と言っているような気がしてならない。翻訳者の端くれとしては、ちょっと乱暴な言い方で恐縮だが、「なめんなよ」とも思う。

・通訳者のスピーチのある時点において、聞き手の耳に届いた数語が3秒ほど短期記憶にとどまっている間に、聞き手の関連知識を動員できないならば、これらの語は意味を成さずに(意味ユニットが生じない)記憶から失われてしまい、聞き手の理解プロセスに欠落部が生じます。(35ページ)
→訳出は常に「3秒間のうちに腑に落ちるかどうか」という試練に直面している。だからこそ、分かりやすく、伝わりやすく。

・ESIT(パリ第三大学通訳翻訳高等学院)の通訳訓練法
逐次通訳の完成が1年度の目標
5分前後を一区切りとするスピーチを全部聴取した後で一気に通訳するもので、5分間の原スピーチの内容を、論理的構造をしっかりと押さえて、細部の情報も漏らさずに別の言語で説得力を持って再現し伝えること

学年末試験で5分間の逐次通訳をマスターしたと認められたもののみが第2学年に進み、同時通訳の訓練を受ける。(2年目も逐次通訳訓練は続く)(39ページ 要約)
→「論理的構造をしっかりと押さえて」とか「説得力を持って」というあたりに、水準の高さと指導する視点の厳しさがにじみ出ている。こうありたいものだ。

ちなみに、スピーチは日本語なら日本語が母語の学生が、英語なら英語が母語の学生が準備する。
いつ、どこで、誰が、何についての設定が明確であることが求められている。たとえば、ジャーナリストが調査したことを市民集会で発表するとか、途上国で医療活動をするNGOが東京で資金集めのためにマラリアについて報告する、などと想定して演習を始める、のだそうだ。

これがいかに高度なことか。そもそも、日本の学部レベルの学生は、そういうスピーチを母語ですら聞いたことがない。なら聞かせれば良いし、聞くように言えば良いのだが、何かに興味を持たせるという形で動機付けをしないと「何本聞けばいいんですかー?」という、思わずハリセンに手を伸ばしたくなる質問が出ることうけあいだ。

・教室では、スピーチを始める前に5分間ぐらいブレーンストーミングをします。すなわち、テーマについて全員で知っていることを出し合って、関連知識を動員しやすくし、また関連用語を確認し、口慣らしをします。
 話し手には、スピーチに出てくる固有名詞(耳慣れない人名・地名・組織名・制度や法律の名称等)や専門的な用語を挙げてもらい、皆で訳語を確認し

うえで、各自それをノート用紙とは別の紙に書いて手元に置き、訳出するときに、チラッと見ただけですぐ言えるようにします。(42ページ)
→こういう具体的な準備も今年はさせよう。ただし、これは各自がかなり下準備をしてきているから出来ることなんだよなあ。どうやってこの水準まで持って行くかだ。

*ノート取りの訓練(42-59ページ 要約)
・最初の1ヶ月はノートをとらせない
スピーチがいくつの部分から構成されるかを数えながら聞き、一つ一つの部分を一言でまとめる、あるいはキーワードを押さえる。一人で思い出せなければ他の学生がヘルプ。数字や固有名詞にはこだわらず。最後に話し手に確認。
最初は言語変換なしで、慣れてきたら英語のスピーチを聞いて日本語でなど、言語変換ありで。
・2ヶ月目からノート取りの練習
キーワードを簡単にメモする、数字や固有名詞を書く程度から始める。
→メッセージを取らせることを、まず徹底させるわけか。非常に納得できる。

・oralization(書き言葉を話し言葉にする訓練)
書き言葉特有の修飾句の長い文章は、いくつかに切って、複数の分に氏、主語と述語があまり離れないようにします。(中略)漢字の熟語は開いてわかりやすいように言い換えます。(中略)自分の知識で推測して妥当だと思われることを加えても、スピーチの内容の一貫性を損なわないなら構いません。(50ページ)

・ジャン・フランソワ・ロザンが1956年に書いた「逐次通訳ノート教本」(63ページ)
→事前に記号を決めておくやり方は、個人的には馴染みがなかったのだが、ここで紹介されている10のシンボルは確かに使いこなす訓練をする価値がありそうに思える。

・講義ノートを取る学生には、先生が後述することを几帳面に書き取り、家に帰って読み直して学習する人もいれば、書くよりは聞いて考えることを優先して、最小限の今年かノートしない人もいます。前者のタイプは通訳には向きません。
→ううむ、向きませんか。結構前者なのだが。大学の頃、緒方貞子先生の「国際組織論」という講義を聞いていたが、それこそシャープペンシルの先から煙が出るかと思うほど書きまくったものだ。先生の一言一言が貴重で、逃すのが惜しかった。また、それだからこそ理解も同時に深まった。そういう「ノート取り」もありますよ、とささやかに異を唱えておこう。

いろいろと勉強になる本であった。が、ちょっと疲れが出て、DVDを見終わった後、ダラダラとネットなどを見てしまう。意を決してとっとと帰ることに。ダニエル・タメットの「ぼくには数字が風景に見える」と斉藤喜博の「授業」「授業の展開」を持ち帰る。また、要点を書き出そうと宇佐美寛の「大学授業入門」も持ち帰った。

帰途「ぼくには数字が風景に見える」を読みふける。面白い。実に面白い。夢中で読みつつ帰宅。5キロ弱ジョギング。入浴、夕食。布団に入っても読み続ける。最後に「パリの晩ごはん」をちょろっと読んで、夢の中へ。

Written by

記事を書いた人

いぬ

幼少期より日本で過ごす。大学留年、通訳学校進級失敗の後、イギリス逃亡。彼の地で仕事と伴侶を得て帰国。現在、放送通訳者兼映像翻訳者兼大学講師として稼動中。いろんな意味で規格外の2児の父。

END