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涙は心の栄養

かの

通訳・翻訳者リレーブログ

 20代の終わりにロンドンで大学院生活を過ごした。9ヶ月で修士号を取得するという過密スケジュールで、大量の文献を毎週読まされた。修士論文の執筆練習だったのだろう。課題レポートも沢山あった。それまで私は仕事で英語と接しており、自分の英語力はある程度わかっていたのだが、日照時間の少なくなるイギリスの気象も重なり気分はどんどん落ち込んでしまったのである。果たして卒業できるだろうか、いや、そんなことより締め切り間近のレポートは書けるのか、万一卒業できなかったらどうするのか。毎日そんなことばかり考えていた。
 そのような日々が続く中、唯一の息抜きはコンサート会場へ足を運ぶことだった。ロンドンのコンサートホールは学生向け料金を設定しており、学生たちはクラシック音楽を格安で聴くことができた。公演日当日の夕方5時になると、売れ残ったS席やA席が破格の学生料金で売り出される。そうした学生料金でヤンソンス、アバード、メータなど素晴らしい指揮者の奏でる音楽を聴く機会に恵まれた。
 音楽で涙を流したのも留学中だった。曲はブラームスのバイオリン協奏曲ニ長調作品77。それまで何度も聴いたことのある曲だ。しかしバイオリンのチョン・キョン=ファがステージに上がったとたん、何かが違うと思った。気迫だ。ものすごいオーラが発せられていたのである。
 そしてバイオリンの第一音。ここから涙が止まらなくなってしまった。言葉に記すことが難しいぐらい、感じるものがあった。正味40分ほどの協奏曲だが、中身が濃いという意味では長く感じられたし、独奏をもっと見ていたいという点では短く思えた。この日私はステージから7列目の席に座っていたのだが、演奏が佳境に差し掛かるとチョン・キョン=ファはハイヒールを脱いでバイオリンを弾き続けた。その光景も印象的だった。
 「人前で泣くなんて」と思っていた私も、この日ばかりはあふれる涙を止められなかった。それぐらい人の心を揺さぶるのが芸術なのだ。大学寮への帰路、ライトアップされたロンドンの風景を見ながら、涙は心の栄養なのだと思った。

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かの

幼少期を海外で過ごす。大学時代から通訳学校へ通い始め、海外留学を経て、フリーランス通訳デビュー。現在は放送通訳をメインに会議通訳・翻訳者として幅広い分野で活躍中。片付け大好きな2児の母。

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