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1か月分のつぶやき

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通訳・翻訳者リレーブログ

大揺れしたあの瞬間、真っ先に想ったのは、誰のことですか? どうかその想いを忘れずに、そのひとを一生大切に。

誰かが誰かと、繋がってゆく。あっち&こっちが、繋がってゆく。一度切れてしまった繋がりが、ある時ふとした瞬間、また繋がる。
人生、ひと&ひとが繋がったり、離れたり、また繋がったり。その繰り返し。それ以外のことは、すべておまけ。ケーキの上のフロスティング。

ひとはきっと、誰かと出会い、そのひととの関係を紡いでゆく為に、この世に生を受けるのだ…と。
そのひとと同じ時代に生を受け、縁あってめぐり逢い、同じ瞬間を共有する。70億の中のひとり+ひとり。凄いこと。まさに奇跡。

誰かと話し合いたいだけ。キャッチボールのできる相手。投げたボールを投げ返してくれる相手。言葉を投げかける。すると“私はこう思う”などと反応してくれる。そうしてその意見に対し、こちらがまた、“私はこう思うけど”と言えるひと。そういう関係。

異なる意見を持っていたとしても、全人格を否定しているわけではなく。それをちゃんと理解しているひと。何も考えていないひと、意見を言わない方がいいと思っているひと、ニコニコしているだけのひと。いいひと。“ただの”いいひと。そんなの、つまらない。

話し合うことにより、キャッチボールすることにより、自分の思いや考え方が、立ち位置が明確になってくる。

どの情報を信じていいのか、分からないから、誰かと話し合いたい。どの情報を信じていいのか、分からないから、どれも鵜呑みにはしない。耳にした情報に飛びつき、惑わされたり心配したり、右往左往パニックすることは、絶対にしたくはない。自分の頭で考え、そうして判断できる人間でいたい。

冷静に、冷静に。

海の向こうの友達は、日本中が、破壊&汚染されたかのような、物凄い大騒ぎ。あちらの国の、ひどくセンセーショナルな報道にも、一因はあるのだろう。しかし日本側は、事実をちゃんと外に発信しているのか。ちゃんと正確に、発し続けて行かないと…。

“日本人は暢気過ぎる”と言われるたび、“あなた達は過剰反応し過ぎる”と言い返したくなったり。

こんな時期に、出会い系だか何だかのメール、送ってくるなよ! 苛々苛々。で、すぐに消去、そうしてまた消去。

“頑張れ”とか“挫けないで”とか“応援している”とか、そういう言葉は、一切かけたくはない。どんな言葉もいまは、薄っぺらに聞こえてしまうから。

“分かる分かる”“可哀そうに”などと涙ぐまれても、何だか白々しいだけ。そんなこと、ブラウン管を通して、やらないで欲しい。

勘違いな気遣いや、押しつけがましい行為は、相手の邪魔でしかない。

テレビに映る被災地の人々に、笑顔があった。それを眺めながら、安心した。そうしてその後で、自分の頭の悪さに、気づいた。

マイクを向けると、淡々と話す被災者。何度かの北国への旅を通して、彼等に対し抱くのも、寡黙で穏やかなイメージ。でもそれで、精神的に大丈夫なのだろうか。言いたいことがあるのに、外に出せないでいるのではないか。色々な思いが溜まり、しんどくなってはいないだろうか。大丈夫なのだろうか。それとも、出さないことで、心のバランスを保っているのか。

こころが完全に壊れない為に、ひとは一定の期間、何も感じないよう、こころが自動的にシャットダウンするよう、できているのだろうか。

近所の人達と一緒に移りたいと、そう強く望む人が多いと聞く。東京では、恐らくは、殆どない感覚。でも復興に際しては、その仲間意識は、とても心強いはず。

“命があっただけ良かったね”。此処にいる者が、軽々しく発する言葉ではない…と思う。

“人事ではない”という言い方は、前々から好きではない。“大変だ。でもまあ、いまのところは、自分とは関係のないことだし、だからまあ、取り敢えずはひと安心だ”なるニュアンスが感じられて、気になって、あまり気分よくない。

悶々とする。だからマウンテンバイクに跨がり、近所を徘徊。最高の気分転換。すっきりする。

目を吊り上げ、買い占めに勤しむ連中、空っぽになった棚を、目の当たりにするたび、この国の人々は、いつからこうなってしまったのか…と。唖然とする。

“最近の日本人は我欲が”などと言う声を耳にする。しかし、世界中色々な国民と接する中、そんな風に感じたことは、一度もなく。それどころか、その逆だという思いが強く。しかし、だからこそ、今回の買い占め騒動には、本当に失望した。あれはいったい、何だったんだ?

“子供のことを考えると、慌てて買い溜めしてしまうのは、仕方のないこと”。そう言う人もいて、いい加減嫌になる。すぐに“子供が子供が”…だ。そういう親に育てられた子もまた、“自分さえよければ”な大人に成長するのだろうな。嗚呼。

情報に踊らされ、思考停止、冷静さ失い、パニックに陥り。自分さえよければと、自分のことしか考えられない、頭の悪さ、えげつなさ、嫌らしさ。

哀れ。虚しい。
哀しいねぇ。本当に、哀しい…。

一時期品薄だったヨーグルト。出来るまでの工程を、先日テレビで知った。想像以上に長く細やかなその工程に、いたく感動した。
品薄と言えば、大好きな納豆。“解毒作用がある”とのウワサが流れたのが、その品薄の大きな理由のひとつだった…とか。嗚呼。

あれもこれも、ないと悲しいが、なければないで、別のものを考えればいいし、なくてもそれでも生きていける。人間、そんなヤワな生き物ではない…はず。

あれこれ心配し始めたら、キリがない、生活が成り立たなくなる。外出時には常に乾パンを持ち歩き、ヘルメットを被り、ガスマスクつけなければならなくなる。建物には近づかないようにしないと…とか…とか。極端な話。だいたいそうしたら、何の為に生きているのか、分からなくなってしまう。

あっ、交通事故にだって遭うかも知れないし。海外旅行なんて、絶対に行けなくなる。あっはっは。

疑うのも必要だが、疑ってばかりいては、何も始まらない、先へは進めない。

人生、せっかく生まれてきたのだから、めいっぱい楽しみたい。“能天気だな”と言われようと…。

放射能汚染に怯え、有機野菜やら何やらを買いに走り、サプリメントを大量に摂取し、でっかいハンバーガーを食べ、ダイエット・コークを飲み、酸素カプセルに入り、排気ガス吸いながらジョギングし、電気使い放題タバコ吸い放題

矛盾矛盾。人間なんて、所詮そんなモン。矛盾だらけの生き物。あなたもわたしも、誰だって。それに気づいているのなら、まだマシだけれど、そのことにさえ気づいていないとしたら、あまりに哀れ。

特定の品物を買い占めしたり、特定の県の産物を、買い控えする人がいる一方、いつもどおりの買物をし、いつも以上に、特定の産地品を意識し買う人も、確実にいる。その事実に、こころ救われる思いがする。

買い占めに勤しむ人もいれば、ボランティアで被災地へ入る人もいる。同じ日本人でも、色々。

おのおのが平静さを取り戻し、普段どおりの生活に戻ることが、この国の未来の為にも、とても大切なこと。

大きなイベントが、続々と中止に。嗚呼。被災地の外に居る者が、いま頑張らないでどうするの? 回せる人が回さないと、笑える人が笑わないと。こころ弾むことがないで、人間どうするの? そういう日常生活を送ることこそ、いまの被災地や、日本の未来の為に、絶対に必要なことなのに…。

あれも自粛、これも自粛。桜見や屋形船や、花火大会などの恒例行事までもが、自粛…自粛…自粛。それを促す機関や運営者すらあると聞き、呆れて言葉も出ない。その心は? それは誰の為? まったく酷い話。これじゃあ、日本まるごと沈んじまう!

節電には努めたい。けれど、周囲の目を気にしながらの、監視し監視されの日々だけは、絶対にあってはならない。

それと自粛とは、まるで違うお話。

気分転換に、ずっと読書。そうして途中で気づく。“あっ、これ、前に読んだことあるぞ!”。よく見ると、本棚に同じ文庫本がある。それも3冊も。嗚呼。

“あの翌日から、またネオン街で飲んでいた”と、知り合いからのメール。読みながら、ほっこりした。必要とされているのは、こういうひと、こういうこと、こういう日常なのでは。これを不謹慎だなんて、どうか言わないでおくれ。

大好きな東北の夏祭り、今年も開催されるとのこと。何とまあ、嬉しいニュース。何が何でも、絶対に絶対に、参加する!!

毎年、桜の下で酔っ払い、バカ騒ぎする人達を見るたび、“日本ってなんて平和な国なんだろう”と呆れたり。でもそのバカさ加減、あの能天気ぶりが、あれはあれで、けっこう好きだったのだけれど…。

平和ボケ、まぁいいじゃないの。平和って、素敵だよ。

桜の開花日。いつもなら、その瞬間が近くなると、“まだかまだか”と、日本国中そわそわ、待ち侘びるのだが。それもこれも、平和だからこそ…のこと…だったのか…と。

ぼんぼりなどの人工物が、目に入らない桜並木。今年の桜見物は、とても心地好かったなぁ。

いまこそ、エンターテイメント界の頑張り時。アートは、音楽や絵は、人のこころを、潤してくれるものだから。

ウルサイだけの番組や、タレントのないタレントが、今回の自粛の対象となり、一時期だけでも、ブラウン管から消えてくれたことに関し、どさくさに紛れ、“ブラボー!”と叫びたい。

夜の街を、煌々と照らさければならない理由は? 店が24時間、開いていなければならない理由は? ないと、そんなに不便か?

真っ暗闇は困るけれど、でも薄ら月明かりというのも、ちょっと風情があり、ちょっと素敵。何より、こころ落ち着き、内なる声に耳傾けることができる。

風力発電ったって、この島国、そうぼこぼこ作れないだろうに…。カナダではよく見かけるけれど。あそこは広いからなぁ…。びゅんびゅんびゅんびゅん〜。

本日もサイクリング日和。風を身体いっぱい感じたい。だからまたカメラ背負い、マウンテンバイクに跨がり、近所を徘徊。

何年も着ていなかった、厚手のカウチン・セーター。クロゼットの奥から引っ張り出し、家の中でずっと着ていた。モコモコしていて動き難いし、太ってきても気がつかなかったりと、難点もあれこれあるけれど、お陰でストーブ要らず。

追いつき追い越せやってきた結果、この国がいかなる姿形になってしまったか。この辺で、少し考えてみてもいいと思う。

いまこそは、自分の人生を見直し、背伸びせず、身の丈に合った生き方に、立ち返る良い時期。日本という国、日本人について、ちょっと考えてみたい。

カネだけが人生じゃない。もちろん、ないと困るけれど…。

けちけちした生活がいいと、言っているのでは、まるでなく。いやいや、そういうことでは、全然なく。何が必要で、何が必要でないかを考えること。追い掛けることや比較すること、真似することなどではなく。欲望の赴くままに、生きるのではなく。

今朝のテレビで、出演者がワハワハ笑っていた。そうしてファッション&美容の話をしていた。楽しい&美しいもの、キラキラしたもの。見ていて気持ちよかった。久々街へと繰り出し、服や化粧品を見て歩きたくなった。買い物したくなった。とてもいいことだと思った。バンザ〜イ!

どうでもいいモノに囲まれ、どうでもいいコトに翻弄され、でもそのどうでもいいモノやコトがなかったら、ヒトはヒトではなくなりそうで、だからどうでもいいと思いながらも、捨て切れずに、これからも背負いながら、生きてゆくのだろうなぁ、そのどうでもいいモノやコト達を。まあそれがまた、人間らしいと言う気もするわけで…。

何かの警鐘。その言い方はあまり気に入らないが、でもこれを“考えるきっかけ”にできたら良いとは思っている。

放射性物質が検出された為に、魚が捕れない&食べられないことが哀しいのでなく、放射性物質を含む哀れな魚を生んでしまった、罪深き人類が嘆かわしいのである。

何でそうやって、口から泡吹き吹き話すの? ゆっくり落ち着いて話してよ。何でそうやって、ニタニタしながら話すの? まともな顔で話してよ。何でそうやって、ダラダラ・ウネウネ書くの? もっと短直に理路整然と書いてよ。何でそうやって、難しい言葉を並べるの。もっと簡単な言葉を使ってよ。言いたいことがあっても、その言いたいことが伝わらないのでは、何の意味もない。もったいない。

何かに対し、異義を唱える場合は、その先のこと、“なぜならば”と、“そのかわりに”の部分、その理由と打開策を、用意できていなければならない。でなければ、単なる感情論でしかない。伝えたいことは伝わらない。そう教わったのは、彼の地にて。確か中学生の頃。

説明すべきひとが、ちゃんと説明してよ! 国はちゃんと、やるべきことをやってよ!

政治家達よ、いまそんなことを

っている場合かよ! 素人かよ? 言っていること、まるで分からないよ!

感情だけで、あっちへ揺れこっちへ揺れすることは、絶対にしたくない。感情の赴くままに、どんどんいっちゃっていい場合と、それではいけない場合とが、間違いなくある。

集団ヒステリーは、時として凶器にもなり得る。人は簡単に誤った方へ行ってしまう。それは過去の歴史を見れば、誰にも一目瞭然だろう。

窮地に立たされた時、誤った判断をしない為にも、普段から、色々なことに関心を持ち、色々な場へと足を運び、色々なものに触れ、色々なことを考えていたい。

非常事態の時、雑多な声に惑わされず、パニックに陥らず、極端な行動に走らず、バランスの取れた、冷静な判断ができるよう、常日頃から学びを重ねる必要があるのだと、いま痛感する。

必要なのは、柔らかな姿勢&こころ。頑強でしならない、それではなく。

あんたが泣いて、どーするの? 泣きたいのは、こっちだよ! 漁師や農民や、それから魚や野菜や果物たちだよ!

“想定外想定外”と、専門家やお偉方は連呼するが、そんな想定できないモノを作り、それに依存していたとは、いったい……。

“かな・かな・かな・かな”。それをトップの人までもが、それも記者会見のような場で、それもニタニタしながら言うのを見ていると、いい加減うんざりしてくる。お〜い! もしも〜し! 我々はあなた達に、この国を任せていいのですか? この国は、本当に大丈夫ですか??

自分の言葉で語っているか、伝えているのは本心なのか、そのくらいのことは、こちらにだって聞き分けられる。受け手は、そこまでバカじゃない。

朝のワイドショーでは、女子アナがヒラヒラした服を着て、甲高い声でキャーキャー、まるで子供のよう。ベタベタ媚び媚び、甘ったるい空気が充満している。どんなことがあっても、何ら影響を受けないモノも、この国にはあるんだなぁ…。

まあ、いいっか。
またカメラ背負い、マウンテンバイクに跨り、今日はあの辺に行ってみるか…。

高校野球の選手宣誓。こころから発せられる、美しい言葉選びに、深く感動した。

一方、御国のトップの方々よ。こころに響く力強い御言葉を、もっと聞きたいもの。

この国がまともに回っていたから、自分の生活や、自分の携わる業界が、回っていたのだという事実に直面し、いま驚愕している。本当は、この業界が回っていることにより、この国も幸せでいられる、そのくらいであっても良いくらいなのに…と勝手に思っているほど、長年棲むこの業界が好きなのだということを、今回改めて知り、更に驚愕するのであった。

たとえ家屋を失ったとしても、大工がいる限り、未来はある。たとえ絵画を失ったとしても、芸術家がいる限り、救われる。それぞれの分野の、それぞれの腕や感性や思いを、わたしは信じている。

芸術や言葉、笑いのもつ力を、わたしは信じている。

“この際、学校を9月始まりにすべき”などと、どこかの有識者が発言していたが、呆れてものも言えない、書く気も起こらない。世界の大方がそうだから何だからとか、そんな理由、もう冗談じゃない。そんな右へ倣えは、国際化でも何でもない! だいたい、国際化ってなんだ? まあその話はさて置き…。
“桜を愛でながらの新しい旅立ち”“桜咲くの頃を迎えると、友との別れ、あの日のことを想う”。この国の人々のこころにある、季節や自然に対する感覚。こういう情緒的なことを、絶対に失いたくはない。なおざりにしてはならない。守るべき面は、きっちり守ろうよ。これ以上崩してしまって、どうするというの。

季節の風物詩、四季を慈しむこころ、長い歴史を誇る行事、神事。愛で、伝えていきたい。

一方で、“日本は特別、日本人は他とは違う”と言った考え方は、嫌いだし、ピンとこないけれど…。

新しきものを追うのもいいけれど、古きものを大切にするこころも、忘れたくはない。前に目を向けることもいいけれど、後ろを振り返ることも大事にしたい。

夢見人に聞こえるかも知れないけれど、こう想っているのは、このわたしだけではないはず……ってようなこれ、誰かがどこかの詩の一節で、確か言っていたような…。

和(わ)。なんて美しい響き! 此処に住みながら強く感じる、この国ならではのハーモニー。

“がんばれ”とか、“元気を出して”と連呼されたり、正論を押しつけられたり、“私はあなた達とは違うんです”みたいな“有識者”やらに、物知り顔されると、物凄く苛々する。

机上の何とやら…。

学歴やら肩書やら過去の業績やらの鎧を身に纏い、立派なことを言ったところで、中身がちっぽけでスカスカだったら、何の意味もない。

何かの災難に見舞われた時、真っ先に掠われるのは、身に纏うその鎧であり、その結果一瞬にして、中身が丸見えになってしまう。長い年月生きてきて、残ったのは結局、スカスカで空っぽな中身だけ。それではあまりに淋し過ぎる。

理科や数学が出来て、偏差値の高い大学を卒業して、此の国の中枢にて、凄い肩書きで、目立った活躍をする人達がいる。一方、陸から遠く離れた海で、魚を獲る人々がいる。その土地にあった野菜を、育てている人々がいる。地方の工場で、モノを作る人々がいる。

表に出ている人は、その職業柄、表に出ているだけのことであり、それは別に、その人の価値や人間性などとは、まるで関係のないこと。“エリート”とか“此の国を背負って立つ”などという言葉の意味を、あれこれ考える今日この頃。

我々が日々手にするもの、口にするもの、それを生み出し送り続けるひと。街中で生活していて、普段は意識しないけれど、でもこちらと確実に繋がっている人々が、此の国のあちらこちらに存在する。

広いフィールドに出て、自分の足で地を踏み締め、自分の手で触れてみないと。教室の中で本を読んだって、分かることは微々たるもの。

頭の中に色々詰まっているだけ。こころは空っぽの人々。

道徳だとか常識だとか、何だとかを振りかざし、“正論”なるモノを他人に押しつけたところで、そんなことに、いったい何の意味があるのだろう。アナタはそんなに偉くはないし、特別な存在などではない。

人間なんて、たいしてご立派な存在ではなく。ひとりでは、たいしたことは成し遂げられない。

人間なんて、そんなご立派な生き物じゃない!

ひとは何でもできる、ひとに解決できないことなどない。そ

考えるひともいるが…。ひとは此の地球に間借りする、ごく小さく微力な存在でしかなく、自然を前にできることなど、ごくごく限られている。立ち向かおうとか、征服しようなど、思い上がりもいいところ。

日本の人々は、太古の頃より、自然を尊び、共存してきた国民…のはず。

地震や津波で、意気消沈しているのではない。天災はどうすることもできないし、誰も責められない。みんなで復興に向かい、頑張ればいいだけの話。問題は、その後に起こったこと、その対応ぶり。みんなが不安を感じ、苛々しているのは、天災のことなどではない。

思いだけが、空回り。だからちょっと、冬眠中。

すべてを受け入れる。起こったことは起こったこと。足掻いたところで、どうなるわけでもなく。なるようにしかならない。

島国だから、津波は避けられない。プレートがある限り、地震は必ず起きる。でもこの国が好きだから、脱出する気など、更々なく…。

こういうことを経た国は、この後、どういう国に成っていくのだろう。成熟した国へと、成長してゆけるといいのだけれど。お子ちゃまの国…ではなく。

小さくてもいいから、地に足のついた生き方、できるといいのだけれど。破壊&開発ばかりではなく、保存にも力を入れる国。新しいものばかりではなく、古いものも慈しむ国。ひとのこころ、文化、芸術、言葉を大切にする国。ネオンぎらぎらではなく、柔らかで落ち着いた明かりに包まれた、成熟した国。これをきっかけに、作れるとよいのだけれど…。

此の国、日本人の本来あるべき姿とは。いまの姿と、ズレはないだろうか。ズレがあるから、どこかで無理をしているから、近年、苦しみ迷走していたのではないだろうか。国際基準。此の国の基準。ひとの幸福。嗚呼。

この国に合った歩み。そういうことを冷静に考える、いまはまさにその時。みんなで立ち止まり、振り返り、考える、その時期に来ているのだと感じる。

これまで日常生活の中で、考えないようなことを、考えるようになった。当たり前だと思っていたことが、当たり前ではないことを知った。この世に永遠などというものは、存在しない。それを知れたのは、とても貴重なこと。だから知ったことを、無駄にしてはならないと思う。

誰もが永遠に続くと思っていた、当たり前だと思っていた、当たり前ではなかった日常…。

気がついたら、葉桜。今年の桜は、あっという間。いや、そんなことを言ったら、桜に失礼だ。短く感じてしまったのは、こちらの勝手な都合…なのだから。桜は、今年もまた、美しく咲いていたはず。もっとみんなで、いつものように、愛でれば良かったのに…。ちょっと可哀そうだった、今年の桜。でもその分、来年は…。

どんな時にも、桜は咲く。春はやって来る。嬉しく感じる、季節の移ろい。いつも以上に…。

あの日あの瞬間、何があったか。自分は何を見て、何を感じて、何をしたか。ここから学び、二度と繰り返さない為にも、ずっと語り継がねばならないと思う。被災者も、帰宅難民も。経験した者達の責任。そういうことが許される、そういう時期が来たなら、誰かが何らかの形により、みんなの声を記録し、ひとつのものに、まとめ上げなければならない…と思う。

退屈な時間は、とても大切な時間。とても心地好く、とても愛おしい瞬間。何もしない時間は、何かしている時間よりも、ずっと充実した瞬間である場合すらある。

当たり前だと思っていた、実は当たり前ではないことを、有り難いと想いつつ…。

だから、まあ、いいや、みんな元気に生きているのだから。それだけで、もう十分。

そよ風吹き、花咲き乱れる、優しく柔らかでありながらも、生命力に満ち溢れた、この春の頃を、今年はより一層、愛おしく想う。

春は、心地好い風と共にめぐって来る。春は、芽吹きの頃。未来が、可能性に満ち溢れていることを、実感させてくれる季節。
何かを始める気にさせてくれる。清々しい気持ちになる。元気が湧いてくる。とてもとても素敵な季節。

自然って怖いけれど、でも自然って、やっぱり素晴らしい。

春を、思いっきり吸い込む。春を、思いっきり浴びる。
新たなる季節。新たなる出発。予感、予感。

春……春……春……!!

Written by

記事を書いた人

サイトデフォルト

高校までをカナダと南米で過ごす。現在は、言葉を使いながら音楽や芸術家の魅力を世に広める作業に従事。好物:旅、瞑想、東野圭吾、Jデップ、メインクーン、チェリー・パイ+バニラ・アイス。

END