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懐かしいキラキラ、一緒に過ごした友人たち

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通訳・翻訳者リレーブログ

カナダに住んでいた遠い遠い昔、まっすぐ伸びた一本道を、車で旅するたび、遥か前方の路面が光っていて、それが幼いわたしの目に、とてもとても美しく映ったものです。
そこだけ雨が降って、湿っているような感じで。そこだけが、キラキラと輝いていて…。

あそこに行こう行こう。あそこに辿り着こう。そうワクワク思ったものです。
でも、いざそこに行き着いてみると、直前まで美しく輝いていたそれは、そこにはなく、そのかけらも痕跡も、どこにも見当たらず。
追い駆けて追い駆けて、それでやっと辿り着いた…と思ったのに、おかしいなぁ、この辺にあったはずなのに…。
がっかりしながら、ふと前方に目をやると、ここに確かにあったはずのキラキラが、そこ、前の方、遥か彼方に現われていて。だからその新しいキラキラを、また追い駆ける。
旅の途中、ずっとその繰り返し。

カナダの田舎道は、ひたすらまっすぐで、どこまでも続いていて、目の前に車が走っていることは稀で、視界の妨げになるような人工物は、ほとんどない。
その上、道の前方がアップヒルだったりすると、なおさらのこと、そこに広がるキラキラは、一段と美しく映って見えるもの。
そのキラキラの上に立ち、ちょっとだけ手を掲げれば、頭上の雲々に届いてしまいそうなくらい。それくらい、いまいるところから続くその坂道は、とっても遠く、とっても高く反り上がって見える。
そこへ辿り着いた瞬間、車から翼でも生えたら、そのキラキラを滑走路にしながら、ちょっとだけ助走さえすれば、澄み渡った大空へと、そのままふわり飛んで行ってしまえるのでは…と思ってしまうほど。
その頃ちょうど、テレビで、空飛ぶ修道女の物語“The Flying Nun(いたずら天使)”や、空飛ぶ車の物語“Chitty Chitty Bang Bang(チキ・チキ・バン・バン)”が大人気で、友だちと夢中で観ていたのが、この娘の妄想癖に、思いきり拍車をかけていたのは、言うまでもありませんが〜((+_+))

でも結局、その追い駆けっこの最中に、睡魔に襲われ、いつの間にかゆらり夢の中へ。そうして気がついたら、その日の目的地に着いていて。
その頃にはもう、外は暗くなっていて。慌てて辺りを見渡しても、そのキラキラは、跡形もなく消えている。

キラキラ。そこへ行こうと思って、どんなに張り切って、前へ前へと進んでも、辿り着くことは、永遠になくて…。

そこはどんなところなのかな。スケートリンクのように、スベスベしているのかな。立っていられないほど、熱いのかな。靴下が濡れるほど、水がたまっているのかな。目を瞑りたくなるほど、眩しいのかな。
そこに立ったら、何が見えるのかな。どんな景色が広がっているのかな。

時たま、遥か前方からやって来る車の、その下に、キラキラが輝いていて。まるでそのキラキラが、車を運んでいるみたいで。
“あの車に乗っているひとたちは、今頃どんな景色を眺めているのかな”…と思い巡らせてみたり、“あの車が、キラキラを連れてきてくれるかも”…と密かに期待したり。でも実際こちらとすれ違う瞬間、その車の下には、キラキラはなくて、“なぜ一緒に連れて来てくれなかったのよ!”…と物凄くがっかりしたり。

キラキラ。なかなか近づくことはないけれど、それでも、こころワクワクさせてくれるもの。

そのキラキラが、蜃気楼現象の一種であり、“逃げ水(road mirage)”と呼ばれるものだと知ったのは、それから何年も何年も経ってから。日本へ帰国し大人になり、その光景そのものを忘れかけていた頃、空を飛ぶ夢など、見なくなってしまってから、そうとう経ってからのこと。

そんなカナダでの幼き時代、キラキラを追い駆けていたあの日々、あのこころ躍る思いを、いまこうして懐かしく思い出しているのは、当時たびたび一緒に旅していた、近所に住む友達家族のお母さんが、先日、突然亡くなられたから…。

あの頃、このお母さん一家のトレーラーに先導されながら、一緒にキャンプにバーベキューに釣りにと、ロッキー山脈周辺をよく旅したものです。
そんな時、我が家の車の前方を走る、彼等のトレーラーが、路面に映るそのキラキラに、ふわりふわり浮かんで見えて、いまにも何処か遠くへと、羽ばたいて行きそうで…。
それはまるで抒情的な芸術映画か、あるいは可愛らしい童話の中の一場面か。うっとり見惚れるような、素敵な光景でした。

追っても追っても、でもけっして近づけないもの。そこにあると思って行ってみるものの、実際そこにはなかったというようなこと。そんな瞬間や場面に遭遇すると、幼い頃にカナダで見たあの光景が、ふと脳裏に蘇っては、思わずニンマリしてしまうことも。

人生、何かを追い駆けている時が、もっとも楽しい瞬間で、追い駆けるものがある、ただそれだけでもう、ひとは幸せなのかも知れない。
“本当に大切なものは、目には見えないもの”…とは、キツネが星の王子さまに言った名セリフですが、“この世でもっとも美しいものは、手では触れられないもの”…とも言えるわなぁ…と思ったり…。

ふとした瞬間に、いまでも、あの頃に何度も目にしては、結局は辿り着くことのなかった、あの光景、あのキラキラを思い出します。

こころの中に鮮明に残っている原風景、幼き頃の懐かしい一場面は、大きなイベントや強烈な出来事などではなく、案外こうした些細な一瞬だったりするのですね。
そうしてそれは、どんなに歳月が流れようとも、変わらず、柔らかで温かくて穏やかで優しくて、それはそれは美しくて。色褪せることなく、いつまでもずっと、このこころの片隅に、そっと居続けては、折々にわたしをほっこりさせてくれる。

でも……

ああ、懐かしい、あのキラキラ。
思い出すたびに、その場面に登場するひと。そうしてこれからも、登場し続けるであろう、懐かしいひと。懐かしい過去のひとコマの中に、確実に生き続けるであろう、そのひとが、実際にはもう、この世にはいない。
これはもう、わたしにとり、まるで理解のできない、受け入れがたい現実。まるで実感の湧かない、なんとも言えない…とても…とても寂しいことです……。

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高校までをカナダと南米で過ごす。現在は、言葉を使いながら音楽や芸術家の魅力を世に広める作業に従事。好物:旅、瞑想、東野圭吾、Jデップ、メインクーン、チェリー・パイ+バニラ・アイス。

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